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第119回 株式会社玉寿司 代表取締役社長 中野里陽平氏
update 10/04/13
株式会社玉寿司
中野里陽平氏
株式会社玉寿司 代表取締役社長 中野里陽平氏
生年月日 1972年8月18日、東京都中央区生まれ。
プロフィール 4人兄弟の末っ子。幼少の頃から兄弟に囲まれ、にぎやかな環境で育つ。10歳のときに観た映画「少林寺」に衝撃をうけ、武道の道を歩み始める。学習院大学法学部卒。のち渡米し、コロラド州にある、ユニバシティー・オブ・デンバーに留学。HRTMと呼ばれる飲食店関係の経営プログラムを修了。帰国後の1999年11月に株式会社玉寿司に入社。半年後の2000年5月には、新しいスタイルの寿司店である「太老樹 築地店」の責任者としてオープンに携わる。老舗の寿司店、「築地玉寿司」に新たなリーダーが生まれた瞬間だった。
主な業態 「築地玉寿司」など
企業HP http://www.tamasushi.co.jp/

アメリカ帰りの敏腕経営者誕生まで。

職人気質という言葉がある。なかでも寿司職人は、典型的な職人気質の持ち主といえるだろう。「気に入らないことがあると、すぐに『あがる』といって店を出ていく」。これは、その気質の、負の部分を端的に表した一例かもしれない。経営者、泣かせといえなくもない。玉寿司4代目であり、26店舗の巨大な寿司チェーンを指揮する敏腕経営者である中野里 陽平もまた、経営者であるがゆえに職人気質と戦ってきた一人である。中野里自身は、のれんを引き継ぐという思いを早くから抱き、学業の傍らで研鑽を続けてきた。学習院大学を卒業した後、先進のフードビジネスを学ぶため米国の大学に留学までしている。しかし、アメリカ帰りの4代目候補に職人たちの目は厳しかった。しかも、中野里が帰国し、入社した時の玉寿司は、「水面に浮かぶ木の葉のように頼りない財務状況だった」らしい。この苦境をいかに脱出し、ふたたび店に活気を与え、新たな店舗を出店するまでに至ったのか、幼少の頃から中野里を追いかけ、その秘密をひも解いてみよう。

映画「少林寺」に衝撃を受けた少年は、やがて武道館で戦う青年になった。

中野里は4人兄弟の末っ子として誕生する。一番上の姉とは7つ違い。4人の兄弟が、にぎやかな家のなかでスクスクと育っていった。家業は「築地玉寿司」。老舗の寿司店である。中野里が生まれた頃には、3代目である父が斬新なアイデアを取り入れ、人気を博し、次々と出店を重ねていった頃である。中野里自身は5つ年の離れた兄の影響もあり、ブルースリーや少林寺にはまっていく。10歳の時には、映画「少林寺」に衝撃を受け、その頃から本格的に武道の道を歩み始める。高校時代には、沖縄空手を習い、大学に進学後は、少林寺憲法部で主将まで務めている。トーナメント戦では2度優勝。個人戦では武道館で開かれた関東選手権で2位になり優秀賞を獲得している。格闘技にのめり込む一方で中野里は、少年時代から家業を引き継ぐことを当然のように受け入れてきた。高校生になると将来のために、現場も進んで経験した。他店でも経験を積んだ。だが、他店に出ると現場は想像以上に歪んでいた。子どもの頃から憧れていた飲食業に疑問を持ち始める。「飲食業は誇りが持てる仕事だと、父から教わって育ちました。父は、たいへんな時でも、愚痴一つこぼしたことがありません。そういう姿をみて飲食に憧れを感じていたのです。しかし、現実は、違った。飲食の負の部分が明らかになっていくのです。アイデアを出しても足蹴にされる。ギャンブルでいくら勝ったかが武勇伝として語られる。厨房では料理人達がえばり倒し、聞かされていた世界とはまるで異なっていたんです」。当時、大学で政治学を学んでいた中野里は、教授の影響もあり、ジャーナリストになりたいと思うようになっていた。それもあって「一時は、飲食の道を断念しようか」と考えたこともあったそうだ。しかし、暗転した食の世界を垣間見たからこそ、ジャーナリストの道に進まず、逆に飲食に戻ってきたという言い方もできるのではないだろうか。父が語っていた世界と目の前に広がる世界。このギャップを目の当たりにしたことで、当たり前のように引き継ぐことを考えていた中野里に明確な意思が生まれた気がしてならないからだ。その意思とは、父が語っていたポジティブで誇らしい飲食業を実現することだ。

