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第1039回 株式会社麺屋とがし 代表取締役 冨樫達也氏
update 24/08/27
株式会社麺屋とがし
冨樫達也氏
株式会社麺屋とがし 代表取締役 冨樫達也氏
生年月日 1981年1月30日
プロフィール 山形生まれ。両親がラーメン店を経営していたことから、無類のラーメン好きに。東京の調理師専門学校を卒業し、一年間のアルバイト生活を経て麺屋武蔵に入店。約3年間修行を重ね、若干23歳で麺屋とがしを開業した。現在宮城県に6店舗を構え、麺屋とがしグループを圧倒的なブランドにすべく、海外進出を計画している。
主な業態 「麺屋とがし」「ラーメンみなもと屋」「らーめんかいじ」他
企業HP https://menyatogashi.co.jp/

ラーメンの味と香りで育つ。

冨樫氏の両親が故郷山形に「三久ラーメン」を開業したのは、彼が3歳の時。昔ながらの醤油ラーメンと塩ラーメンを中心に、チャーハンや中華丼などの定番料理が並ぶその店は、なかなかに繁盛していたという。幼少のころからラーメンの香りに包まれて育った冨樫氏の、中学・高校時代のアルバイト先は当然ながら親の店。そこで両親の働く姿やお客様とのやりとり、そして「美味しかったよ、ごちそうさま」と言ってくれるお客様の笑顔に触れるうちに「ラーメン屋っていいな、将来は飲食にかかわる仕事がしたいな」と思うようになった。
高校卒業後、冨樫氏は東京の一年制調理師学校へ入学。調理の基礎を学びつつ、自分が進むべき道を模索する。和食、洋食、中華とさまざまなジャンルがあるが、どれも今一つピンとこない。一方、専門学校時代のアルバイト先に大好きなラーメン店を選ぶなど、ラーメンと距離を置くことは一度もなかったという。
「やっぱり自分はラーメンかな……」。
専門学校を卒業したものの、まだ自分の進むべき道に確信が持てなかった冨樫氏は、すぐには就職せずフリーターになった。東京中のラーメンの名店、有名店を食べ歩くうちに、ラーメンの面白さ、奥深さに改めて気づかされていく。
「やっぱり自分にはラーメンしかない!」
星の数ほどあるラーメン店の中から3つの修行先候補を選んだ冨樫氏は、両親に山形から上京してもらい、先輩としての意見を求めた。
「この店はなんといっても接客がいい。ここなら勉強になるんじゃないか」。
それが麺屋武蔵だった。

約3年間の修行時代。

麺屋武蔵での修行は厳しかった。都内でも有数の人気店とあって、オープンから閉店までずっと満席。新人として洗い場を任されていたが、当時は手洗いだったこともあり、それだけでも重労働だった。その頃は仕事の厳しさから離職率も高く、加えてクセのある店長が突然理不尽なことを言ってくることも幾度となくあった。ただ黙って我慢するだけのメンバーが多い中、黙っていられない冨樫氏は「それはおかしいじゃないですか」と食い下がり、そのせいで揉めることも少なくなかった。
― 辞めようとは一度も思わなかったのですか? −
「一度も思いませんでしたね。耐えられるレベルだったし、同じ志を持った仲間もいて、乗り越えられたかなって」
ここで“同じ志を持った仲間”というキーワードが登場する。仲間に対する信頼と仲間を思う気持ちは、冨樫氏の揺るぎない軸であり、経営における重要な判断材料のひとつでもある。
「あと、当時副店長だった矢都木さんがちゃんと僕を見ていてくれたんで」
矢都木さんとは、のちに株式会社麺屋武蔵の二代目社長になった矢都木 二郎氏のことだ。
「僕が武蔵を辞めると決めたころにちょうど4号店がオープンして、矢都木さんがそこの店長になりました。『最後に一緒に働こう』ってご指名を頂いて、それで辞めるまでの最後の3か月間を手伝いました」。
武蔵を去った後も矢都木氏とはいい関係で、今も交流が続いている。

23歳で一国一城の主に。

地元山形に戻った冨樫氏は、夢の実現に向け早速動き出した。当初は山形での開業を考えていたが、「山形より仙台のほうが都会だし」という親のアドバイスを受け、仙台に出店することにした。
記念すべき1号店は、仙台市の南光台と決めた。土地勘はなかったが、賃料の安さや周辺住民の生活圏内という立地がポイントだった。
「自己資金は足りなかったけど、家族の支援もあったんで。ラッキーでしたね」
内装工事にコストがかかるスケルトン物件だったため、厨房機器への出費は最低限に抑えた。食洗器や製氷機もない状態でのスタートだった。
2004年7月12日、『麺屋とがし』誕生。
冨樫氏はこの時若干23歳。大卒ならやっと社会人一年目という若さで、一国一城の主になった。

