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第116回 株式会社由ら 代表取締役 吉崎俊朗氏
update 10/03/30
株式会社由ら
吉崎俊朗氏
株式会社由ら 代表取締役 吉崎俊朗氏
生年月日 1967年7月12日 東京都世田谷区生まれ。
プロフィール 中学2年の時、両親が離婚し、その後、母親に育てられる。2人兄弟の長男で、次男は(株)エイジアキッチンの吉ア 英司氏である。高校卒業後、「株式会社楽コーポレーション」に入社し、飲食業のノウハウを一から教わる。3年後、母親が居酒屋を出店する際に、退職し、母の店「由ら」を手伝う。その店の上司と意見が合わずいったん退職。飛び込みなどのセールスマンも経験し、3年後、再び「由ら」に戻り、やがて経営を引き継いだ。
主な業態 「由ら」
企業HP http://www.yura-net.com/

TVでも紹介された沖縄料理店「吉崎食堂」のルーツは、東京にあった。

那覇空港から県庁前方向に向かって車を走らせると、やがて南国風の「吉崎食堂」が見えてくる。テレビでも紹介されたことのある、この食堂は2006年4月21日にオープン。初夏の沖縄に誕生し、それ以来、東京に出店する同社店舗の「食材や料理の供給基地」にもなっている。この「吉崎食堂」の生みの親が、株式会社「由ら」代表取締役、吉崎俊朗である。彼が生まれ育ったのは、東京。母の実家は秋田にあり、沖縄とは縁もゆかりもない。そんな吉崎だったが、数年前から沖縄の風土にはまり、考え方まで変わったそうだ。「いままでは嫌なことがあると、酒を食らって、わいわい騒いで発散していたのが、いまは海をぼーっと見ているだけで落ち着くようになった」という。話を聞くと、スタッフへの対応もずいぶん変わったそうだ。元気だけが取り柄だった年齢が過ぎ、物事を深く考えるようになったいま、吉崎は力任せではない「経営の本質」に迫ろうとしている。

母の苦労を見ようとはしなかった中学生時代の記憶は、ほろ苦い味がする。

1967年、吉崎は東京都世田谷に生まれる。中学二年生の時に両親が離婚。その後、母が一人で吉崎と、3つ下の弟(現、株式会社エイジアキッチン社長)を育てる。当時を振り返るときに吉崎は多少、後悔の色を見せる。母は2人の子どもを養うため、昼は経理の仕事を、夜はスナックで真夜中過ぎまで休む間もなく働いていた。「睡眠時間は2〜3時間だったのではないか」と吉崎。しかし、当の吉崎は不良の仲間に入り、校長室に数名で殴りこみをかけるなど母を困らせてばかりいた。警察沙汰になったことも少なからずあったらしい。小学校で野球をはじめ、有名中学からもスカウトがあったぐらいだから運動神経は抜群にいい。ケンカも弱くはなかったはずだ。だが中学三年生になったとき、気丈な母の涙を見て、はじめて自分の愚かさに気づく。悪友たちとの縁をさっぱり切り、進学に向け勉強を開始する。偏差値47が数ヵ月で63まで達した。

高校卒業後、「株式会社楽コーポレーション」に入社。入社2〜3日で手がグローブに。

高校は私立に進む。「バイクが好きになり、高校生で750ccの大型バイクを乗り回していた」という。当時、大好きだった漫画の影響をモロに受けた。大学への進学は考えていなかった。高校卒業と同時に、18歳ぐらいからアルバイトで働いてた、宇野隆史氏が経営する「楽コーポレーション」に入社する。宇野氏は、現在の居酒屋文化に大きな影響を与えたコンセプト「くいものや楽」の創業経営者であり、300名近い人材を輩出したことでも知られるカリスマ経営者だ。この宇野氏の店で吉崎はゼロから教育されていくことになるのだが、最初の一歩が特に鮮烈だった。「いきなり、六本木『楽』の立ち上げに参加したんです。5時20分に、まず1回目の満席があって、そこから4回転するんです。20坪強の店で日商50〜60万はいってたんじゃないでしょうか」。そのとき、洗い場を任されていた吉崎の手は、「2〜3日でグローブのように膨れ上がった」そうである。

3年の修行期間を経て、母が新たに出店する居酒屋のオープンを手伝う。

吉崎はこの楽コーポレーションで3年間修行することになる。この時代が、吉崎の基礎をつくっていく。「ものすごく楽しかった」と吉崎は振り返る。「組織というより、チームみたいな感じで」、そういうノリが肌にあったのも事実だろう。休みの日には客として別の「楽」を訪れる。この3年間、吉崎は、四六時中「楽」にいたことになる。入社して1年半後、20歳の11月のとき、母親が居酒屋「由ら」をオープンするのに合わせ、退職。「我が強い人間だった」と吉崎。「誰の言うことも聞かなかった」らしい。これは「楽」の時代でも同じ。「楽しかったが衝突もした」そうだ。「由ら」でも当初はそうだった。「ぼく以外にも3人の『楽』経験者がいたんですが、僕が一番年下。母の店ですからいずれ引き継ぐかもとは思っていたんですが、現場のトップはもちろん僕じゃない。そのトップがとにかく厳しい人で」、ちょっとしたいざこざが起こっていくことになる。

外食以外の世界を見て、3年後、舞い戻った。たしかに「飲食店は楽しくてしかたがない」商売だ。

「僕がまかないをつくる。すると味付けが悪いから食べられないと言い出して、全部、お前が食え、と。他のスタッフを食事に連れ出すんです。まぁ、こっちが生意気だったので、ガツンとやっておこうとしたんでしょうがね」。1年で吉崎は、母の店を辞めてしまった。それから3年間、外の世界で経験を積んだ。営業で外回りもした。「初めてほんとのお客様として、いろんな店を見て回った」のもこの時期である。これが彼を一回り成長させる。3年後、もう一度「由ら」に戻った吉崎は、頭を下げることができる人間になっていた。トップは、器の大きくなった吉崎をどのようにとらえたのだろうか。やがて長い間、「由ら」を仕切っていたこのトップは、会社を円満退職する。代わりに吉崎が名実共にトップに立つことになった。「NYの出店も秒読みまでいったことがあるんですが、同時多発テロでだめになった。その店のコンセプトを日本でやったんですが、2億も損をした」。その後の吉崎を追うとけっして順風満帆な時ばかりではなかったようだ。それでも、「楽しくてしかたがない」という印象を受ける。18歳から飲食業の世界に入り、辛さも、厳しさも体験しながら成長してきた経営者が、たどり着いた繁盛店の答えは、「自分達が楽しむこと。楽しめること」だったのではないだろうか。

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