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第1126回 株式会社ユームス 代表取締役社長 田尻秀一郎氏

update 25/11/18
株式会社ユームス
田尻秀一郎氏
株式会社ユームス 代表取締役社長 田尻秀一郎氏
生年月日 1975年6月26日
プロフィール 1975年、熊本に生まれる。21歳で福岡に向かい、フリーター生活をはじめ、サーフィンと出会う。オーストラリアへ行くなど、サーフィンとともに日々を過ごす。独立は、2010年、35歳のとき。実家の裏山にあるパワースポットの名「うせがたん」という熊本バルをオープンする。
主な業態 「TERRACE」「藁焼き酒場 ファイヤー」「一本竹通 酉や」「和気藹藹」他
企業HP https://yuums.jp/

熊本から東京、そして、ふたたび熊本へ。「だったら、今だろ」。

「はよ、こっちば手伝わんか!」
農園に遊びに行くと、そんな声が飛んできた。
農園とは、今回ご登場いただいた株式会社ユームスの代表、田尻 秀一郎さんの父が創業した、正確にいうと観光農園。名称は「優峰園フルーツランド」という。
「熊本ではそこそこのスケール」と田尻さん。
田尻さん自身は、熊本を離れ、東京で飲食店を経営し、現在では熊本でも事業を起こしている。
「熊本での事業は震災がきっかけでスタートします。熊本での創業店『テラス TERRACE』は、もともと著名なシェフがお店をオープンする予定だったらしいんです。ただ震災で、その話が流れ、代わりに私が手を挙げ『テラス TERRACE』をオープンしました」。
「なんとか支援をしたかった」と田尻さんはいう。
「私は、熊本をコンセプトにしたお店を東京で展開していましたので、熊本県人のお客様がいらして、『どうする?』なんて話を、お客さんといっしょにしょっちゅうしていたんです」。
「私にできることは限られていましたが、なにか支援できることはないか、と。それにいずれ熊本にも店をだそうと思っていたので。だったら、今だろ、と」。

「優峰園フルーツランド」を離れるまでの話。

話は、田尻さんが農園で走り回っていた頃に移る。
「私がちっちゃかった頃は、『みかん』と『なし』と『ぶどう』をメインに栽培していました。祖父が農家で、父の代で観光農園としてスタートします。農園と言っても、優峰園フルーツランドがあるのは、熊本市内です。都内で暮らす人には、市内というと驚かれるかもしれません。熊本といえばみなさん、阿蘇山をイメージされますが、そっちじゃなくって、島原のほうがちかいです」。
「優峰園フルーツランド」のホームページにあるマップでみると、熊本駅から西に向かっていくところにあった。
「市内ですが、周りは山。自然が残ると言うと聞こえも悪くないですが、今も実家の周りは昔のまま。ただ、一つ、かわったのは、電動付き自転車で子どもたちが坂を上がっていることですね。ぼくたちの頃は、坂がきついから、自転車なんて乗ることができなかった」。
田尻さんが笑うと、どことなく、空気がゆるむ。
じつは田尻さんは、お父様が経営する「優峰園フルーツランド」のあとを一度はついでいる。
「高校生の頃に、今はもう元気なんですが、父が病になって、ふだん、ぼくに何かをしろとは言ったことがない両親が、『フルーツランドをつぐのは秀一郎しかいない』と。それで、いったんつぐには継ぐんですが、じつは3年で弟にバトンタッチしてしまうんです」。
「オレに代わって、『優峰園フルーツランド』を引き継いでくれ」。
田尻さんが弟さんに深々と頭を下げると、兄の気持ちをわかっていたのだろう。「ええばい」という声が降ってきた。
「今はもう、弟の代になって、『いちご』もやっていますし、『釣り堀』や夏は『流しそうめん』をはじめて、人気のスポットになっています」と頬をほころばせる。
「2歳下の弟が入社したのは、私が入社して3年目の時。弟に了承してもらい、父母には、私が宅建免許の取得することと引き換えに、家をでることを許してもらいました」。
<宅建ですか?>
疑問をそのまま口にすると、優峰園フルーツランドでの葛藤が、田尻さんの口をつく。
「ぼくは、優峰園フルーツランドの仕事をしたくて、はじめたわけじゃありません。これが弟とはちがう点です。それに、農園のことになると父が、ふだん何も言わない父が、あれやこれや指示だすんです」。
「ぼくは、わがままっていうんでしょうか、やりたいことでしかエネルギーがでないタチなんです。親父に指図されるまま2年くらいのらりくらりやっていたものの、やっぱりだめで。それで弟が入ってきたのを幸いに、家をでていこうと画策するんです」。
「事業家だった父の背中をみてきたからでしょうね。ちっちゃな頃から独立志向がつよく、農園で、父の下ではたらいたことで、独立への想いが加速したんだと思います。もちろん、親を説得しないといけません」。
「幸い、父も回復していたんで、父と弟で農園の経営に問題ありません。『宅建』という高いハードルを越えたら、『オレの好きにさせて欲しい』とお願いします」。
「どうして宅建かっていうと」と言って、頭をかく。
「理由なく、宅建を取れば独立できるという思い込んでいたんです。一方、2人は高校までのぼくの成績を知っていますからね、まさか合格するとは思ってなかったんでしょう。『わかった、約束だ』って」。
ご両親の予想を裏切り、田尻さんは見事、合格。
「弟に2代目を譲り、晴れてぼくは福岡に向かいます」。
ふるさとからの旅立ち。田尻さん、21歳のとき。

