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第128回 株式会社ベビーピュア 代表取締役社長 渡邉敏行氏
update 10/05/18
株式会社ベビーピュア
渡邉敏行氏
株式会社ベビーピュア 代表取締役社長 渡邉敏行氏
生年月日 1971年1月21日、中国福建省生まれ。
プロフィール 塗装業を営む両親の元、4人兄弟の長男(姉二人と弟)として生まれ育つ。1988年広州中医薬大学・薬学部に入学。1991年3月、20歳の時に家族全員で日本に移住。日本語学校に通学後、慶応義塾大学商学部に入学。大学卒業後、武田薬品工業(株)に入社し国際本部、MRなど6年半勤務後に退職。2003年5月、中華レストラン『青蓮』を運営する株式会社ベビーピュアを設立し、現在18店舗(直営店14店舗)を展開中。
主な業態 「青蓮」
企業HP http://www.seiren.cc/
中国福建省で生まれ20歳で日本へ。まったくの異文化に身を置き、日本語の習得からはじめた渡邉氏は、その負けん気を発揮して国内最大手の製薬会社に就職を決めビジネスマンとしてのキャリアを歩みはじめる。そして訪れた転機。
32歳での独立に際して選んだのは飲食の世界だった。中国を故郷とするからこそできる中華レストラン、そこに先端の医薬ビジネスで鍛えた経営センスをプラスし社会に溶け込み必要とされる事業を展開する。

広州でカルチャーショック

中国福建省とは、香港、台湾に近い南シナ海に面した小都市。景色の美しさから観光地としても人気で、"ウーロン茶"の名は日本人にとっても馴染み深いところだろう。その福建省で生まれ育った渡邉氏が日本に移り住んだのは20歳の時だった。家族6人全員揃っての覚悟の移住。「貯金のみならず家を売って得た全財産を日本行きの航空券に変えました」。そう振り返る渡邉氏は、上海から飛び立った機内からはじめて日本を見た時の希望に満ちたワクワク感を思い出してくれた。「道路も街並もゴミ一つないきれいさに感動しました。しかもまだ使える冷蔵庫が日本に着いた日に家の近くで拾えた。日本って凄い国だなと思いました(笑)」。
1971年1月、塗装業を営む両親の元に生まれた渡邉氏は、ほどほどに都会でほどほどに田舎の人情味にあふれた地方都市ですくすくと育っていった。17歳になると広州中医薬大学の薬学部に入学(1年早いのは小学校入学が1年早かったため。中国らしい!)。実家を離れ広州での寮生活がはじまった。
1988年当時の中国では、大学生は国の将来を担うと考えられており学費は全額国家負担となる。中国全土から選ばれ集まった学生には生活手当も支給され、1部屋8名の全寮制の生活でいわゆるエリートを育成していく。その一人となった渡邉氏は、同じ大学に通う仲間と寝食を共にする日々の中で成長していく。様々なバックボーンを持つ仲間の様々な考え方、そして一人ひとりの口から発せられる政治・経済についての考え、将来の夢…。夜は消灯を過ぎても暗闇の中ベッドに横になりながら語り合う日々が渡邉氏の人生の基盤を作っていった。
しかし大学3年になった20歳の時、一家は母方の親戚の勧めで日本への移住を決意する。「大学には休学届けを出しました。天安門事件等、民衆運動が活発になりその波は広州にも広がっていた時代。民主主義、自由経済の日本に興味もありましたし、新しい土地で自分の将来を切り開きたいという野心もありました」。
国に留まれば何不自由なく大学で勉強でき、また卒業後は国を背負う人材として確かな就職先も得られる。しかし渡邉氏が選んだのは、家族と共に生きる異国での生活だった。

皿洗いのバイトから大学進学、そして大手企業への就職

来日翌日から横浜中華街で職を求めた渡邉氏は、中国粥の名店『謝甜記』で洗い場の仕事を得て、1週間後には広東料理の老舗『聘珍楼』に親戚の紹介を通して移っていた。面接時にネクタイをしていったこと、親戚が中国ではエリートだったことをアピールしてくれたことが功を奏して『聘珍楼』ではいきなりのフロアデビュー。しかし「お冷や」や「水割り」といった中国で習っていなかった日本語に直面して失敗の連続だったという。
1年後、21歳になった渡邉氏は、このまま成りゆきの生活に甘んじていてはいけないと考えるようになる。「もう一度大学で勉強しよう!」。アルバイト生活にピリオドを打ち日本語学校に通い始めた。目指すは1年後の大学受験。そして東大、京大、慶応、早稲田を視野に入れ、見事慶応義塾大学の商学部に合格する。「計画性はないんですが集中力はあるみたいですね(笑)」。1年間受験に向けてがむしゃらに勉強し、自力で自分の将来の一歩を築き上げた。
「大きなビジネスがしたい。できれば故郷中国と日本の掛け橋になるような仕事をしたいと思うようになっていました」。就職を控えた渡邉氏は、大手総合商社の面接に臨む。しかし中国で学生運動に参加した経験もある渡邉氏は、その企業に敬遠されてしまう。逆にそうした生き方を面白がってくれたのが国内最大手の製薬会社だった。武田薬品工業に就職を果たした渡邉氏は、いきなり国際本部に抜擢される。もちろん本人は鼻高々だった。