「すごい店があるぞ!」たった3週間で行列ができる店に。

「自分の理想の味、理想の店を作る!」と開業してはみたものの、オープン当初は集客もままならならず、ランチタイムにお客様ひとり、という日もあった。
ところが3週間ほど経ったある日、店先にいきなり長蛇の列が現れたではないか!
『麺屋とがし』が提供するラーメンは豚骨+魚介の濃厚スープに太麺というインパクトの強い商品で、当時の仙台にはまだなかったいわゆる新ジャンルだった。それを食べた地元のラーメンフリークが、自身のラーメンサイトに「おい、みんな!すごい店があるぞ!」と取り上げたことから、その人気に火が付いた。
いきなりの盛況ぶりに「かなりビビった」という冨樫氏。まだ若く体力もあったため、最初の頃は1日限定100杯と決め、仕入れから仕込み、接客、清掃までずっと一人で対応した。

出店は常に社員のため!

―2号店を出したのは創業から6年目ですが、何がきっかけだったんですか?−
「社員があふれてきて、彼らに良くしてあげられなくなっていたんです」
1号店が有名になるにつれ、「ここで働かせてください」という若者も増えてきた。気が付けば店は社員であふれ、次のステップを用意してやることもできない。やる気のある社員にもっと経験させてやりたい、それぞれの実力にふさわしいポジションを与えてやりたい……。社員のステップアップを考えて出店した2号店も順調で、それに伴いまた新たな従業員が増えていった。
「でも3号店はダメでしたね。厳しかったんで2か月後にはリニューアルして、それで少しずつ上向いてはいったけど、あまり調子は良くなかった。でも社員はまだあふれていたので、8か月後には4号店を出しました。でもむちゃくちゃ調子悪かったですね。そのあたりがどん底かな」。
「経営力が足りなかったんですよね。1、2店舗なら自力でなんとかなるけど、3店舗以上はそうもいかない。なので経営については本から学びました。会社っていうのは、社長次第ですべて決まる。だから何が悪かったのか、それを深く考えて行動に移していくだけだと思っています」。
「今までで一番辛かった思い出は?」との問いに、「1号店でひとりで100杯作っていた時代」と「3,4号店の出店」を挙げた冨樫氏。体力的、経営的限界を経験するも、人員がまとめて抜けるような従業員がらみのトラブルは一度もなかったそうだ。それこそ、仲間を一番に思う冨樫式経営の賜物といえるだろう。
“情熱あふれるラーメンと、おもてなしの心で、お客様に感動、幸せ、喜び、元気、笑顔を提供し続けると同時に、パートナー全員の物心両面における幸福を追求する事”を理念に掲げる『麺屋とがし』は、現在宮城県に6店舗を構えるまで成長した。自社製麺所やセントラルキッチンも有し、仙台のラーメン界で揺るぎない地位を獲得している。

麺屋とがしグループを圧倒的なブランドに。

― 今後の出店計画はいかがですか? ―
「仙台での出店はこれで終わりの予定です。今年は海外進出を目標にしていて、年内にはフィリピンに出す予定です」
今後予想される人口増加と日本からの距離、そしてうちの商品がフィリピン人の味覚に合うこと、英語が通じること……。現地を訪れた冨樫氏は「いける」と判断。社内には海外にチャレンジしてみたいという社員もいる。やる気のある彼らに任せ、残りのスタッフは現地で採用すればいい。
「経済大国アメリカにも通用するような圧倒的なブランドを作りたい。それが僕の目標です」
― 最後にひとつだけ……社長はお父上の店を継ごうとは思わなかったんですか?屋号とか、味とか? ―
「何かしらの形で店を継ぐとは考えていましたが、最終的には店を継ぐ事は僕のエゴと思えて仲間のためにならないと思い諦めました。それに三久ラーメンの味を僕達が再現しても、親が作ったあの味にはならない。味というのは人柄も含めてのものだから、僕達が作ったら僕達の味になる。でも僕の原点は間違いなくあの店。店名ではなく、魂として引き継いでるんです」
冨樫氏のラーメン魂を引き継ぐ若者が海外に羽ばたく日は近い。

思い出のアルバム
 

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