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第107回 株式会社はせ川 代表取締役 古塚建一氏
update 10/03/02
株式会社はせ川
古塚建一氏
株式会社はせ川 代表取締役 古塚建一氏
生年月日 1967年、兵庫県西宮市生まれ。
プロフィール 兄弟は兄一人。当時、まだ田畑が残っていた西宮市で、両親は野菜農家を営んでいた。幼少の頃はそれを手伝い、小学校低学年から剣道にはまる。高校からはラグビーに転進。大学まで続け、卒業後はある建設空調機器の会社に。営業として成績は良かったが独立志向が強く、和菓子の製造・販売や飲食店経営などを行う某有名飲食企業A社に入社。店長を経て、販売企画部門でも辣腕を振るう。33歳の時に独立し、日本料理店を開業。その店でタレントの島田紳助氏と出会い、共同経営で「はせ川」を出店することになる。
主な業態 「はせ川」
企業HP http://www.sushi-hasegawa.com/
「いっしょにやらへんか」。島田紳助氏からそう誘われたのは、古塚建一が、ちょうど二店舗目の出店を考えていたときだった。二つ返事で了解する。島田氏との付き合いは、1年程度に過ぎなかったが、雑誌の取材を通して知り合った二人は最初から意気投合した。何度か会ううちに、古塚はますます島田に傾倒していく。だから、二つ返事で「やらせてください」と答えたのも当然のことだった。古塚と島田氏。二人の考えが一つの明確なコンセプトとなり、共同出資で人気店「はせ川」が誕生した。今回は、この「はせ川」の産みの親の一人、古塚建一に登場いただこう。

剣道やラクビーに明け暮れた少年時代。

1967年、古塚は、兵庫県西宮市に古塚家の次男として生まれる。阪神間にある西宮は、いまでは住宅街として有名だが、当時はまだ田畑が残っており、古塚家も野菜をつくる農家の一つだったそうだ。だから古塚の幼い記憶には、こうした田畑の風景があらわれる。田畑で走り回っていた古塚だが、小学校に上がるとすっかり剣道に魅せられ、中学卒業まで剣道一筋だったそうだ。腕前を尋ねると「市で優勝する程度」と答えが返ってきた。
高校に入るとラグビーに目覚め、大学も推薦で、ラグビーで有名な大学に進学。大学卒業後、東京の、ある建築空調設備の会社に就職。古塚は営業部に配属されるのだが、バブルの頃で、おもしろいように売れたそうだ。「ノルマもあったんですが、1週間もすればすぐに達成できるもんですから、後はパチンコに行ったり、いま思えば、アホな時間の使い方をしていたもんだと思いますね」と、振り返っている。
とはいえ、古塚は、この会社で過ごした3年間で、自ら商売をするという決意を固める。経営を学ぶため、滋賀で和菓子店と日本料理店を経営する某有名飲食企業A社に転職したのはそのためだ。「経営を一から学ぼう」と青年、古塚は希望に胸を膨らませ、A社のトビラを叩いた。

言われた仕事だけしているのか。その一言で覚醒する。

ところが、与えられたのは、工場ラインでの菓子の製造だった。次第に不満が溜まっていく。3ヵ月後、ついには社長に「辞めたい」と直談判することになった。この時、社長から言われた一言が、古塚の転機となる。「お前は言われた仕事だけやっているのかって。なるほどせやな、と。それから、モノを考えるようになったんです。同じ菓子をつくるにしても歩留まりはどうか、などと考えるようになりましてね。考えては、会社に提案するんです。すると、ライン以外のことも任されるようになり、しまいには、1年目の若造だったにもかかわらず数千万円投資する新たな設備の開発なんかも担当させられるようになったんです」。
古塚が人生の恩人を挙げるとするならば、A社の社長も間違いなくそのうちの一人となる。少年時代から、モノを考えるのが好きで、剣道でも、ラグビーでも自分なりの工夫やアイデアを行ってきた古塚に、社会に出ても同じことができると教えてくれた一人だからだ。

