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第122回 アジアンディレクトリー株式会社 代表取締役社長 湯山ともを氏
update 10/04/20
アジアンディレクトリー株式会社
湯山ともを氏
アジアンディレクトリー株式会社 代表取締役社長 湯山ともを氏
生年月日 1972年11月18日、静岡県沼津市に生まれる。
プロフィール 2人兄弟の長男。両親は飲食店を経営していたが、父親が家を出ていってしまい、母親の手で育てられる。中学時代からギターを始め、高校生になるとバンドを結成。ライブに1000人の観客を集めたことがあり、デビューの誘いもあったそうだ。26歳で映画デビュー。だが、サラリーマンとさほどかわらない給料で食いつなぐ日々が続く。そんな時に、ある飲食店の再生の仕事を頼まれ、飲食店の経営にチャレンジ。その後、紆余曲折はあったが、慕う仲間のために2008年、アジアンディレクトリーを起業する。
主な業態 「ばってん」など
銀幕デビューを目指す人にとっては、なんともうらやましい話だろう。バンドの解散コンサートで関係者に見初められ、いきなり役者デビューを果たした。当初は主人公に、という話もあったほどだ。このワンシーンだけ切り取ればたしかにラッキボーイだ。だが、その道のりは紆余曲折の光に彩られている。今回は、破天荒な人生を歩んできた、アジアンディレクトリー株式会社、代表取締役社長 湯山ともをにスポットを当ててみよう。

真夜中に、泣く母をみた。

いつ頃だろう。正確なことは覚えていない。「たしか、3歳か、4歳の頃」と湯山はその日のことを語りだした。「真夜中、目が覚めると母がタバコ吸いながら泣いていたんです」。母がタバコを吸うのを見たのはこの時が最初。「母は、『父さんがいなくなった。これからは、あなたが父親の代わりに弟の面倒をみなさい』というんです」。すぐに意味は飲み込めなかった。だが、母の涙をみて悲しまない子はいない。それから母に甘えなくなった。理由を尋ねると「タバコの匂いが嫌いだったから」というが、それだけではない気がする。母を思い、自立しなければいけないという思いが、母との距離をつくらせたのではないだろうか。湯山の両親は、父親の故郷である沼津でバーを営んでいた。当時、沼津には、そういった類の店はなかったそうだ。店の売上は順調に伸びた。だが、その結果、父がギャンブルにハマってしまう。店は人手に渡り、母がスナックで一人働き、生計を立てた。家族3人にとって、辛い日々が続いていく。「安いアパート暮らしだったのですが、母は、ぼくたち兄弟に不自由な思いはさせたくなかったのでしょう。ビデオや電子レンジといった家電製品もいち早く購入しました。実は、父の故郷ということもあって、周りには親戚も多かった。そういう親戚の人たちに対する母の小さなプライドがそうさせたのかもしれませんが」。母の苦労を見て育った湯山は、「本心を見せない、ひねくれた少年」になっていく。周りの雑音を跳ね返すように、勉強でも誰にも負けなかった。

いじめにあい、高校中退。

中学時代、つねに優秀な成績を収めた湯山だったが、高校受験では失敗が許されないため志望校のランクを下げた。その高校を受験した生徒数は2000人。そのなかで、湯山は1番の成績で合格した。特待生になり、授業料も免除された。しかし、この結果が小さな波を引き起す。「いじめにあったんです。棒で殴られたり、2階の窓から突き落とされたり、でも、特待生っていうこともあって辞めるとそれまでの授業料も返さなければいけないから、なかなか母にもいい辛く、逃げ出せなかったんです」。頭も良く、音楽ができる湯山に、嫉妬しての行為だった。しかし、エスカレートするいじめにも湯山は負けなかった。結局、1年で高校を退学しているが、理由は、バンド活動に熱中したかったからだ。中学時代の仲間を集めたこのバンドは地元で有名になっていく。やがてテレビにも出演。ライブは毎週のように繰り返した。湯山は、ボーカルを務めている。心に圧縮された、さまざまな思いをエネルギーに替え放出していったのではないだろうか。この音楽活動はその後、10年間続くことになる。

