株式会社大地 代表取締役 松岡 純氏 | |
生年月日 | 1984年4月2日 |
プロフィール | フリーター生活から25歳で一念発起し、独立をめざす。知人の紹介で就職したのは、都内のメキシコ料理店。マネージャーに昇格したのち、28歳で独立。渋谷のセンター街の裏手で、同店のフランチャイズ店をオープンする。 |
主な業態 | 「寿司と炭火大地」「串焼き大地」「寿司と焼き鳥 大地」他 |
企業HP | https://daichi100.co.jp/ |
ホームページを開くとコハダだろうか、鮨をにぎるシーンが現れる。次に現れるのは、鶏を焼くシーンだ。この2枚の絵で心をつかまれた。
鮨と焼鳥、意外なコラボのようだが、案外相性はいいかもしれないなと思いつつ、その絵を思い浮かべながらお話をうかがった。
今回ご登場いただいたのは「寿司と焼き鳥 大地 」を運営する株式会社大地の代表、松岡さん。1984年生まれだから、インタビュー時の2025年で41歳になる。
経営する店舗は、国内では「寿司と焼き鳥 大地 」のほか、合計9店舗。海外ではベトナムのハノイに2025年3月、海外1号店をオープン。「客単価5,000円と日本国内より高めだが、好評だ」と、相好を崩す。
代表の松岡さんが生まれたのは、東京の荒川区。お父様は、お祖父様の代から続く内装業を営み、最盛期には従業員も15人を数えたそう。
「父と遊んだ記憶はほとんどないですね。連れて行ってもらった外食が数少ない思い出。母は、父の仕事をサポートしていました。母と一緒に料理をした記憶がありますね」。
スポーツに打ち込むわけではなく、なにかにハマることもなかったそう。
「小学生の高学年になった頃には、父の影響でしょうか。社長になりたいと漠然と思っていた気がします」。
大人しい少年像を想像していたが、そのイメージを覆すように「中学から高校までは、荒れていた」と松岡さんは笑う。
高校も中退し、なにもすることなく、ブラブラしていた。お父様の会社に入り、サポートしたこともある。
「18歳のときです。2年近くブラブラしていたんで、さすがにまずいなと思って、父の会社の手伝いを始めます」。
ただ、1年しか続かなかった。「跡取り」という空気がイヤで、お父様の下を離れ、ふたたびフリーター生活を開始する。
5年間、アルバイトを転々とする生活だった。同年代は大学を卒業して、無事社会へ。「周りとのギャップに焦り始めるのがこの頃です(笑)」。
「飲食世界に入ったのは、25歳です。父の仕事を見ていたでしょ。内装業はお客様が限られていて物足りないな、と。飲食はちがう。お客様が入れ替わり、つねに新鮮な気持ちで仕事に取り組めると思ったんです」。
バイクショップの社長に相談すると、メキシコ料理店を紹介してくれた。
「上野、神保町、新宿にメキシコ料理店を経営されている会社でした。短期間でマネージャーまで昇格させていただくんですが、28歳の時、独立の道を選択します」。
オープンしたのは、同店のフランチャイズ。のれん分けだったという。
「渋谷のセンター街の裏手です」。
<どうでしたか?>と質問すると、「苦戦の連続」と苦笑いする。
12坪、36席、家賃は40万円。「宣伝広告費が50万円くらいかかった」という。
「ロケーション的には問題はなかったんです。ただ、私がマネージャーとなって指揮していた新宿や神保町とは勝手がちがいました」。
違いは2つあった。
「一つは、新宿と比べてアルバイトが全然採用できなかったことと、宣伝コストがかさんだこと。もう一つは客層のちがいです。新宿や神保町とちがって、渋谷は学生の街だった」。
「ちゃんとリサーチしてなかった」と松岡さん。
客単価3,500円。サラリーマンをターゲットにした価格帯だった。「でも、そのサラリーマンがいない(笑)」。
「月商300万円。赤字とはなりませんでしたが、ギリギリでした。低空飛行が続き、つぶれると思ったとき、妹があるお店を紹介してくれたんです」。
どれくらい経ったときですか?
「8ヵ月、くらいでしょうか?」。
どんなお店でした?