Barとサーフィンと。

「宅建は口実で、無事、取得はできましたが、そっちの分野に進むつもりはありませんでした」と田尻さんは、正直に打ち明ける。
Barではたらく友人の姿に惹かれ、福岡でアパート借り、21歳の暮らしがはじまる。
「ともだちに紹介してもらったBarに行くんですが、2年間はトイレ掃除だと言われて」と苦笑する。
「それでも、お酒をマスターしようと酒屋さんでアルバイトをして、のちにちゃんとBarでもはたらきます。その一方で」。
いったん、言葉をためて「サーフィンに出会うんです」という。
まるでとっておきの一言を放つように。
波に乗ることですべてから開放される。サーフィンは田尻さんに開放感をもたらし、虜にする。
こののち、サーフィンとBarが折り重なって田尻さんの人生を織りなしていく。
「波をもとめて、オーストラリアでも暮らします。向こうではフルーツピッキンのバイトして、あとはサーフィン三昧です」。
帰国した田尻さんは、宮崎で1年間サーフィンしながらお金を貯め、上京することになる。
だが、最初に、降り立ったのは上野。思い描いていた東京とまるでちがった。
「東京っていえば、表参道でしょ。あのイメージが刷り込まれていたんです。それで、実際、表参道に行って、そこにあったBarではたらきます。赤坂のBarでもはたらきました。東京が、ぼくのなかにだんだんと染み込んでくるんです」。
異質で、格好いい東京の街並みが、見慣れた風景となる。
「そのあとですね。これも大きなターニングポイントなんですが、『恵比寿でもつ鍋をやる』という先輩から声をかけてもらって『博多もつ鍋 蟻月』で仕事をはじめました」。
当時、千葉の市原に住んでいた田尻さんは、恵比寿の白金に移り、仕事にどっぷりとつかっていく。
「けっきょく29歳から35歳まで『もつ鍋 蟻月』で勤務します」。
ちなみに、「蟻月」はグルメサイトでもとりわけ高得点の、もつ鍋店だ。
<蟻月を退職され、独立されたわけですね?>
「ええ、そうです。たいへんな道のりのはじまりです」。

