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第123回 株式会社玉海力 代表取締役 河邉幸夫氏
update 10/04/27
株式会社玉海力
河邉幸夫氏
株式会社玉海力 代表取締役 河邉幸夫氏
生年月日 1966年東京都渋谷区生まれ。
プロフィール 中学2年で片男波部屋に入門。1980年『玉桜』の四股名で初土俵を踏み、後に『玉海力』に改名。1995年に引退し(最高位幕内前頭八枚目)、ちゃんこ料理店の経営に乗り出す。現在、広尾をはじめとする都内3店舗他、中国・青島にも店舗展開。その人脈や知名度を生かし、青少年の健やかな育成をサポートする『日本ビーチ相撲連名』での活動も行なっている。
主な業態 「玉海力」
企業HP http://www.tamakairiki.co.jp/
ただただ戦うために生きた、力士・玉海力。ちゃんこ料理店『玉海力』をオープンする前の16年間、相撲以外のことが自分に降りかかってくるとは夢にも考えず「死ぬまで力士を続けるものだ」と思っていたという。しかし確実に訪れた「引退」の時。相撲道を邁進する中で培われた探究心旺盛な河邉幸夫という人間の土台は第二の人生である飲食の世界でも生かされる。

中2で片男波部屋に入門。プロの強さにたじろぐも土俵というフェアな舞台で上を目指す

3000グラム台の普通の男子として生まれた河邉氏が急激に大きくなったのは生後2歳頃から。小学校2年でランドセルを免除され、3年生の時には大人用のスラックスで通学。その並外れた体格によって"相撲界で生きる道"が開かれていった河邉氏は、中学2年の1学期終了と同時に片男波部屋に入門した。
「それまで有り余る体力と負けん気で喧嘩に明け暮れていた私ですが、真剣勝負のプロの世界に圧倒されました」。なにせ後ろから飛びかかっても勝てないであろう先輩力士たちに囲まれ、強い者には従う実力の世界に身を置いたことを実感。入門と同時に、ただひたすら強くなることだけを考えるようになったという。
初土俵の機会が訪れたのは入門から1年半後のこと。「玉桜」の四股名で土俵に立った河邉氏は、元横綱・北の湖の記録に迫るイキオイで、中卒力士としてはトントン拍子の出世をしていった。初土俵から2年足らずで幕下昇進を果たし、17歳になると身体が完全に変わった。「毎朝起きるたびに強くなっている実感があった」という河邉氏は、旺盛な探究心でマウスピースの使用やウエイトトレーニングの導入などを先駆け、先輩力士も一目置く存在になっていた。実践では"序二段""三段目"の番付内でたびたび優勝を果たし、同世代が持てない多額のお小遣いも使えるようになっていく。
しかし、こうなると出てくるのが"慢心"。"稽古の後のクラブ活動"が忙しくなった力士・玉桜は、睡眠時間や身体のケアがおろそかになり怪我をするようになってしまった。

親方の死で心を入れ替え再起を図る。最高位は幕内前頭八枚目。そして引退の決意

17歳で幕下昇進を果たすも、取り組み中の怪我で首の骨の剥離骨折をしてしまった玉桜は、勝敗・番付共に一進一退を繰り返し相撲への情熱が薄れていく。転機が訪れたのは20歳の時だった。「糖尿病の検査入院をしていた親方が、退院するその日に急死したのです」。3日前まで「稽古せぇ」と気にかけてくれていた親方の信じられない突然の死。深い悲しみの中で決意したのは一心不乱に稽古に励み再起を図ることをだった。「玉海力」へと四股名を変えての新しい土俵人生がはじまった。
明確な目標があると人は変われるものだ。まるで10代に戻ったように稽古に励んだ玉海力は、24歳で念願の幕内昇進を果たし幕内前頭八枚目となる(関取となれば大銀杏を結い化粧廻しを締め土俵入りできる)。親方の死がきっかけとなって幕内力士になれたのは皮肉な結果だが、この数年間で味わった挫折と成功は何物にも変え難い貴重な経験となる。「人は"頑張れば報われる"ことを知れば歯を食いしばれるようになります。私はこの私自身の経験を、経営者となった今実感し、社員教育にも活かしています」。
例えば実力以上の仕事を社員に任せる。はじめは失敗を重ねるが、努力できる人は成功体験へと繋げ登り詰めた景色と爽快感を味わうことができる。そうして一度頂点を味わった社員はできることが増え、乗り越えられる壁も高くなっていくのだという。
「死ぬまで力士をやっていたい」という思いに反しての度重なる怪我。ついに玉海力は引退(廃業)を決意する。相撲しか知らない29歳の大きな男。まるで、まったく知らない広大な土地にポツンと独り置いていかれたような気分だったという。