渡米し、フードビジネスを学ぶ。だが、その時、玉寿司は、危機に瀕す。

「腕のよい職人がいれば経営が成り立つ。そんな時代は遠くに過ぎ去った。いくら腕のよい職人がいても経営者がバカなら店は潰れてしまう」。先輩からのアドバイスに中野里は奮い立つ。食ビジネスの基礎を学ぶために米国コロラド州にある、ユニバシティー・オブ・デンバーに留学。HRTMと呼ばれる飲食店関係の経営プログラムを修了する。この3年間は、寮と大学と図書館を往復するような日々が続いたそうだ。みっちりと経営学を学んだ中野里だったが、帰国後、玉寿司に入社し、店に立つと再び現実が立ちふさがった。「技術と人間性の両面を兼ね備えた社員を増やすには、高卒を採用し、ゼロから教育するしかない」。だが、そういう職人たちでも米国帰りで「醤油意外のタレで食べる寿司も面白いのでは?」などという中野里には、戸惑いと反感を抱いたようだ。一方、当時の玉寿司は、すでに述べたように水面に浮く木の葉のようにたよりない財務状況だった。財務指標を見せられたとき、中野里の顔はいっぺんに青ざめたという。しかし、これも結局、中野里にとっては試練というだけではなく、そうであったがゆえに粘り強く、スタッフたちと向き合うことができたプラスの要因だったのではないか、と思えてくる。中野里は、業績を立ち直すため、金融機関と折衝を重ねる一方で、職人たちやホールのスタッフたちとも徹底してコミュニケーションを図っていく。懸命にはたらく中野里の姿に、最初は反感を抱いていたスタッフたちの表情もにわかにかわりはじめるのである。

社長就任。300名のスタッフと個人面談を実施。道は開かれる。

中野里が社長に就任したのは、2005年。就任後、立て直しに専念。家財も処分し、財務の健全化を図る。その成果が徐々に表れ、3年後には成長に向け、舵を切ることができるまでになった。とはいえ、中野里は、決して出店を優先しない。スタッフに必要以上の負担をかけないためだ。300人のスタッフ全員と個人面談を決行した経営者ならではの、判断だろう。現在、玉寿司の店内には、いずれの店舗にせよ、職人たちが仕切る寿司屋とはまるで違う雰囲気が広がっている。どちらがいいというのではない。ただ、若者や女性たちが、気軽ににぎり寿司を楽しめるのは、どちらだろうか。実際、中野里の店舗には女性客も大勢、訪れる。時間無制限、食べ放題というユニークな試みも評価されている。そういう意味で、江戸前の本格的なにぎり寿司に新たな市民権を与えたのは、中野里の功績といえるのではないだろうか。職人たちが喜々として寿司を握り、客が舌鼓を打つ。店内は明るく、清潔だ。むろんゆったり落ち着ける。財務状況も驚くほど改善した。無借金経営も射程圏にとらえている。だが、中野里の戦いはまだこれからもしれない。中野里が大好きなブルースリーは、映画のなかで次のように語っている。「考えるな。感じるんだ」。中野里は、たしかに頭ではなく、心で感じるなにかを大事にしているような気がしてならない。その感じたことを咀嚼し、誰にでもわかる言葉でつむいでいくのは、次世代の経営者にとって必須の能力の一つだろう。いずれにせよ、中野里のもとで学べることは、職人ワザだけではない。それだけはたしかだ。

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