東京で一人暮らしを開始する。

人はいずれ故郷を離れる。大学進学であったり、就職のためであったり。湯山の場合は、やはり音楽が理由だった。バンド活動に熱を入れ、アルバイトで生計を立てる日々が始まる。コンサートやライブではもちろん食べていけない。でも、アルバイトばかりでは、練習にも支障がでる。どう上手に続けていくか。悶々と悩む日もあったに違いない。バンドの仲間連中ともいつまでも一緒にやっていくことはできない。それぞれ生活があるからだ。26歳の時、湯山は一つの決断をした。バンドの解散である。「そうしないともうみんなが食べていけなかった」という。だが、その解散コンサートで冒頭に書いたように映画デビューの話が持ちかけられるのだ。競演した役者のなかには、有名な名前もでてきた。そのうちの一人から演技も教わったそうだ。だが、役者デビューを果たし、順風満帆なスタートを切ったように見えたが、当時は映画にかける費用も安く、湯山たちのギャラは、「サラリーマンとかわらない」ほどだったらしい。おまけにある居酒屋で、著名な映画監督と湯山は、バトルを演じている。「周りはピリピリしていて結局、後で事務所から大目玉を食らうのですが、ぼくはその監督のことを知らなかったし、挨拶をしないぐらいで『生意気だ』なんていわれる筋合いもなかったですから、なんだこのやろうってことになりましてね」と湯山は、その時を振り返る。相手が誰であれ、かまうことなく正しいと思ったことを貫く、湯山の精神がこの話からも伺える。

店舗再生の手腕が認められ、店を任される。

その後も、何本かの映画に出演するなどしたが、結局、その道で食べていけるまでには辿りつけなかった。そんな時、知り合いの店の再生を手伝ったことで再び転機が訪れる。湯山を評価したオーナーが出資の話を持ちかけてくれたのだ。こうして湯山にとっての、最初の飲食店がオープンすることになる。しかし、焼肉という業態が災いした。オープン2ヵ月までは繁盛したが、国内の狂牛病問題の影響から、一気に人気が翳った。ファミリーが多かっただけになおさら客足は途絶えてしまう。結局、この店で負債を抱え込む。借金返済のために、衛星放送の会社に入社し、朝から晩まで働き、全国に次々と支店を立ち上げた。その後、大手コンサル会社の資本を受け、店舗開発の仕事を関西で始めることになる。その会社では役員にもなった。湯山は関西弁を話すが、それはこの当時、関西で数年間過ごしたためだ。この仕事を通し、湯山は、さらに飲食と深く関わり始めることになった。もちろん負債は綺麗に返している。

9割が失敗。だが、残りの1割に魅せられた。

店舗開発の仕事を通し、飲食店の立ち上げにもかかわっていった。「9割の人が失敗します。でも、残りの1割の成功に影響を受けたんでしょうね」「もし、成功すれば、周りに集まってくる人間たちにも仕事を与えられる。そんな風にも思いました」。そういういきさつを経て、2008年、アジアンディレクトリーを起業した。現在、同社は、「居酒屋」「ラーメン」「立ち呑み」という3つのカテゴリーを持つが、実はこれにも訳がある。一つはリスクヘッジ。だがそれだけではない。「仲間たちのやりたいことがいろいろあって、応えようと思ううちに業態も広がっていったんです」。どうやらこちらがほんとうらしい。不思議なことに、湯山の店には、ミュージシャンの卵やお笑い芸人の卵も働いている。湯山の過去などみんな知らずに。なぜだろう。湯山はいずれ、大きなイベントの興行をしたいと思っている。一方で、卵たちに仕事を提供し、生計のチャンスを与えていきたいとも。お店ではライブもやり、お笑いもやる。とはいえ、まだそこまで。だが、それでいいという気もする。経営者の湯山も、スタッフの卵たちも、到達点は異なるが夢というものを共に追いかけている。そんな人の思いが詰まった店が、あってもいいと思うからだ。
現在では5店舗を経営、最後にアジアンディレクトリーの今後の展開は、都内に2店舗出店。地方への進出も検討している。さらに、日本の食文化を広めたいと、アジアへの進出も計画をスタートさせた。無理をしないことが条件。のれんわけ、独立支援も、積極的に行っていきたいとしている。飲食業で独立したい。当然、そんな夢にも応えられるお店である。

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