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第106回 株式会社ゴダック 代表取締役 荒谷公彦氏
update 10/02/23
株式会社ゴダック
荒谷公彦氏
株式会社ゴダック 代表取締役 荒谷公彦氏
プロフィール 東京都出身。幼少期から、独自の視点で物事を洞察し、深く思考する少年だった。小学生時代から早くもビジネスに興味を持ち始めた。「東京水産大学(現、東京海洋大学)」を卒業し、食品商社に入社。食材を求めアラスカなど海外各地を渡り歩く。その後、貿易会社を設立。それがゴダックの始まり。一方、仕入れた食材を活かすため飲食事業を開始。100%シーフードの「GINZA KAZAN」をはじめ、現在、4業態4店舗を展開している。いずれも食材にこだわり、価格を吟味、デザインにも凝った顧客目線から生まれた店舗である。「GINZA KAZAN」は日経大人のレストラングランプリ店にも選ばれている。
主な業態 「GINZA KAZAN」「MASQ」など
企業HP http://www.godak.co.jp/
成田空港のロビーに立つと仕事モードになる、という。もう何度も潜った世界への扉だが、そこに立つとやはり気持ちは高ぶるのだろう。「今回は、どんな食材と出会えるのか」、思いはすでに現地へ飛んでいる。
今回、ご登場いただく荒谷公彦は、「貿易事業」「レストラン事業」「ヘルスケア事業」を営む(株)ゴダックの代表取締役、社長だ。いずれの事業でも、新たな価値を追求する荒谷。「レストラン事業」であれば、日本の食文化に負けない「食ビジネス」の創造。これがキーワードになる。

屋敷から引越し、2階建ての家に移る。1Fに母が小さなレストランを開業。

荒谷は、東京都出身。物心がついた時の住まいはダンスホールもついた大きな家だったが、彼が小学1年生の時に、この家を失い、波乱の人生の幕が上がる。まず引越しが始まった。引っ越したのは新宿の小さな家。母が1Fにレストランを開いた。このレストランが繁盛したことで、生活に苦しむまでには至らなかったそうだ。
さて、この当時の荒谷にはいくらでも切り口がある。一つは、父に連れられ、温泉やスキー、同時に麻雀に興じ、馬券も推理する「少年荒谷」。もう一つは、「少年実業家の荒谷」である。ベーゴマを売買し、差額を駄賃にした。「福引ビジネス」と名づけ、デパートの従業員も巻き込んだビジネスも展開している。荒谷に語ってもらおう。「デパートとかで福引ってやるじゃないですか。500円買い物したら1回当たりくじが引けるっていう。ところが、ちょうど500円なんてことはない。500円に満たないか、たいてい700円とか、800円とかで端数がでる。それを利用できないか、と。デパートの従業員と親しくなりましてね。端数のレシートをもらうんです。それを集めて、毎日、何十回と福引していたんです」。景品は友だちにも配ったそうだ。まず、端数に、気づいたことに驚かされる。しかも、戦術一つとっても、大人顔負け。優れた起業家の片鱗をすでに見せ始めていたのだろうか。
もう一つ加えるなら、「映画好き少年荒谷」である。映画館に通い、週に5本以上の映画を鑑賞したそうだ。当時の、勧善懲悪、ハッピーエンドの映画に心を弾ませる。だが、一方で、映画の制作費について考えるなど、大人びた思考をする少年でもあった。
周りと比較するのは簡単だ。だが、俯瞰すれば、比較すること事態が無意味に思えてくる。あどけない少年たちのなかで一人屹立した少年像が、いくつかのエピソードを通し、浮かび上がってくる。

天性の舌によって、天与の味覚が育まれていく。

ところで、荒谷と「食」との関係はいつ頃、生まれたのだろうか。母が始めたレストランもその一つだろう。「母は天性の舌を持っていた」と荒谷はいう。お世辞ではなく、母の料理食べたさに、連日、店の前に行列ができた。荒谷家の食卓の料理も、頬が落ちるほどうまかったに違いない。「少ない量でも、美味しいもの」が、荒谷家の食卓のルールだった。
天性の舌と母の愛情によって、荒谷の天与の味覚が覚醒していく。ちなみに、日本でも荒谷ほど味覚に鋭敏な人間もいないだろう。それは、これから後、荒谷が世界各地から仕入れる食材によっても証明されている。
一方、こうした安定した生活も長くは続かなかった。開店して5年後、荒谷が中学に上がるときに閉店。客のツケの多くが焦げ付いてしまったからだ。店を失うのは同時に住まいを失うことを意味していた。もう一度、引越しが始まった。親子が窮屈だが、なんとか暮らすことのできる小さな家だ。荒谷の言葉を借りれば、「最初の家では何十とあった水道の蛇口が、ついに1つになってしまった」とのことだ。「1円の大事さ」が骨身に染みたのもこの頃である。
このように生活が苦しくなっても、心まで貧しくはならなかったのは、強く、朗らかに活きる両親の姿があったからだろう。赤貧のなかで荒谷は、初めて勉強に向き合うようになる。都立高校を経て、東京水産大学(現、東京海洋大学)に入学。卒業後、海外を知りたいと、食品の貿易商社に入社。入社2年目にして、そのチャンスが訪れた。

