株式会社アドリブ 代表取締役 山岸 大氏 | |
生年月日 | 1963年1月28日、青森県八戸市に生まれる。 |
プロフィール | 2人兄弟の次男。天才肌の兄は、塾も行かず東京大学に現役で入学。大学院に進み、現在も大学で研究を続けている。その兄と比べて勉学では一歩引けをとったが、スポーツでは負けなかった。中学・高校とアイスホッケーにのめり込み、県大会にも何度も出場した。大学進学に伴い上京。一人暮らしと共に生活費のため飲食店でアルバイトを始める。一方、マスコミに憧れ、広告代理店でもアルバイトを開始。大学を2年で中退し、希望のマスコミ会社に就職。その後、広告代理店、雑誌社を経て、最終的にはある出版社で若くして常務取締役まで務めることになる。そうしたサラリーマン生活を送る一方、32歳で「ハワイアンレストラン」を起業。人気店を次々と出店する足場を固めていった。 |
主な業態 | 「Dai」「Tsunami」 | 企業HP | http://www.tsunami.co.jp/ |
いま振り返れば、いくつか思い当たることがある。中学・高校時代には、夏休みなどを利用して親戚が営む喫茶店でアルバイトをした。地元を離れ、東京で一人暮らしを始めた大学時代にも飲食店で働き生活費を捻出した。この時の仲間が、後に飲食業に進むきっかけを作ってくれたのも事実である。
しかし、起業の原点を一つだけ挙げるとすれば、それはサラリーマン時代に、愛車ビートルにハンガーを吊るして始めたフリーマーケットだったような気がする。
今回、登場いただく株式会社アドリブの社長、山岸 大は、大学を2年で中退している。憧れのマスコミ会社に就職するチャンスがあったからだ。晴れて憧れのマスコミに入社した山岸だったが、20歳ではまだ給与も少ない。しかたなく休日を利用してサブビジネスを始めることになった。
「車は持っていましたし、サーフィンも好きで行っていましたから、サラリーだけではなかなか足りない。生活費を捻出するために、先輩たちの引越しを手伝っては、洋服とか、ラジカセとか、そういうのを分けてもらって車の後ろに展示して販売したんです。フリーマーケットのはしりみたいなものですね。1回で20万円ぐらい儲かりました。その時、初めて日銭商売のおもしろさに惹かれたような気がします」と山岸。それ以来、「サラリーマン、山岸」が順調にキャリアアップしていく一方で、「商売人、山岸」の芽もまた徐々に膨らんでいったのではないだろうか。とはいえ、実際に山岸が起業するのは、これからまだ何年も先の話になる。
「昔、飲食店でバイト仲間と『店をつくりたいな』みたいな話をしていたことがあるんです。そのうちの一人が、そのまま飲食店に就職して料理人になったんです。で、湘南のお店を任されていたんですが、会社が潰れそうになって、その友人に、店を買わないかと声をかけたらしいんです。友人もぼくも32歳ぐらいの頃です。その友人が昔の話を覚えていて、一緒にやらないか、と今度は彼がぼくに声をかけてくれたんです」。山岸が、飲食店経営に乗り出す直接のきっかけは、「一緒にやらないか」、この友人の一言だった。
けれど、結局、その店は山岸たちが資金ぐりをしている間に、他に流れてしまった。だが、いったん走り出したことで山岸の心から「起業」という言葉が離れなくなってしまった。だが、十分な資金があるわけではない。これならという物件に出会うまで1年かかった。その間、友人にはいつでも起業できるようにアルバイトをしてもらい、妻子のある彼のために前職の給与との差額を、山岸が自らのサラリーから捻出するという生活が続いた。持っていたクレジットカード10枚から、残らずキャッシングをしていたそうだ。
結局、1年後、山岸は「あざみ野」で初の飲食店をオープンすることになる。この店のオープンが6月。実は、この年の初め、山岸は結婚し、ここに住んでいた。新居も、初のお店も「あざみ野」に構えることになった。しかし、サラリーマンだったはずの夫が、急に飲食店を始めると言い出したとき、奥様はどういう風に思われたのだろう。しかも、この後、2人だけの楽しい新婚家庭に、数人の同居人が住み着くことになる。
友人と共に、起業した山岸の店のコンセプトは、「オープンテラスのあるハワイアンレストラン」だった。「女の子が4人で来て、シェアして食べてもらえるようなお店にした。ぼく自身がお酒を飲まないから、ごはんも、デザートも、コーヒーも飲めるようなお店にもしたかったんです」。
手作りではあるものの、経営者の思いをトレースしてできあがったお店。誰もが、評判を呼ぶと思ったが、オープン当月から客の入りは予想より少なかった。結局、山岸がサラリーマンとして稼いだサラリーの半分で運転資金の穴を埋め、ボーナスも残らず経費に消えていった。「終電までは営業をしたい」という山岸は、スタッフたちをわが家に住まわせたりもした。新婚家庭が共同生活の場所になる。
しかし、このような状況に置かれても山岸自身は、楽観的だったようだ。「あるプロ野球選手がお見えになって、おいしいよ、と。いまでも、その方とは付き合いがあるんですが、その方をはじめ著名人といわれるようなお客様から評価をいただいていましたので、間違いない、いつかブレイクすると思っていたんです」と打ち明ける。あるとき、贔屓にしてくれていた、そのプロ野球選手から思わぬ申し出があった。「TVで紹介させてくれないか」と。
選手名は明かしてもらえなかったが、「いまでも親しくさせてもらっている」というこの選手のおかげで人気に火がつく。きっかけはTV番組だった。その番組で採り上げられたことで、客の流れが変わってきた。「一気にではありませんでしたが、徐々に、ぼくたちからみてもわかるようにブレイクしていったんです」。
山岸がこの店で実現したかった「くつろぎ」はただ静かであればいいというものでもないだろう。閑散では、くつろげない。その意味で、人気化することで「くつろぎ」という「活気」が、店に生まれたのではないだろうか。
ところでようやく、店は軌道に乗ったが、それでも、山岸はまだサラリーマンを辞めなかった。「保守的な意味ではなく、もともと多店舗化を考えていたので自分が店に始終いないことがかえっていいのではと思うようになったんです。スタッフたちだけで店を運営できれば、経営者としてハンドリングできることが増えますからね」。
結局、山岸がサラリーマン生活を終えるのは、起業後、6年目、3店舗目を出したときである。雇われていた会社では常務取締役まで出世していた。
現在、山岸率いる株式会社アドリブは、この「Dai」をはじめ、「Tsunami」を恵比寿などに4店舗出店している。さまざまな雑誌にも採り上げられているからご存知の方も多いだろう。
さて、人気店の裏側で、経営の指揮を執り続けてきた山岸のこれまでを振り返ると、「どうしてそこまでして」という思いが浮かんでくる。サラリーマンとして得た収入を惜しげもなくつぎ込み、スタッフたちを住み込ませるまでして、成し遂げたかったことはなにか。
山岸は、その答えのヒントになるようなことを次のように語っている。「サラリーマンというのは、安定はしていますが、先が見えているのです。何もしなくても、最低限の給与はもらえますが、逆にどんなにがんばっても、さほど収入も変わらない。商売人はその点、リスクあっても、リターンが大きい。収入という金銭面だけではなく、ヤリガイとか充実感も含めて」。この言葉は、これから商売人を志す、すべての人にとってシンプルだが、明確な指針となるに違いない。何しろ、サラリーマンと二束のわらじを履きながら、苦境から逃げず戦い続けた、男が言うのだから。
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