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第1103回 エレガントエース株式会社 代表取締役 張 瀟俊氏

update 25/06/17
エレガントエース株式会社
張 瀟俊氏
エレガントエース株式会社 代表取締役 張 瀟俊氏
生年月日 1988年12月22日
プロフィール 中学生に上がるタイミングで来日し、日本で中華料理店を経営する料理人の父のもとへ。異国の言葉はわからなかったが、数年で克服。大学卒業と同時に、業務委託で大箱の飲食店の運営を開始。2年後、新店をオープンし、エレガントエース株式会社を設立する。
主な業態 「鳥居くぐり」「町田屋」「肉ビストロ居酒屋BISON」「RENGARO」他
企業HP https://elegant-ace.com/

中学生、海を渡り、ゲームの国へ。

張さんは、1988年12月22日、上海に生まれる。39歳で単身来日した料理人の父は、新宿の中華料理店で仕事を始め、のちに共同経営を開始。来日して2年後に、妻と1人息子を招き、移住を決意する。息子である張さんが中学に上がるタイミングだった。
張さんは、クラスで唯一「ゲームボーイ」をもっていたが、日本に特別な印象はもっていなかった。
「中国でも、日本のアニメは放映されています。だからコナンとか、北斗の拳とか、ドラゴンボールとかは好きでした。当時、日本のことはアニメとゲームの国だって思っていた気がします(笑)」。
ゲームとアニメが、少年の中の日本だった。
ところで、張さんが生まれた1980年代の中国は、「一人っ子政策」が敷かれていた。正確には、1979年〜2015年まで敷かれている。
「私も、当然ですが、一人息子です。だからと言って、甘やかされたわけじゃなく、忙しい父母にかわって、中国ではよくあることですが、祖父母に育てられました。父や母ですか? とりわけ、こわいとか、怒られたって記憶はない。ルールは大事にしないと怒られましたが、『勉強しろ』と言われたこともないんじゃないかな」。
張さんの祖父は、有名なホテルのシェフ。だから、親戚筋にも料理人が多い。父親もその1人。
「両親はいま、上海に戻って暮らしていますが、私は日本で結婚もしたし、友達も日本人ばかりだから、中国に戻る気はありません」。
来日して、24年。中国で暮らした時間の、およそ2倍にあたる長い時間を日本で過ごしている。
「来日したときにはもちろん、日本語はわからないし、喋れません」。共通語があるとすれば、アニメとゲーム。それでも、普通に通学を開始する。
「来日して通ったのは日本語を勉強する学校ではなく、普通の中学校です(笑)。乱暴な話ですが、じつは、そのおかげで、発音も、ほぼ日本人とかわらないんです」。
「中国人からヘンな日本語を聞かされなかったから、日本人とかわらない発音ができるのだ」と張さんはいう。ともかく、ゲームの国は、ゲーム以外にもなかなか刺激的だった。

「やべぇやつが来た」。中学校の話のつづき。

「同じクラスの生徒は、私が日本語を喋れないし、分からないのは知っていました。年齢も違って、私が一つ上。中国と日本では、卒業月が違うのでそうなってしまったんです」。
中国から来た少年は、奇異な目でみられたにちがいない。ただし、それで萎縮するような少年でもなかった。
「こっちをみてなにか言いながら笑ってる子がいたとするでしょ。何を言っているかわからないから、そのぶん、腹が立つ。そいつの胸ぐらをつかんで、中国語で『うるせぇ』って」。
「やべぇやつが来た」とうわさになる。
「やべぇやつ」の話を、もう一つ。
張さんは、中学で卓球部に入部した。
さすが卓球王国からの使者である。先輩を含め、だれも相手にならなかった。「ラリーがまったくつづかなかった」と張さんは笑う。
<それでどうしました?>と聞くと、「ラリーがつづかないとつまらないでしょ。だから、おなじラケット競技のテニスに転向しました」との回答。
初めてのテニスにウキウキしてコートに現れた張さんだったが、手に持っていたラケットの大きさがみんなとちがっていた。
「中国はみんな硬式なんです。だから、父に『ラケットが欲しい』というと、硬式用を買ってきてくれたんです。私も、硬式用でいいと思い込んでいたもんですから」。
先生がなんだかんだと言ってきた。張さんは、意味がわからないまま、それに答える。こちらも通じない。
「結局、一人、硬式用のでっかいラケットで練習をするようになるんですが、なんだかなって。それで、今度はバスケットボール部に転部します。中国でもバスケは人気のスポーツの一つなんです」。
バスケは、高校までつづけている。
<ところで>と、心配になったことを聞いてみた。
<勉強っていうか、テストは?>
すると意外な答えが返ってきた。
「私も、来日してはじめて知ったんですが、教育レベルでいうと中国のほうが進んでいるそうなんです。実際、私も数学と英語は満点でした。言葉も、歴史もわからないんで社会と国語は苦手でしたが(笑)」。
社会と国語は、今一つだったが、難しい数学と英語が、満点。
「あいつは、できる」。
「やばいやつ」から「できるやつ」に昇格する。2年生になった頃には、日本語も会話ができるレベルになっていた。
「父も母も、中国のネットワークのなかで生活していましたから家では、中国語です」。
<そして、学校では日本語>
「そうです。私のまわりには、ヘンな中国語をつかう人も、ヘンな日本語をつかう人もいなかった。そのおかげで、日本人とかわらない発音になったと、私はそう思っています」。

