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第100回 株式会社とり鉄 代表取締役社長 小林剛氏
update 10/02/02
株式会社とり鉄
小林剛氏
株式会社とり鉄 代表取締役社長 小林剛氏
生年月日 1970年11月、東京都生まれ。
プロフィール 日本人の父と朝鮮人の母を持つ。3人兄妹の真ん中。姉と妹がいる。母は5歳の頃からスナックに勤める。将来の夢は、社長。一時、飲食業は敬遠していたものの、株式会社タスコシステムの創業者高田氏と出会い、この事業に傾倒していく。タスコシステムへの入社は、29歳の時。年齢的には、ずいぶんと遅い業界デビューだったが、入社からわずか2年でとり鉄事業部長、2007年には株式会社とり鉄 代表取締役社長に就任している。
主な業態 「とり鉄」
企業HP http://www.tori-tetsu.com/

10歳で母が、15歳で父が、蒸発。2つの、民族の血の狭間で苦しんだ。

小学2年生まで朝鮮学校に通い、3年生になって日本人学校に転校。「日本人と朝鮮人のハーフ」と小林がいうように、言語も、文化も、風習も異なる2つの民族の血が彼には流れている。本人が意識しなくても、周りが、それを教えていった。
小林が生まれたのは、1970年11月。日本人の父と朝鮮人の母は、結婚を許されず駆け落ち同然で里を離れる。大阪で姉を産み、小林が生まれる頃には許され、東京に戻っていた。いったん許されたものの、母が親戚に黙って日本人学校に通わせたことでふたたび親族の態度が硬化する。小林、本人にも冷ややかな目を注がれた。
裕福なら違っていた。少年の怒りの矛先は父に向かった。酒を飲み、窓ガラスを割り続けた父。父のことを語るとき、小林の言葉には棘がでる。サラリーマンだった父を向上意欲のない人間だったとばっさりと切り捨てる。
彼の父は、家庭を壊し、小林が15歳のとき、家財のすべてを持ち出して蒸発した。親が突然、いなくなる。これが2度目の経験だった。最初は、小学生3年の時、母が妹だけを連れ、突然、家をでた。残されたのは、姉と小林と父。「毎日、200円を握りしめて姉といっしょに買い物に行くんです。レトルトパックのハンバーグとかを買って、温めて分け合って食べた、それが夕食だった」と振り返る。
その後、ふたたび家族5人の暮らしが始まるのだが、結局は、それもまた父が壊してしまった。ちょうどその時、高校の進学が決まっていた。帝京高校だ。サッカーが上手な小林には、クラブのOKも出ていた。だが、父が家にある金を持ち去ってしまったことで、あきらめざるをえなくなったのである。唯一のよりどころでもあったサッカーまで奪われてしまったことになる。
2次募集で都立高校に進学できたが、生活は、荒れ果てたものになってしまう。サッカーでは、学校で一人選抜に選ばれもしたが、練習にも参加しなかった。唯一、小林の心にあった希望の星といえば、叔父から言われた一言だった。
「いいか、お金持ちになれ、それがすべてだ」。

有能な経営者との出会いと、タスコシステムとの出会いが運命をかえる。

小林の母は、小林が5歳の頃からスナックでアルバイトをはじめ、11歳の頃には一つのお店を経営するまでになっていた。バブル期には、絵にかいたような金持ちがやってきた。小林は15歳から、その店を手伝っている。可愛いがられた。2度の大学受験に失敗し、憔悴しているときに救いの手を差し伸べてくれたのは、そのうちの一人。「かぁちゃんを手伝うのもいいが、外に出て力をつけろ」と言われたそうだ。
何千億の資産を持ち、後に、和議申請により負債を抱えることになるこの人物は、叩かれてもタダでは起きなかった。その姿を間近で見て「あきらめない強い男の背中」を小林は初めて見ることになる。「あきらめない」、小林の信念の一つが生まれる。
6年半、その社長から薫風を受けたのち、小林は独立を前提にある焼き鳥屋に修行に行く。それが28歳の頃。30歳になる年に、当時、急成長していた「株式会社タスコシステム」に入社。「とり鉄」を任されるようになる。
ここから先の小林にとって「とり鉄」は不可欠な存在になる。自分のアイデンティティを確立してくれたのも「とり鉄」といってはばからない。
とはいえ、当時の小林はまだ年齢も若く、はねっ返りと思われても仕方のないような言動もとっていた。だが、有言実行。店を任された小林は、業績をまたたくまに上げていった。もちろん、その裏には壮絶な戦いがあった。徹底的に勉強もした。店に泊り込んで、飲食関連の書物を読み漁り、分からない言葉に出会うとネットで検索を繰り返した。夜はすぐに朝になり、朝はすぐに夜になった。寝る間などなかった。
その結果、当初、お荷物的な存在で、赤字を重ねていた「とり鉄」が、瞬く間に黒字に転換していくのである。社長の高田氏との距離も縮まり、「コバ」「コバ」と呼ばれるようになる。それが小林には嬉しくてたまらなかった。

第二の父には、いっぱしになるまで会いに行かない。

さて、小林が「第二のおやじ」と心で呼ぶこの高田社長は、いうまでもなくタスコシステムの創業者。急成長後に脚光を集めたタスコシステムだが、やがて債務超過に陥り、ファンドの支援を仰ぐことになった。高田社長は、その際に責任を取るように辞任している。 
資本が入れ替わると、小林の周りの人間はほとんど去っていった。「結局、去っていった先輩たちと入れ替わるようにぼくが要職に付くことになり、やがて『とり鉄』の経営まで任されるようになったんです」と小林は、経緯を語っている。
「再生」。小林に任されたのは、実はその2文字だ。「第二のおやじ」がやり残したことを引き継ぎ、蘇生させていくことが、小林に課せられた使命。重い十字架だが、あきらめない限り、できると小林は信じている。
かつて叔父に言われ、希望になった一言。それは「金がすべて」ということだった。いまもそう思っているか、と尋ねれば、小林はおそらく否定はしないだろう。
しかし、それだけではなくなった。「いつか札幌に高田社長に会いに行くんです。昔の知り合いは、ちょくちょく行って会っているようなんですが、ぼくはまだ行けない。相談したり、聞いてもらいたいことは、いっぱいあるんですが。いっぱしの人間になるまでは会わないと決めたんです。社長からはコバはどうしてる? なんていってもらってるようなんですけど、まだ行けない」。
「いっぱし」の条件はお金の多寡ではないだろう。かつて高田社長がやろうとしてやり残したことを実現すること。それで「いっぱしになったこと」を証明しようとしているのではないだろうか。そのときが再会の時。もう、お金じゃない。その目標がいま小林を、走らせている。

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