まず師匠を真似る、それから独自研究。尽きぬ探究心。

1996年、29歳で引退(廃業)することになった河邉氏。不安いっぱいの第二の人生のスタートを支えたのは、やはり相撲時代の経験だった。 「もともと食べたり飲んだりが好きで、力士になってからは巡業で日本全国を旅し美味しい料理を食べています。また新弟子時代はちゃんこ作りに携わりますから料理もできます」。部屋の先輩がちゃんこ料理屋を成功させているのも刺激となり『どすこい酒場玉海力』オープンに向け走り出すこととなった。
「兄弟子・西海さんの店で3カ月間修業させていただき、仕入れ、食材の下ごしらえ、味付け、接客など店の運営に必要なあらゆることを教えいただきました」。人と関わり支えられて生きてることを深く深く感じ、大いに感謝したという。
そして1996年10月、広尾にオープンした『どすこい酒場玉海力』。連日大忙しだったが、年が明け春になると一転。お客様が1日10名しか入らない日も珍しくなくなり、みるみる売上が立たなくなっていった。河邉氏は打開策を見つけるためビジネス書を読みあさり、フードコンサルタントに相談し、セミナーに参加しと様々な事にトライ。気候が暖かくなり進む"ちゃんこ離れ"を何とかしなければと、思案する日々が続いた。そしてある日、外から店の入口を眺めてあることを思いついたという。「ここで焼き鳥を焼いてみたらどうだろう?」。
焼き鳥の煙りと香りに惹かれて視線を移してくれる方々に、焼き方のスタッフが声をかけ店内にお誘いする。このアイデアは見事にヒットし、その後は"夏限定の塩ちゃんこ"の開発などにも成功し話題となり、春・夏も安定的にお客様に来ていただけるようになっていった。そして成長した社員の活躍の場を広げるための多店舗展開を開始。お客様のニーズを汲み、それに応えるサービスを形にする勉強・研究を重ねることで、株式会社玉海力は軌道に乗っていく。

ちゃんこ料理店から洗練された組織へ。若手が育ち一人立ちも支援する組織へ。

「店が軌道に乗ってくると、私は徐々に"経営者になる"ことを考えはじめるようになりました」。店というより会社として、組織としての理想像を考えるようになっていったのだ。例えば河邉氏が1カ月留守にしてもきちんとお店が運営していける環境にしたいし、スタッフも毎月4〜5日の連休を取れる環境にしたい。組織として機能させるには、人材採用と育成が鍵になると考えるようになっていった。
そこで重視したのが人材採用だった。会社の経営方針や将来の事業ビジョンを明確に描き、共に歩める社員だけを採用する。そのため面接では事業、人材観、教育観についてじっくり時間をかけて話をし、賛同してもらえる優秀な社員獲得に注力したという。そして社員の成長に相応しい場所を提供するため、新店舗のポジションを積極的に与えていった。1号店のスタートから7年後の2003年に武蔵小山店、12年後の2008年に青山店を出したのは、社員が育ち活躍するに相応しい舞台が必要になったからだった。
「私は会社を大きくするためという発想の店舗拡大にはまったく興味がありません。しかし社員が育って活躍する場所が必要になった際の拡大は、大いにやるべきだと考えています」。やはり飲食を志したからには社員にも"主人"を目指して欲しい。独立支援できれば最高だし、もし会社に残る選択をしてくれるなら、新規出店して店を切り盛りできる機会を提供したい」。
実際それは国内だけに留まらず、2006年には中国青島に『SNMO&SUSHI DINING 玉海力』を出店(現在は飲食に対する志が同じ中国人の仲間に経営権を譲渡)。河邉氏が目指す人材採用→人材育成→出店のよいスパイラルは順調に形作られ継続されている。
「私は力士時代、ひとりで力をつけ、ひとりで戦ってきたという思いが強く、周囲への感謝の気持ちを感じることがあまりありませんでした。しかし、第二の人生がスタートしてからは開業資金をサポートしてくれた恩人、修業させてくれた先輩、そしてお客様、社員...。たくさんの人々に支えられ生きていると感じています」。縁あって出会える人々への感謝と恩返し。これからも経営者であると同時に人材教育という観点で勉強や実践を重ね、会社の発展はもちろん、日本の未来作りにも貢献していきたいと河邉氏は言う。
河邉氏が掲げる経営理念は『関わるすべての人を幸せにする企業でありたい』。決してブレないこの理念を共有できる人、飲食の世界で何かしら夢を描いている人と共に、玉海力という会社を"夢の実現の場"にしたいと胸を張る。

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入門当時稽古風景 レスラー時代 広尾店オープン
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