中・高・大と駆け上がった少年は、青年となり「アラスカ」の夜に凍えた。

初めての赴任先はアラスカ。考えられないような寒さだった。「冬になると日照時間はわずか2、3時間。それもストンと幕を下ろしたようにいきなり真っ暗になる。室内にいても、寒くて、スキースーツを着て、軍用の毛布にくるまり眠る毎日です。室内に氷柱ができ、それを氷にして水割りを飲んだこともある。月光が部屋に差し込んできて、その下で会話していると、息が凍り、キラキラ舞うんです」。
寒さと同時に仕事もきびしかったようだ。3ヵ月の間、毎日睡眠は2〜3時間。ひどいときには10日で10時間しか眠らなかったという。「歩きながら眠るっていうのを初体験しました。ガクって膝をついて、目が覚めるんです」。
たいへんだったが、青年荒谷が、人間的にも成長した時期だったのではないだろうか。子どものあどけない顔は、アラスカの寒気に打たれ「強い男」の顔になっていったはずだ。

究極食材を求めてニューカレドニア「天使の海老」を世界一に

この食品輸入会社を退職し、1995年に興したのが(株)ゴダックである。「海外で食材を開発する、輸入する貿易事業」が主流を占め、2002年に立ち上げた「飲食事業」がつづく。両者は、無関係のようだが、実は、密接にむすびついている。ホームページをみれば明らかだ。
「世界には素晴らしい魚貝類が点在しています。その中でタスマニア島のノロウィルスが存在しない生牡蠣キャッツアイ、そして世界一芳醇なアミノ酸を有するニューカレドニアの天使の海老を開発できたことは大きな感動でした。その究極素材を料理し、提供できることの喜びをかみしめています。ひとつひとつの素材の持つ優れた味覚とエネルギーを感じて頂ければ幸いです」。
世界中を探し「おいしい食材」を仕入れるだけではなく、その食材の最高のポテンシャル引き出し、食していただくために「飲食事業」という、もう一つのチャンネルが生まれたのである。ちなみに、ホームページに掲載されている文言は、すべて荒谷が練り上げた言葉である。

2002年「GINZA KAZAN」オープン。荒谷が、飲食業に示した解答だ。

「日本の食文化は、素晴らしく成熟されている反面、食ビジネスには、まだ足りないものが多すぎる」と荒谷はいう。母がレストランを開業した小学生時代から「食」に関わってきた荒谷の素直な言葉だ。飲食の先輩でもある母は「飲食はやるな」と反対したそうだ。「所詮、飲食など水商売に過ぎないから」と。たしかに、いまだ飲食業を金儲けの道具と考えている経営者もいる。あまりに貧相な発想だ。その発想が「食ビジネス」を貶めることに気づかないのだろうか。
2002年、いままでにないまったく新しいスタイルのレストラン「100%シーフードのGINZA KAZAN」を出店することで荒谷は、一つの答えを示した。「100%シーフード」「禁煙」「女性客中心」、いまでは珍しくないこともあるが、当時は、いずれも画期的な試みだったのである。この店がブレイクする。そして鮨「鰤門(しもん)」、和牛ステーキ「MASQ(マスク)」、ワインバー「GOSS(ゴス)」と全く違う業種でこれまでにはなかった新しいコンセプトで「新しい食」を世に送り出す。
「食のビジネス、真摯に取り組んでいる我々だからできた解答だ」と荒谷は胸を張る。それでも、まだ偉大な「日本の食文化」に追いつけたわけではない。
勝負はまだまだこれからである。日本の偉大な食文化に恥じない、「食ビジネス」を日本で立ち上げる。夢だけでは終わらせない。この志に惹かれ、集まってくれる人材と手を組むことで、いずれ夢は実現するときがくるはずだ。

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