早稲田は、カベたかし。

テニスのラケットの話ではないが、きっと文化の違いもあったに違いない。
「そういう違いは、日本人が私に合わせてくれたんじゃないですか。なにしろ基本『やばいやつ』ですからね(笑)」。
張さんは都立高校に進み、バスケットボールをつづける。高校に進む頃になると、日本語もなんなく操れるようになっていた。
「アルバイトにも支障がなかったので、学業の傍らで色々、バイトもしました」と張さん。ただし、アルバイトに励みすぎたんだろうか。大学受験に1度、失敗する。
「浪人して、深夜のコンビニバイトを始めます。それまで社会経験といっても、だいたいは学校での経験です。ただ、このバイトで知り合った年上のフリーターに、渋谷のクラブに連れてってもらって。あれが私にとっては初の社会経験だった気がします」。
バイトだけじゃない。勉強もした。今度は、合格圏内。
「早稲田大学の理系をめざしていました。でも力及ばずか、運が悪かったのか、2年目もダメでした。3年目はなんとしても避けたい(笑)。だから、もう絶対、合格ができて、都内にキャンパスのあるという基準で、拓殖大学を受験しました」。
もちろん合格。ただし、一つ想定が外れた。
「都内のキャンパスで、キャンパスライフを楽しむ予定だったんですが、4年間、東京の端っこにある、高尾キャンパスから離れられなかったんです(笑)」。
東京の片隅といっても、すでに日本人とかわらない青年は、日本人の友と笑い、有意義なキャンパスライフを送った。
もちろん、キャンパス外でも、青春の時間が流れる。
「大学でももちろん、バイトは色々。キャバレーでボーイもしたし、バルや居酒屋でも、じつをいうと、そのうちの一つが起業につながります」。
どういうことだろう?

ススメ、独立へ。

就職活動は、大学3年生くらいからスタートする。解禁日は、当時、3年生の12月くらいだった記憶があるが、そのときになっても張さんは就活をすることなく、逆に時間があるからとバイトに精をだした。
「就職は、最初から頭になかったんです。私は、おべっかも使えないし、人に好かれたいとも思わない、たしかにやべぇやつなんです。軋轢だって平気だから、言いたいことはズバリいう。そういう性格ですから、昔からサラリーマンとは縁がないと、自分で決めつけていたんです」。
<それで、バイト三昧? その頃にはもう、独立志向はあったんですよね?>
「父親も経営者でしたから、小さな頃から社長になるっていうのは、頭のなかにあったと思うんです。でも、じゃあ、何をするのかっていうのがハッキリしていなかった。『何をしようか』が『これをしよう』となったのは、大学時代、バイトを通して、見えてきたことの一つでした」。
張さんがいうアルバイトとは、大箱の飲食店でやっていた、ホールスタッフのアルバイトのこと。
張さんはバイトリーダーとなり、同年代のスタッフから頼られ、上司や社長からは高く評価された。スタッフのマネジメントも、経営にかかわるコスト管理なども行っていたそうだ。
その経験を経て、「これをしよう」がかたまる。
つまり、「飲食で独立」。ススメ、独立へ。
卒業と同時に、友人と2人で、バイトをしていたお店を業務委託で運営することになる。
そして、大学を卒業した2年後、張さんの野望がかたちになる。
「会社設立は2016年。今は、川崎で店をオープンしていますが、業務委託の時にお金を出し合った友人と2人で新しいお店をオープンします。このとき設立したのが、エレガントエース株式会社です」。
すでに記載したが、張さんは、来日時と、大学進学時に1年ずつ遅れている。<すごいですね>というと、「大学卒業と言っても、もう24歳でしたからね」と、謙遜なのか、言葉のトーンを下げる。
理系出身のロジカルな思考、旺盛な好奇心。
食に関しては、料理人の祖父、父をもつサラブレッド。ともかく、独立のゴールテープを切る。
ただ、問題はここからだ。
どうなっていくんだろう?
しかもすぐにコロナ禍が始まる。