あれ? イメージとちがう。

2010年、 田尻さんは、渋谷に「熊本バル うせがたん」をオープンする。「うせがたん」とはかわった名だが、何でも田尻さんだけが知るパワースポットの名とのこと。コンセプトは、熊本だ。
「16坪で、家賃29万円。借り入れ1000万円、自己資金300万円でスタートしました」。
「ぜんせんわかってなかった」と田尻さん。
「蟻月では、一日中、電話が鳴りっぱなしだったもんですから、そのイメージでオープンしたんですが」。
意に反して、客足はまるでのびなかった。
「電話もならない(笑)」
「月商500万円はかたいとふんでいた」と田尻さん。
「しかし、実際には200万円。営業時間ですか、18時から深夜0時です。『蟻月』では、マーケティングなんていらなかったから、広告もわからないです。それで、とにかくランチをはじめようと思って。夜も、昼も、休むこともできません。でも、ランチのおかげで、少しずつ認知いただくようになって」。
7月にオープンし、夜もにぎわうようになったのは10月。3ヵ月は、そこそこ長い。
「初めてですし、不安がないと言えばうそになります。それでも、なんとか軌道にのり、今度は『熊本ラーメン』だと2店舗目をオープンします。しかし、ラーメンはむずかしくって。それですぐに、餃子と麺の居酒屋に切り替えます」。
「とにかくぼくは、プランB」と田尻さん。メインのAじゃなく、サブのB。
「2店舗目も最初は、ラーメン。これがプランAです。でも、Aがだめで、居酒屋というプランBが動きだします。3店舗目も同様で、つぎは高級路線に舵を切ろうとアッパーな和食店をプランAとしてスタートするんです」。
「幸先よく、なだ万出身の料理人を採用できたんです。これで、いけると思ったんですが、彼はしばらくして、著名人に引き抜かれてしまって。それで、こちらもプランBとして、再スタートです」。
<それでも、3店舗、プランBもなかなかやりますね>
「ま、いまだからね。最初に『うせがたん』をオープンした時なんて、奥さんのお父さんが、ともだちを連れて毎晩のように来てくれて、それで、なんとかかんとかって感じだったから。休みもないし。それに、料理長がいなくなったときもきつかったですね。渋谷を歩いていても、ぜんぶ、脱色したようにグレー色なんです」。
<サーフィンのように波に乗るのは簡単じゃない?>
「そうですね。ただぼくのなかには、熊本人というアイデンティティがやはりあるんです。『うせがたん』も、熊本の名物料理である馬肉を食べてもらいたと思ってスタートしたんです。東京という大都会だからこそ、熊本というアイデンティティが光るとも思っていました」。
「しかし、熊本ならなんでもいいってわけじゃない」。プランAは、プランBにかわり、熊本というアイデンティテもまた東京に飲み込まれていく。
「そんななかで起こったのが、熊本地震です」。

プランAと、プランB

熊本を支援する想いを込め、震災後、熊本に「テラス TERRACE」をオープンする。もちろん、こちらは熊本料理ではない。
「シュラスコやタコスなどを楽しんでいただける『古民家をリノベーションしたラテンダイニング』です」とのこと。
シュラスコにしたのは、なんでもバーベキューに興味があったからだという。
「実はこちらも現在はプランBなんです(笑)。というのもテラスは団体需要のお店だったのですが、ご存じの通りコロナ禍で団体が激減したんです。。。なので事業再構築補助金を使って総額4,000万ぐらいかけて大規模リニューアルしました。内容は少人数向けでカウンターをメインに熊本食材を出来るだけ使用した多国籍料理のお店です」。
ホームページには、以下のように書かれている。
「『熊本に訪れた人をどこに連れて行こうか』と迷ったとき、まずは古民家レストラン 「テラス」を思い出してください。古閑牧場の純熊本産馬肉をはじめ熊本県産のお肉/魚介料理、こだわりのタコスや南米料理などナチュラルワインとの相性は最高です!」
「テラス TERRACE」から始まった熊本でのオープンだが、「TERRACE Wines」「藁焼き酒場 ファイヤー」「一本竹通 酉や」と東京とほぼ同数。
今は、熊本にも部屋を借り、熊本と東京の2拠点生活をしているという。
熊本を離れ、「熊本」という存在の大きさを知る。熊本を離れるのがプランAだとすれば、熊本の存在の大きさを知るのがプランB。
<Bも悪くないですね>というと、「Bだからこそ、気づくことが多かったかもしれませんね」と田尻さんは笑った。

思い出のアルバム

 

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