トライゴン有限会社 代表取締役、株式会社デイネット 最高顧問 橋田佳明氏 | |
生年月日 | 1959年、兵庫県西宮市に生まれる。 |
プロフィール | 父は映画監督、祖父は医師、曽祖父は医師であり、文部大臣も務めた偉人だ。代々、医師という家系に生まれながら、父の影響を受けた橋田は、芸術大学に進学する。その後、設計やデザイン、コンサルを通し、飲食と長らく関わるが、自身が本格的に乗り出したのは、<たこ焼き「白川」>のFC展開に協力してから。2004年には、自らトライゴン有限会社を設立し、CEOに就任。同時に、自社直営ブランド「はし田屋」を渋谷並木橋に出店。現在は、この『はし田屋』本店をはじめ中目黒と六本木に店舗を構えている。なお、トライゴンは飲食事業部のほかに、コンサル事業部、デザイン事業部を併せ持っている。 |
主な業態 | 「はし田屋」 |
トライゴンHP | http://trigon-inc.co.jp/ |
デイネットHP | http://www.daynet.co.jp/ |
最初の舞台となる兵庫県西宮市は、大阪と神戸を結ぶ間にあり、山手側にはズラリと豪邸が並ぶ邸宅街だ。今回、登場いただくトライゴン社長、橋田佳明の実家も、その一角にあった。曽祖父は、医師としての名声も高く、文部大臣にも就任している。夏目漱石とも親交があったそうだ。祖父も、親戚の多くも医師として生計を立てたが、橋田の父だけは毛色の違う道を進んだ。「父は映画監督であり、カメラマンだった」と橋田がいうように、早くからシネマの世界に入り、業績を残した人物である。
「年末(2009年12月)に封切られた『黒部の太陽』という映画があるんですが、あれはもともと関西電力の記録映画で、あのシナリオを描き、映画を撮ったのは父なんです」と橋田。森繁久弥氏との親交も厚く、橋田も幼い頃、「森繁さんのヨットに乗せて貰ったことがある」そうだ。このように医師を生業とする名門の家系に生まれながらも、橋田は「映画監督」である父の強烈な個性・感性に包まれつつ成長していくのである。
少年期から青年期にかけ、橋田は、周辺にある豪邸の門を次々に潜り始める。本人曰く、起業家や経営者に興味があったからだ。「松下幸之助さんにお会いしたのも、この頃」と橋田。傑出した人物たちに出会い、話を聞くことで、橋田という人間の器が大きくなり、想像力もまた広がっていくのである。
一方、小学生の時には教師に触発され、アマチュア無線の免許を最少年で取得。無線を通じ、片言の英語で海外の無線マニュアとの交信を楽しんだ。高校時代には、陸上部や山岳部に所属。たくましい青年に育っていく。大学は大阪芸術大学。「舞台関係の仕事を志すようになった」からだ。大学では、デザインや音響を専攻。後に、橋田は「イマジン」という日本有数のデザイン事務所を開くのだが、その起点は、この時の選択にある。
在学の途中でアメリカの大学に転校。大学卒業後、帰国した橋田は、ツアーコンダクターの仕事で生計を立て、26歳でトライドという会社を設立した。この時、舞い込んできたのが鉄工所の再生の話だ。「甲子園球場の近くにある60坪ぐらいの工場だったんですが、仕事が行き詰っていて、どうにかできないか、と。じゃぁ、やりましょうと、事務所を畳んで、その会社で仕事を始めたんです」。そこで、ユニークなアイデアを思いつく。「『中古のコンテナ』をお店に改造するというアイデアです」と橋田。これが「カラオケBOX」の先駆者的な実績となり、話題を集める。大手カラオケメーカーなどの専用工場をつくるまでになった。60坪だった工場が2年足らずで1200坪の工場に化けたのである。しかし、橋田の仕事はこれで終わり。「一つのブランドをつくることに成功しました。だから、次の仕事を始めたくなったのです」。
その後、再び、会社を設立。これが「イマジン」である。イマジンはインテリアデザインなどを手がける会社なのだが、橋田は、人の育成に注力した。道下浩樹、森田恭道という著名なデザイナーたちは、イマジンで育っている。
一方で、橋田は、その頃から徐々に飲食店の運営・経営に主軸を置いた仕事を行うようになる。「叔父がフランチャイズの仕事をしていまして、その関係でFCのしくみやマニュアルの作成に関わり始めたんです」と橋田。やがて、「イマジン」は日本一のブランドになるという当初の目標を達成したことで、役割を終えたと判断。今度は、このFC化を通したブランド作りに精力を傾けるようになる。
この後、「ちゃんと」「PRONT」など、さまざまな会社や店舗に橋田の思想と設計が組み込まれていくようになる。「PRONT」では再生が託され、「大阪王将」「ちゃんと」では東京出店の仕掛けを手伝った。ほかにも「吉野家D&C」「スカイラークGAST」などの業態開発にも参加している。
しかし、これらはあくまで側面的な支援であり「自ら飲食店を経営する意思はまだなかった」そうだ。そんな橋田が飲食業に本格的にのめり込むきっかけになったのは、一口、頬張った「たこ焼き」の味だった。「奈良におもしろい店があると誘われて行ったんです。当時は「白川」も2、3店舗の規模。ですが、社長の白川さんが焼いた「たこ焼き」を食べたとたん『これだ』と。その場で、ぜひ、いっしょにやりましょうと、お誘いしたんです」。これが<たこ焼き「白川」>のFC展開の始まりである。
どっぷりと飲食にのめりこみ始めた橋田は、2004年のトライゴン設立と同時に、自社直営ブランド「はし田屋」を渋谷並木橋に出店する。メイン商品は「親子丼」だ。この初の店舗で橋田は次々に、オリジナルな戦略を展開する。デザイン・設計、またコンサルティングを行ってきた橋田の真骨頂が試されることになる。ラーメン激戦区だった並木橋で「親子丼」のランチを始めたのも戦略の一つ。あえて外から店内が見えないようにしたのも、その一つである。プレスも、使わなかった。
「オープンしてすぐの頃、グルメ雑誌が取材に来るんですが、一切、取り合いませんでした。従業員たちは、『何をもったいないことを』と怒るんですが、3ヵ月も経てば行列ができ、雑誌じゃなくテレビの取材が来るから、と彼らの意見を突っぱねたんです」。
実際、橋田が予言した3ヵ月後には、店の前に長蛇の列ができ、テレビ局が取材攻勢をかけてくるようになる。この予言には、緻密な計算と自信があったのはいうまでもない。いわば、橋田がいままで携わってきたことの多くが、凝縮されていたのだから、予言ではなく、計画という言葉が正しいような気がする。
さて、その後の橋田の活躍はホームページに委ねるとして、最後に幼少期の頃のエピソードをお伝えしよう。
まだ幼稚園児の橋田に、祖父も父も「宿題」を与えたそうだ。父は、絵日記に自らシナリオを描き、それから連想する絵を橋田に描かせたのである。このプロの映画監督から与えられた宿題が橋田の想像力をどれだけ育んだかは、容易に想像できる。
映画というシナリオは、結末まで見えて初めて成立する。結末までのストーリーすべてを緻密に計算し、観客の目線で一つひとつの物語をつむいでいく。それはまるで、いまの橋田のブランドづくりに、そっくりだ。だが、まだ橋田、自身のストーリーは完結していない。年齢を重ねても、未完であること。そこにいまの橋田の魅力が凝縮されているような気がしてならない。
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