高校時代の私は、いわゆる体育会系で、将来は「デスクワークではない仕事を…」と考えていました。できればバイトなんかが簡単にできないような専門性の高い仕事がしたい。そこでホテルマンという仕事に興味をもったのです。しかし周囲は「もっと物腰穏やかなタイプでないと務まらないんじゃない?」と、当時は無骨な学生だった私に笑いかけました(笑)。
卒業後は、観光専門学校のホテル科に通いました。一番記憶に残っている授業は美食学、いわゆる「ガストロノミー」。先生はイタリアワインの権威とも言われる有名な方で、非常に博識で、毎回私の好奇心をくすぐりました。この先生の影響で、「いつかレストランで働きたいなぁ」と思うようになりました。
就職の頃はバブルの絶頂期。自然の流れで就職先はホテルニューオータニに決まりました。最初の面接で配属の志望を聞かれたのですが、私の前の人までは6人全員が「フロント希望」と言っていたので、私はすかさず「レストラン希望」と言いました。もしかしたら、かの有名な「トゥールダルジャン東京」に配属になるかも!なんて淡い期待もあったのです(笑)。
もちろんそう簡単にはいきませんでした。最初の9ヶ月はブッフェに配属になり、その後、ティー・ラウンジに異動になりました。社内で英語の検定試験にA評価で合格したことで、英語を使える現場、ティー・ラウンジに異動になったのです。お客は半分以上が外国人で、私が「have a nice day」と言えば「you too」などとお客様から返ってくる仕事場でした。紅茶の知識も深め、ウエイターとしての実践力を高めていきました。
入社後しばらくすると、ブッフェなどで単調な作業(例えばカレー補充など)をやっていた同期は辞めていきました。しかし私の場合は、英語や紅茶の勉強、さらにはワインの勉強と、勉強し続けることで未来を描くことができ、そのおかげでモチベーションを高く保つことができました。
私は、ワインが好きだからソムリエになったわけではなく、職業としてのソムリエを選んだのです。学生の頃から専門性の高い仕事をしたいと考えていましたが、当時は専門的な職業といったらソムリエぐらいしかなかったのです。
23歳でソムリエの資格を取得するとレストランに配属になりました。でも最初は「まず料理を勉強しなければ…」と自らウエイターを志願しました。肉の切り分け方や魚の骨の取り除き方、シーザーサラダの提供法などを学んで、それからソムリエとして働いたのです。3年後には念願の「トゥールダルジャン東京」に配属になりました。
ホテルニューオータニ時代の後半は、もっぱらマネージャー職を務めました。それまではプロ職としてソムリエを目指してまい進してきましたが、マネージャー職では求められる能力が明らかに異なりました。人やモノをうまくコントロールし、時には政治的に動く。そしてバランス感覚が求められる頭脳戦の世界。マネージャー職ではジェネラリストであるかどうかが大切だったのです。
そういう意味では、ソムリエの方がラクだったような気もしますね。ワインパーティーなどを仕切ったりすれば、結果を出し続けることができたので。でもマネージャー職ならではのやりがいがあるのも事実です。みんなのリーダーでいること、そして自分が真っ先に決断するというプレッシャーと充実感。あるいはスタッフが指示通りにきれいに動いてくれる時の気持ち良さと感謝の念…など。
2004年、知人からの声がけで「ベージュ アラン・デュカス 東京」で働くことになり、最初はダイニングマネージャーとして働きましたが、今年の1月から総支配人を務めることになりました。ダイニングマネージャーだった時は、あらゆるスタッフに等間隔の距離感で接していましたが、総支配人になるとその目線もガラリと変わりました。以前は“同士としての感覚”だったのに、今では温かい“身内のようないとおしさ”へと変わりました。総支配人になると、人間形成が大事な仕事。プロとして完璧な成果をだせばいい、ではなくなるのです。
この業界で最終的に求められてくるのは「人間性」だと、私は思います。人間性に無関心のまま、スキルばかりを高めてもいつか天井にぶちあたる。人間性は、スキルを上げるための資質なのです。
私がこのように考えるようになったのは、世界的にも有名な先輩ソムリエ・田崎眞也さんの影響を受けたからと言っても過言ではありません。田崎さんはユニフォームを脱いでいる時でさえ、酒の席では最後までボトルを手にしている。素の自分に戻っても、サーブする心を忘れない。そのサービス精神、つまり人間性を私はとても尊敬しています。
考えてもみて下さい。人間的に信頼できないようなソムリエに、出会って数分後に、高価なワインをすすめられたとして、あなたは注文できますか?そう、そんなこと、できないでしょう?