見て、盗んで、分析する。

会社を設立して以来、張さんは、旺盛な好奇心をかたちにするように、異なったブランドの飲食店を次々とオープンする。経営スタイルはピュアでシンプル。
「すべて、私のコントロールできるところに置く。私ができないことはしない。人にこびるタイプじゃないから、教えてなんて言わない。昔の職人さんじゃないですが、みて盗むのが私のスタンスでした」。
だから、盗むことはもちろん、みることに長けている。
「うちの父親もそうなんです。最初のお店をずっと経営していて、カウンター8席とテーブル席だけだったですが、月商800万円。かなりいい業績です。だから、そのままつづけていればよかったんですが、大きな店をオープンして失敗しました。経営者と言っても、父は職人なんで、マーケティングも、経営もできていなかったんです」。
父だけではない。失敗するオーナーたちを鋭くウオッチした。
「その原因を分析することで、失敗の確率が減ります。ロジカルな話だけじゃない。だいたいの人はうまくいくと、初心を忘れてしまう。たいてい、それで失敗します(笑)」。
たしかに。ただ、その初心とはなにか。どこまで、純度を高めて、心の奥に止めおくことができるのか。これこそ、人の生き様によるのだろう。
その観点から改めて、張さんの今の事業についてうかがった。今、ブランド化をめざす「鳥居くぐり」の話だ。

いずれ、全国へ、「鳥居くぐり」を。

「鳥居くぐり」とは、ユニークなネーミングだと思いつつ、食べログで調べてみると、池袋店の場合、地下につづく階段に、いくつの鳥居があり、文字通り、「鳥居」をくぐり抜けて店に入る。
とびらを開けると、和の空間が広がる。
鳥居をくぐったご利益ではないが、お通しは500円でおでんが食べ放題。
これは、人気になる。
実際、口コミをみると、好意的な文章がならぶ。
「コロナ禍のときは、お店を閉めなければいけませんでしたが、お金はなんとかなるとは思っていました。融資もあり、助成金もいただくことができましたから。それに、子どもと過ごす時間が取れたのは、ある意味よかったかもしれません」。
<現在、8店舗ですね?>
「そうです。今年中にあと1店舗オープンします。そして、来年から『鳥居くぐり』のフランチャイズ化を進めます。ただ、今のロケーションは、新宿や池袋、横浜と、超繁華街です。目標としては、地方にもフランチャイズ展開していきたいもんですから、ちがうロケーションでもちゃんと業績を上げていただけるかを検証していかなければなりません」。
フランチャイズ化するには、ブランド化がかかせない。
「8年前から京都に通っていて。みなさんご存知の伏見稲荷などに参っています。私にとってはパワースポットで、運気を上げに(笑)」。
<それがヒントになって、鳥居くぐりが生まれた訳ですね?>
「そうです」。
張さんはいう。
「食事をするだけなら、おうちでいい。じゃぁ、どうして外食するのか? わざわざ外食するのは、非日常の時間を過ごすためだ」と。
「特徴のないお店は、コロナ禍に淘汰されて、今や、きれいで、美味しいが、ふつうになってしまった。だから、普通じゃない何かが大事なんだと思います」。
<非日常の体験ですね?>
「そうです」ともう一度、張さん。
地下へのアプローチ。いくつかの鳥居をくぐり、お店に入る。食べ放題のおでんと、旨い料理とお酒を楽しみ、語り合う。
お腹も一杯になり、どこか頬が緩むような、スピリチュアルな体験もできる。
「ただ単に、お金を稼ぐだけじゃなくって、大事なことは、お客様に何をもたらすかだと、今、私はそう思っています」。
都会に現れたパワースポット。
お腹も、心も満たされる。それだけじゃなく、運気まで上がるかもしれない。中国生まれの37歳。このお店が、張さんの、今の、現在地。

思い出のアルバム

 

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