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第126回 株式会社春夏秋冬 代表取締役社長 鈴木寿彦氏
update 10/05/11
株式会社春夏秋冬
鈴木寿彦氏
株式会社春夏秋冬 代表取締役社長 鈴木寿彦氏
生年月日 1958年6月12日、山形に生まれる。
プロフィール 父親は大手飲料メーカーに勤めるサラリーマン。母親は薬剤師。10歳年の離れた弟がいる。転勤族だった父親と共に、鈴木家は、青森、博多、大阪、東京、札幌と転居を繰り返す。鈴木自身も転校を繰り返しながら、成長。3歳からバイオリンを習い始め、小学校高学年になると剣道も始めている。正義感が強く、将来は弁護士になると小学生時代に進路を決め、高校時代からは、それに向け、ひたむきに努力を重ねていく。しかし、大学3年、初めての司法試験で限界を感じる。これが飲食業へ進むきっかけとなった。現在、鈴木率いる株式会社春夏秋冬は、ケータリング出張サービスと冠婚葬祭に関わる「春夏秋冬」、店内懐石料理「津田山茶寮」、まぐろ丼、うどん、そば等の「三崎市場」、ジンギスカン、もつ焼き、もつ鍋等の料理「北一倶楽部」、カレー料理「カレーファクトリー東京」、串かつ「新世界」、焼鳥「ホームラン」という7つのブランドを関東圏に展開している。
主な業態 「春夏秋冬」「津田山茶寮」「三崎市場」など
企業HP http://www.magurodon.jp/

青森、博多、大阪、東京、札幌、うまいもんめぐり。

さすがに青森で食べた料理は覚えていないが、博多、大阪と、父の転勤と共に、うまい料理を食べてきたという記憶が、鮮明に残っている。忙しい父親が普段の穴埋めをするように、休日になると家族を食べに連れてくれたのだが、「小学生になると一人でバスに乗り、うまいものを食べに出かけたこともある」そうだ。今回、ご紹介する株式会社春夏秋冬、代表取締役社長 鈴木寿彦の小さな頃の記憶の一つである。転勤する度においしいものにありついた。もちろん転校がうれしかったわけではない。転校の度に新たな友だちを探さなければならない。わんぱくでどこに行ってもすぐに慣れたと鈴木はいうが、多少の葛藤はあったはずだ。ちなみに鈴木家が、大阪に引っ越したのは1970年。ちょうど吹田市で万国博覧会が開かれた年だった。「大阪人の元気に魅了された」と鈴木は、当時の様子を語っている。

医師になるか、弁護士なるかを迷った小さな正義のヒーロー。

正義感が強かった少年、鈴木は、大人になっても正義を貫くために、医師になるか、弁護士になるか、と将来なるべき職業を真剣に悩んだそうだ。その結果、弁護士になると決意。中学、高校と進み、父親の母校でもある中央大学の法学部に入学した。当時、司法試験では東大に次ぐ、合格者を輩出していたからだ。3年の時に初めて司法試験に臨んだ。合格率1.4%。長年の夢にたどり着けるか。勝負はあっさり決まった。不合格。そのうえ力の限界まで思い知らされる。耐え難い思いにさいなまれながら、鈴木は弁護士の道を断念した。「人生最大の挫折」と鈴木。そんな鈴木を救ったのは、「弁護士を使うような立場になればいい」という父親の友人の一言だった。

飲食業へ。一転、修行の道を進み始めた。

父親の友人に言われた一言で、鈴木はもう一度、未来を真剣に考え直す。リセットされた人生設計は白紙のまま。何にでもチャレンジすることができた。そんなとき、「俺は食べることが好きだ」、小さな頃の記憶が頭をよぎった。「よし、その道の経営者になろう」。鈴木の飲食店経営者の道は、人生最大の挫折と引き換えに始まった。「バイト代もいらないから」と飛び込んだラーメン店での修行。大学卒業後は、和食料理店を経営する会社に入社。板前の修業を2年、マネジメントを3年、勉強する。この5年間に、料理の腕を上げ、料理人とのネットワークも広がった。アルバイトだけで店を動かせる店作りなど、マネジメント力を試すこともできた。何より最後の1年、「讃岐うどん」と出合ったことが、独立の起爆剤になった。1987年、鈴木、28歳。春夏秋冬の前身となる株式会社寿々乃屋を設立。飲食店の経営者になろう、と一念発起して、6年。ようやく鈴木は経営者の第一歩を踏み出した。