営業、マーケティング、経営を現場で学ぶ

中国の大学で薬学部に籍を置いた渡邉氏にとって、製薬メーカーで働くという選択肢は順当なものだったのかもしれない。「将来は海外拠点と日本を結ぶ人材として活躍して欲しい」そんな会社側の大きな期待が国際本部への配属から伺えるし、事実本人も「様々な貴重な経験をさせていただきましたし優遇されたと感じています」という。そして物事のすべては現場で起こっている。渡邉氏はその現場から学ぶため3年目にはMRとして仙台に赴く。
もちろん数年後には本社に戻ることを前提とした転勤だが、このMR時代に学んだことは大きい。営業の厳しさ、不効率な業務を効率的に変える工夫、マーケティングの重要性とその手法。後に大阪本社に転勤となるが、MR時代に培ったこれらのノウハウと、本社で培ったコンプライアンス、人材育成、品質管理などの企業経営のノウハウが独立した今大いに役立っている。
さて、大手企業での満足いくポジションを得ながら渡邉氏はなぜ退職を決意してしまうのだろう? 「6年半で学んだことは大きいけれど、やはり組織で働く上では自分との相性というか反りが合わないことも実感しました」。そうなると即行動の人物。具体的事業計画も完成していないうちに退職願いを出してしまう。驚き落胆したのは父親だ。もっとも、いつも笑顔で声を荒げたことなどない優しい父親は、子供の頃から叱るような事を起こすと逆に「なぜなんだ?」と笑ってしまう人物だったらしい。この時も大人になった息子を見て「なぜなんだ?」と笑顔を見せたという。

成功するより失敗しない店をやる

32歳、事業を起こすため独立した渡邉氏は、人材派遣、IT、飲食の3つに将来性を見い出していた。その中でレストラン経営を選択したのは、中国人として本物の中華を知っている優位性があったからだ。「高級中華料理店ではなくいわゆるもっと気軽な街のレストランにちゃんとした店が少ないと感じていました」。本当に安心で美味しい料理、そのために選ばなければならない食材や調味料。渡邉氏は、手ごろな価格でも本物の中華料理を楽しんでもらえる環境作りができると考えたのだ。
自己資金1000万円と方々からの借金7000万円を元手に交渉を続ける中、同時期に好条件の交渉へと変化していった2つの店舗物件(保土ヶ谷YBP店と東戸塚店)。この思いがけぬ展開で、株式会社ベビーピュアは2店舗同時オープンという華やかなスタートを切ることになった。2003年10月、中華レストラン『青蓮』の歴史がはじまったのである。
『青蓮』は、渡邉氏が医薬の分野に足を踏み入れた時から意識していた“食と健康”を実現する場。化学調味料を一切使わない調理法で本物の中華料理を提供している。社内スタッフは中国の国家資格を持つ確かな料理人だ。
そして「考えるところあって大企業を辞めたのだから、私はシンプルにピュアに夢の実現に向かって行きたい」。そう話す渡邉氏が何より大切にする原点は、純粋につき合いやすい人間関係を大切にする“関わるすべての人が幸せを感じられる会社”であること。お客様はもちろん取引先企業にも喜んでもらえるお店を作り、働くスタッフが幸せになれる会社だ。例えば現在も、社員はネット掲示板で言いたいことを言い合うし、経営的な数字も公開し利益は隠しだてなく社員に公開している。
また失敗を翌日から直せるのも飲食業のよいところだという。「やることをやっていれば景気はあまり関係ないですね」。社会に貢献し、社会溶け込み必要とされるお店を運営していれば、お客様は自然とリピートしてくださる。また、渡邉氏のユニークな点は、飲食業だけにに強いこだわりがあるわけではない点。時代のニーズに合わせて変化していく柔軟性を持つことのが大事だと考えている。もしかすると将来は商社としてベビー用品を扱っているかもしれないというのだ。
しかし何をするにも“人ありき”だという渡邉氏。人がいてこその出店、適性のある仲間がいてこその新規事業への進出が実現すると確信している。そいうい意味では「成功を狙うよりも失敗しない事業」を淡々と展開する冷静な経営者といえ、そのベースが変らない限り、今後も安定成長を見せてくれるに違いないと思えるのだ。

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