1963年徳島県生まれ。高校卒業と同時に和食の道に入る。大坂での修行を経て1986年にパリに渡り、現地の日本料理店を任される。1991年に帰国後、徳島の「青柳」や「basara」でトータル13年間腕を振るう。2004年に東京・元麻布に「かんだ」をオープンした。
 

季節の旬の素材をふんだんに用いながら、お客様の飲むお酒の種類、お酒を飲む量などに合わせて、同じ食材でもお一人お一人ごとに料理の仕方や味付けを変えてお出しするという、非常にきめ細やかなサービスを行う。ワイン王国・フランスで腕を振るった店主だけに、ワインの知識、品揃えも豊富。また英語・フランス語に堪能な店主の元には多くの外国人ファンも訪れる。

東京都港区元麻布3-6-34
カーム元麻布1階

 
 
 

  「お酒を飲みつつ食事をしたいお客様の“瞬間的な欲求”に気づき、どこまで対応できるか」。料理人としての勝負は、そこにあると思っています。決まったコース料理を出すなら吊るしで既製服を並べるのと同じ。大体のサイズは合うけれどちょっと首周りがきつい、気に入った色がないなどと同じように、どこか不満足な点が出てしまうものです。しかし、カウンター越しにお酒の飲み方を見たり対話したりしながら、お客様個々の体調やペースに合ったオーダーメイドの料理を絶妙のタイミングで提供できれば、何より喜んでもらえるのではないでしょうか。そしてそれこそが、あるべきレストランの姿だと私は考えています。
  料理屋の息子として育った私は、就職時に迷ったり、何かの職業を選択しようなどという発想そのものがありませんでした。「家業に進むのが普通なんだろう」くらいの本当に自然な成りゆき。それで和食の道に進むことになったのです。
  「最低でも3年は頑張ってこい」。そんな父の言葉と共に大坂に行き、洗い場からの修行がスタート。とにかく人が10年で一人前になるなら5年でなりたいという思いがあったため、早く仕事を覚えたい焦燥感でいっぱい。昼の12時から翌朝5時まで働くような、ひたすら仕事の日々を送りました。
  仕事にも慣れてきた20歳くらいの頃、大坂にもフランス料理やイタリア料理の店が出始め、和食のアレンジに洋風素材を取り入れたメニューなども見られるようになってきました。「和食をやる上でも勉強になるかも」と、休日に後輩とフランス料理などを食べに行く機会も増えていきました。
  また勤めていた大坂の店は、企業の接待などで外国のお客様も多く訪れていました。高校時代にロックバンドをやっていた私は、英語を話すことができ、店は重宝したのでしょう(笑)。外国のお客様が見えると対応を任されました。そんなお客様たちから「これからは日本料理が海外でブレイクするよ」としばしば聞かされ、次第に海外で日本料理を極めてみるのも面白いのでは、と思うようになったのです。

  フランス・パリに渡り現地の日本料理店を任されたのが23歳の時。店は日本企業の駐在員や長期出張の商社マンなどが利用してくださいましたが、経営は大変でした。単に美味しい物を出すだけでは、店というのは繁盛しないんですね。日本料理というマーケットがあり競合がある。お客様は“費用対効果”という視点でお店を判断します。大切なことは、いかに「この店で得をした」と思っていただくかです。喜んでもらえれば次もまた足を運んでくださる。絶対に利益から考えてはダメ。利益とは後からついてくるものなんだと実感させられました。
  そういう気づきと共にターニングポイントを迎えたのが3年目です。それからは料理の質そのものを上げるための取り組みから真摯に変えていきました。例えば、だしを取るための昆布やかつお節は、以前から高級食材を日本から輸入していました。だったら水にもこだわるべきなんですね。1本80円、90円するヴォルビックですが、料理の質をキープするためには必要な原価なのです。このようなことを一つひとつ追求して積み重ねていった結果、有名格付けの「ゴーショ」にも取り上げられるようになり、1989年、私が26歳になった頃にはフランスでトップの日本料理店として評価されるようになりました。
  しかし、その栄光とは裏腹に、私は脱力感に苛まれていました。フランスでトップの日本料理店の座を勝ち取っても、地元の有名フレンチレストランにはかなわないのです。当時の私の店の点数は14点。しかし「ロブション」は19.5点を獲得していました。その差が本当に悔しかったのと同時に、海外で日本料理店をやる限界だとも感じました。水質、土の養分、風、気候、街の匂い…。土地が変れば咲く花が変るように、本物の日本料理はやはり日本でしかできないのではないか、と思うようになったのです。

  地元徳島に戻った私は、日本料理の原点、正当な美味しさを突き詰めるようになりました。多大な影響を与えてくださったのが「青柳」店主の小山さんです。一見シンプルな日本料理は、そこに行き着いた思想的、技術的、哲学的な背景があること、実はシンプルに見えても複雑な要素を内包していること。仕事を終えた後もこうした話を通し日本料理とな何か、料理人が目指すべきことは何かを教えてくださったのです。箸の長さからお膳の大きさが決まり、そこから床の広さ、天井の高さなど心地よい空間が作られていく。日本料理とは、人間の営みに合わせすべてが作られていることも学びました。
  27歳でパリから戻った私は「青柳」「basara」で計13年間、煮物、焼き物などなど、日本料理の基本、ど真ん中を追求し続けました。
  そしてこれまでの経験のすべてを踏襲しようとオープンさせたのが「かんだ」です。カウンター6席と6席のテーブル席1室。お客様よりも多い人数のスタッフでお迎えし、オーダーメイド、オートクチュールの最高の時間を過ごしていただくレストランにしました。
  料理人は、お客様個々に対して作戦を立て、闘わなければなりません。常連のお客様ならば好みを把握した上でより欲求に合ったものを、また初めてのお客様ならば選ばれるお酒の種類や、お飲みになるペースを見ながら料理をアレンジする。例えば、最初から最後までお酒のペースが変らなければ、つまみ的な要素を増やしご飯は軽めに設定する。またワイン一杯で楽しまれる方には、素材を炊き込みご飯に仕上げてお食事を楽しんでいただく。温かんが冷めてしまう前に「からすみでもいかがですか?」とさっとあぶってお出しする…。メニューを見て注文いただくのではなく、こんな料理があったら喜ばれるだろうということを瞬時に先回りして判断し、提案できる力が大切なんです。
  特に日本人は、そうした気配り、リニアに反応する対応に喜びを感じてくださいますし、それが「得した」という気持ちに直結していきます。「かんだ」はそうした日本料理の良さを提供するお店です。お客様一人ひとりの様子が伺え対話ができる。この規模だからこそできるサービスを追求し、料理人として全力投球していく。長く愛される秘訣はそれしかないと感じています。