「似たようなスタイルだったんですが、うちとはちがって、学生さんが多かったです。フランチャイズでしたが、そのままではつぶれるだけ。聖域だった料理まで見直します」。
食材から見直し、フードも、ドリンクも刷新した。何より、うるさいと注意していた学生たちを歓迎した。
「客単価が下がりますが、学生さんたちは、4人テーブル、2つに10人でも気にすることなく座り、わいわい騒ぎます。だから、単価が下がったぶんを数でカバーできます」。
大人のテイストを捨て去った。
「おかげで、業績は急上昇して、潰れないですみましたが、ブランド価値という意味ではどうだったんでしょうか?」。
ほろ苦いデビュー戦となった。
「渋谷をオープンして4年後の2016年。今度は、上野のFC店を買い取ります。業績は落ち込んでいましたが、上野店が直営だった頃に私もいたんで、だいたい経営手段もわかっていたんです。というか、そう思い込んでいたんです」。
「4年で変わっていた」と松岡さん。
「再開発で人流が変わってしまっていたんです。それ以外にも、グルメサイトの宣伝効果も薄れてしまっていました」。
4年前と比較し、家賃が20万円上がったことも響いた。「赤字と黒字のプラス・マイナスでいうと、ちょいマイナスでした」。
上野で苦戦するなかで、松岡さんは地元の荒川区に念願のオリジナルブランドをオープンする。
「当時、串カツが流行っていて、串カツだったら料理人じゃない私でもできるだろうという安易な発想でスタートします」。
YouTubeで串カツの作り方を観て勉強したそうだ。いかにも、今流。
「料理の問題以上にメキシコ料理店は基本アルバイトで運営するようなスタイルだったもんですから、社員をどう動かせばいいかわからなかったんです。だから…」と松岡さん。
だから、串カツ。アルバイトだけでもなんとかなる。
ただ、逆になんともならないことがあった。「渋谷、上野、荒川となると管理ができなくなっちゃったんです。あの時がある意味、いちばん大変だったかな」。
空中分解してしまうと思った松岡さんは、ちょいマイナスだった上野をクローズすることにする。
「管理をスリムにするのが至上命題だったんです。ただ、スリムにはなったんですが、オリジナルブランドの新店も赤字と黒字を行ったり来たりで。そうこうしているうちに、渋谷店の業績が下がり始めます」。
「こちらは構造的な問題」と松岡さん。なんでも本格的なメキシカンが流行りだしたそう。
「うちのはメキシカンといってもアルバイトでもできるような料理でしたから」。
おなじカテゴリーでは太刀打ちできないという意味。新店がふるわないなか、頼りの渋谷店も業績悪化。
「あのとき、和食職人と出会っていなかったらどうなっていたんでしょう」。
松岡さんは人生最大のターニングポイントを語りだす。
「串カツの時も、実は焼き鳥をしたかったんです。数坪程度で高収益の焼鳥店があって、そういう店が理想だったんです。でも、ちゃんとした料理ができないから断念して、串カツだったんです。でも、うまくいかない。ならいっそ、やりたい店をオープンしよう。でも、料理ができないって、堂々めぐりです(笑)」。
悶々としていたときのこと。
「馴染の店で、『料理人がいないかな?』ってつぶやくと、カウンターの向こうから『いるよ』って」。
「え?いるんですか??」。
声が裏返る。
「私が35歳のときです。あの頃、うまくいかないことが重なり、これは外の世界もみないといけないと、ネットワークを広げマーケットをリサーチしていたときです」。
偶然が重なる。「たまたま、となりの店が空いて、料理人もなんとかなりそうで。これは、オレにやれってことかな、と。アクセルを踏み込んだんです」。
出会った料理人は30歳。
「ただ、彼に焼鳥というと『和食の料理人だから鶏はできない』っていうんです。で、仕方ないので、私が講習を受けてまぁなんとかなるだろう、と(笑)」。
飲食をナメている、と松岡さん。
「でも、結局私は鶏を焼いたことがありません。そもそも6日間、16万円の講習を受けただけですから、私が焼いていたら今はないですね」。
<どうしたんですか?>
「焼ける子がいるよって。また、天から声が降ってきたんです」。
松岡さんは、「ローカルがいい」という。いま主戦場となっている「綾瀬」もその一つ。
「はじめて綾瀬に出すときに、1週間くらいかな。ぐるぐるまわって、リサーチします。すると、渋谷や新宿とは段違いですが、人通りもある。平日も週末も、ピーク時はどの店も7割近く入っている。街のポテンシャルが高かったんです。料理人とも出会い、店も焼き手も見つかります。これで、ビビる人はいないですよね」。
「運がまわってきた」と松岡さんは心を弾ませる。すべてのタイミングが重なった。好発進を確信する。ただ、もう一つ。コロナともタイミングが重なった。
「緊急事態宣言が発令されたときは、もうお先真っ暗です。コロナ禍が始まり、渋谷のメキシカンと串カツをクローズ、綾瀬の店1本でいこうと決めました」。
この決断が功を奏した。「1店舗の運営に集中できましたし、いい物件もでてきた」と松岡さん。今、綾瀬に3店あるのも、その結果。
「もともと私たちは、地下でメキシカンって名前だけの料理を出す料理店だったんです。料理でお客様を満足させられません。だからその分、接客とサービスには力を入れてきたんです」。
接客力とサービス力が異常に高い。松岡さんは今も面接で次のように言うそうだ。
「うちに来なくても、ほかでもいいよ。ただ、サービスが悪いお店に入ると、半年でキミもそうなっているよ」と。
つまり、サービスに対する絶対的な自信の表れ。ちなみに、コロナが終焉した今も月商は1,000万円をオーバーしているそうだ。決してコロナ禍の下のラッキーパンチだけだったわけじゃないことを証明している。
「ただ、海鮮もやろうとなったのは、もともと私が焼き鳥ともう一つ、2つのコンテンツが欲しかったこと、コロナ禍の下で海鮮がめちゃめちゃ安く大量に仕入れることができたからなんです。これはもう間違いなくラッキーそのもの(笑)」。
たしかに。ただ、その一言で片付けていいんだろうか?
「また会おう、そう思っていただけるのがうちの接客です」。
料理は上書きされる、と松岡さんはいう。だが、人とのふれあいは記憶に残り続ける。「その残り続ける接客を心がけている」という。
料理は上書きされる。たしかにそうかもしれない。人とのふれあいを大事にする松岡さんらしい一言でもある。そういえば、どうして飲食?という質問に、内装業とは違い、人とふれあいが多いから、とおっしゃっていた。
人とのふれあいは、上書きされない。いい言葉に出会った気がした。
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