10坪に未来を託す。ジャズが流れる「うどん割烹」。

会社設立から2ヵ月、うどん割烹店「さぬき茶屋」を武蔵新城に開店。わずか10坪だったが、それがすべての始まりだった。口コミで評判が広がり、半年もせずうちに満員の日が続くようになる。むろん一軒の店主で終わるつもりのない鈴木はすぐにチェーン化を模索した。だが、こちらは厳しい現実に跳ね返されることになる。ちょうどバブルに突入した頃。賃料は月を刻むごとに跳ね上がった。「賃料がべらぼうに高い。とても出店できる状況ではなかった」と鈴木。打開策はなかなかみつからない。八方ふさがりの中、通り過ぎる一台の宅配ピザのバイクを見て衝撃が走る。「あれだ!」。宅配なら、車やバイクを置くスペースさえあればいい。これが和食ケータリングサービスの始まりだった。このサービスが元となり、やがて鈴木は、冠婚葬祭向け仕出料理店をスタートする。これらの事業が、さらに新たな事業を生み出すベースになるから不思議だ。「そんなときにふと駅ナカはどうだろう、とひらめいたんです」。すぐさま東急電鉄に直談判に出かけた。だが、期待通りの回答などもらえるわけがない。話を聞いてくれただけでも良しとしなければならないだろう。だが、奇跡が起こった。鈴木の熱意に感心した課長が熱心にサポートしてくれ、30社の候補の一つに選ばれ、なんと最終選考の2社に残ったのである。結局、最終選考で落ちたが、課長をはじめ、選考スタッフたちの記憶には鮮明に残ったようだ。後に東急東横線武蔵小杉駅ナカに「まぐろ丼 三崎市場」をオープンさせるのだが、それが実現したのも、このときに強い印象を残したからだろう。「まぐろ丼 三崎市場」は2010年4月現在で、5店舗にまで広がっている。

マグロの専門家としてTV初出演。

さて、もう少し「まぐろ丼 三崎市場」ができるまでの背景を語ろう。鈴木は数年前、あるTVのニュース番組に招かれ、マグロについて語ったことがある。それほど豊富な知識を持つ鈴木だが、実は、「マグロ専門家」への道は、お米を探すことから始まったといっていい。ある時期、食材を見直すなかで、鈴木は、米の生産者とのつながりを持つことを考えた。生産者から直接、仕入れることができれば中間マージンが不要になり、同じ価格で、よりおいしい米を使うことができるからだ。「米はあぜ道一本、小川一つで味が変わるんです。私は生産者の方々とお会いし、そういうことを一から教えていただきました。そんななかで低農薬有機栽培でやっておられる魚沼産の米の生産者らと出会い、冷めても美味しい米の直取引にメドが立っていくのです」。これが、成功したことで、鈴木は二匹目のドジョウを狙いに行く。それがマグロだったのである。

最高のマグロを仕入れられたのは、運か、それとも人間力か。

「知り合いのフランス料理のシェフにくっついて、三崎漁港に行きました。知り合いの網元さんもいたのですが、綱元さんに、『頼むならあの会社』と、とある漁業会社を教えてもらい面識もないのに出かけていったんです。もちろん、駄目だと思っていたんですが、たまたま対応してくださった人が会社の常務で、その人のご好意で、なんと本マグロを直接仕入れることができるようになったんです。さっそく持ち帰って料理長に食べてもらうと、こいつはすごい。仕入れ値をいうと、目を丸くしていました。そういういきさつがあって、料理長を絶句させたほどの本マグロが、市場価格の3分の1で手に入るようになったんです」。この米とマグロを活かしたのが、そう「春夏秋冬の料理」である。今後こうした来客型の飲食事業に、より一層注力していきたいと鈴木は語っている。むろんそのためには、人材も必要だ。最後に人材についても伺った。「真面目で、仕事が好きな人。お客様に『ごちそうさま』『ありがとう』を言われて嬉しい人、それをエネルギーに出来る人、感動出来る人、共感出来る人。自分の頭で考えられる人がいい」と鈴木。ともかく、人生最大の挫折から始まった、飲食事業の道。その道は、まだ半ばかもしれない。だが、これまでの軌跡は、行動することの大事さを我々に教えてくれている。考えるだけではなく、行動することで磨かれた鈴木の人間力が、人も、運も引きつけてきた気がするからだ。

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