1967年東京生まれ。高校卒業後、武蔵野調理師学校に入学しフランス料理の料理人を志す。卒業後「ラ・マレ(当時)」「トゥールダルジャン」で働き、25歳の時に渡仏。パリ、ブルゴーニュ、ロワールなどの複数の星付きレストランやビストロで経験を積み、30歳で帰国。「ホテル日航東京」「ロオジエ」に勤めた後、2004年に「エメ・ヴィベール」の料理長に就任。
 

パリ郊外に佇む瀟洒な住宅をイメージし、温かみのある石造りの門をくぐるとそこは別世界。
スタッフの出迎えによって2階に上がると、直接フランスで買い付けたアンティーク家具が並ぶサロンが優雅な雰囲気を演出している。
フランスワインを中心に250種類が用意されており、上質なフランス料理に合ったワインをソムリエが紹介してくれる。

東京都千代田区二番町14-1

 
 
 

 僕はこれまでの人生、ザックリとした青写真を描いたら、次は「後先考えず取り合えず行動してみる」という生き方で走ってきました。特別な趣味もないせいか、自然と料理のことだけ考えて生きてきたのも良かったのかもしれませんね。ズルをしないで真面目に働く。料理の世界はやったもん勝ちなので、遠慮しないでどんどんやりたい道に進んでいけば、道は自ずと開けていくと信じています。
 高校の時からラーメン屋さんやお弁当屋さんでアルバイトをしていた私にとって、飲食の世界は非常に身近なものでした。テレビの料理番組を見るのも好きで、特に当時グラハム・カーという人がやっていた「世界の料理ショー」という番組にハマリました。お客さんをスタジオに招いて、おしゃべりしながら料理を作る。それがとっても贅沢な料理で美味しそうで、彼が料理の完成と同時にたった一人だけお客さんを選んでテーブルに着かせるんですが、みんなが「自分が選ばれたい」という顔をするんですね。料理は人を笑顔にするし、気持ちを和ませる。料理人という職業に進むのに迷いはありませんでした。高校卒業と同時に武蔵野調理師学校に入学し、フランス料理を専攻しました。
 しかしまだ当時は、本格的なフランス料理を学んだとは言えませんでした。夏休みの1カ月、実習研修でオーベルジュのようなリゾートホテルで働くチャンスを得て驚きました。そこではじめて「フランス料理とはこういうものか」ということが分かったんです。学校では、カレーやコロッケなどのいわゆる西洋料理の基礎を学ぶ程度。早く社会に出て本物をやりたいという気持ちでいっぱいでした。

 街の親しみやすいフランス料理店「ラ・マレ(当時)」に入った私は、スタッフみんながそうであるようにサービスから担当しました。厨房で働くのは7名。空きがでなければ調理場には入れないわけですが、運良く入店から3カ月目に先輩が他店に移ることになり、スライドで調理場に入ることができました。
 しかし何をやっていいか分からない(笑)。朝お店に行くと、先輩が「下処理やっといて」と声をかけてくれるんですが、食材を前にどうしたらいいのか分からないんですね。このままじゃしょうがないんで、とにかく先輩に聞くことにしました。「どうやったらいいのか分からないので教えてください」。みんなそうやって仕事を覚えてきたせいか、先輩方はみんな親切でした。見本を見せてくれ、手取り足取り教えてくれました。
 そんなふうにして仕事に慣れ、1年半が経った頃です。卒業した調理師学校から電話があり「トゥールダルジャンで料理人を探しているから行ってみないか」というんです。その頃には仕事を覚え一応戦力となっています。勝手に一人では決められませんし、思いきってシェフに相談したわけです。そしたら「お前、そんなチャンスはなかなかないから行って頑張れ」っていうんです。本当に良い先輩たちに恵まれたと思います。「ラ・マレ」は年中無休であまり休みが取れないお店だったんですが、「トゥールダルジャン」に移ってからは少し時間の余裕が取れるようになりました。休みの日は「ラ・マレ」の方たちと合って近況報告したり、勉強のためにレストラン巡りをしたり、よいおつき合いをさせていただきました。恵まれた社会人第一歩でしたね。

 「トゥールダルジャン」ではじめてのグランメゾンを経験した僕は、20名のキュイジニエやパティシエが所属する調理場のスケールにまず驚きました。そして大変だったのは覚えなければならないことが多い、ということ。コース料理が3種類あり、アラカルトは30皿ほどあります。けれどもそうした環境の変化が、僕によい刺激を与えてくれました。
 例えば鴨料理にしても調理法が5種類以上もあるのです。ソースの種類ではなく、料理そのものの種類がです。そうした仕事、料理の奥深さを目の当たりにした僕は「25歳でフランスに行こう」と漠然と考えていたことを実行に移すこを決意しました。ここでも先輩の助けがありました。ブルゴーニュの三ツ星レストランの「エスペランス」で働いていた先輩が他の店に移ることになり、「トゥールダルジャン」に入った電話をたまたま僕が受けたわけです。「お前フランスに来たいなら俺の後にはいればいいじゃないか」。もう考える必要なんてありません。実際に雇ってもらえるかどうかの確認などなしに渡仏です(笑)。25歳になってすぐのことでした。

 フランスに渡ってからは数カ月スパンで様々なレストランを渡り歩きました。まず、先輩の後釜として入った「エスペランス」は、ほとんど押し掛け状態なので給料はなし。でも、ただで三ツ星の仕事が見られるなら僕としては充分です。ただしその後は生活もありますから給料の出るパリの「レカミエ」に移り(笑)、次はロワールの「ベルナール ロバン」、そんなふうにしてパリから地方へ、地方からパリへと移動を繰り返しました。
 フランスの料理界のよいところは、手紙を出しておくと「採用」でも「今はまだ雇えない」という結果でも必ず返事が返ってくるところです。働いたお店では必ずウチではこんな仕事をし、こんなことができる人物だと書面に落としてくれます。現地の責任者が書いてくれるその確かな推薦状と、働きたいという自分が書いたメッセージ。これを手紙にしてたくさんのレストランに送ります。いわゆる“手紙攻撃”で、僕は様々なレストランで職を得て経験を積むことできました。星のつくレストランばかりではなく、素朴で温かいビストロなど本当に様々な形態のレストランで働いたことも非常に良い経験となったと思っています。
 さて、ここにきても漠然とですが「30歳前には帰国し日本で働こう」というのが僕の青写真でした。帰国後ホテル日航東京に職を得た僕は、ホテルが導入していた「3カ月研修」で再びパリを訪れます。この時は非常に冷静に仕事に取り組め、修業時代には見えなかったことがはっきりとしたという経験もしました。心のゆとり、そしてキャリアを重ねることは大切なことなんだと実感しました。
 現在「エメ・ヴィベール」で総料理長を勤める僕は、自分自身が無鉄砲に進むことでキャリアを積んできたためか、若い人たちにも「思い立ったことはどんどんやりなさいと言いたいし、来るものは決して拒まない」というスタンスでいます。ただ一つ、大切な事は「ズルだけはしないで真面目にやろうね」ということ。この世界、自分で積極的にやってきた人の勝ちですから、若くても経験が浅くても臆せずチャレンジしたほうがいい。これは僕自身の経験からはっきりしていることです。