念願だった店舗に配属されたことで自信をつけ、独立を決意。

念願かなって、店舗に配属された古塚は、つぎつぎに新機軸を打ち出していく。京都や東京日本橋の有名百貨店で店長になり、売上を拡大していく。その業績も認められ、3年後、販売本部にある「販売企画部門」に異動。店舗の出店計画やコンセプトづくり、企画に携わることになる。店舗数も一気に増えていく。このA社で古塚は、企画することのおもしろさを覚え、アイデアを確立する手法や成功へ導くノウハウを自ら編み出すことになる。結局、33歳で独立を果たすことになるのだが、周囲の反対を押し切っても、独立を決意できた裏には、情熱に加え、A社で身に付けたものへの自信があったからに違いない。
さて、古塚が最初に構えたのは、日本料理店だった。「料理人という職人にサービス精神を身につけさせることで、いままでにない店ができる」。古塚は、一つのコンセプトを打ち出した。それが、ヒットした。

料理人に接客サービスの心得を移植した新店舗。その店で島田氏とも出合った。

古塚の店では料理人も直接、顧客と会話する。個室へもあいさつに行く。「そういう風にして、お客様と接することで、発想のもとが違ってくるんです。たとえば、なんらかの理由で、商品をお出しするのが遅れて少し冷めてしまった。普通なら、早く出せよってなるんですが、うちは違う。温め直してくださいとホールが厨房に注文するんです。そういう徹底的な顧客目線ですから、職人の意識も変えなくっちゃいけないんです」と古塚はいう。料理人といえど、お客様をみて仕事をする。それが古塚の店のルールだった。そして、この店で島田氏と出会うことになる。出店から3年目、2店舗目の出店を模索していた頃に、島田氏から思わぬ申し出があったわけだ。こうして、二人は出会い、「はせ川」は誕生するのだが、もう少し、古塚の話を続けよう。

「いっしょにやらへんか」から4年。二人は成功を収め、絆を強めた。

古塚自身も実は料理ができる。だが、古塚は自分の本職を事業のプランナーだという。A社にいた頃から、手がけた企画書や事業計画書は、相当数にのぼる。「店の運営にしても、メニューにしても、いつもお客様をいい意味で驚かしてやろうって考えているんです。親方の紳助さんと『はせ川』をやるようになっても、その気持ちは変わりません。今度、こんな店をしたいんだが、と相談には行きますが、ほとんど任せてくれていますから。逆に親方の方からこんなのをしたいんだが、って話もきます。おもしろければ、じゃぁやりましょう、と。『はせ川』では、寿司と和食を一つにしています。だいたい、寿司職人と和食の料理人じゃ、まるで畑が違うんです。それを高いレベルでいっしょにしようと。そういうアイデアから生まれたお店なんです」。アイデアを重視する一方で、古塚は、「経営は人ありき」という。「いくら素晴らしいアイデアでもそれを活かすのは人だから」である。だから、古塚は人が育つまで次の出店は行わないと決めている。採用も寛大である。来る人拒まず。「ただ、いま欲しいのは、こういう店を出しましょう、といってくるような人」と古塚。まるで、自分の分身を求めているようにも思える。2010年2月現在で、「はせ川」は業態の異なる5店舗を経営している。島田氏が「いっしょにやらへんか」と声をかけてくれてからおよそ4年。島田氏はこんな風にも言ってくれたそうだ。「最初に会った時から、店をいっしょにやるのはこいつやと決めてたんや」。ありがたい話である。ちなみに、はせ川は、島田氏の本名。オープン時にはTVに取り上げられたこともあり、連日、問い合わせの電話がなり続け、専属のオペレーターまで雇ったとのこと。その発想もまたおもしろい。

最後に古塚建一の経歴を簡単に整理しておこう。
1990年 大学を卒業
同年より サラリーマン生活を送りながら独立のための経験を積む
1996年 結婚
2001年 33歳の時、念願の独立を果たす。京都に新和風ダイニング「風ホノカ」オープン
2003年 雑誌の取材を通じて、島田紳助氏と運命的な出会いを果たす。
2005年 寿司「はせ川」オープン
2006年 京風鉄板「はせ川」オープン、「BAR HASEGAWA」オープン
2007年 寿司「はせ川」 西麻布店オープン
2008年 しゃぶしゃぶ「チョモランマ」オープン
2010年 新店舗オープン予定

ちなみに、古塚は、島田氏のことを尊敬の気持ちも込め「親方」と呼ぶ。懸命に努力すれば、誰かが手を差し伸べてくれる。人生は、だから、おもしろい。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
20歳頃 大学生ラグビー部 20歳頃 大学生アルバイト 23歳頃 社会人
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