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第130回 イートアンド株式会社 代表取締役社長 文野 直樹氏
update 10/05/25
イートアンド株式会社
文野直樹氏
イートアンド株式会社 代表取締役社長 文野 直樹氏
生年月日 1959年11月29日、高知県中村市生まれ(現在の四万十市)。
プロフィール 3歳離れた姉が1人。「大阪王将」の創業者を父に持ち、小学生時代から店の手伝いなどを行い、飲食業と共に成長。16歳から店長を務める。大学に進学するが、すぐに中退。20歳で、「東海王将」を設立。25歳の時に、父親から事業を引き継ぎ、2代目社長に就任。以来、さまざまな葛藤を乗り越え、2010年4月現在で、社長になり25年が経つ。
主な業態 「大阪王将」など
企業HP http://www.eat-and.jp/
いま目の前に王将の餃子がある。最近、近くに「大阪王将」の店舗ができたこともあって、テイクアウトする機会が増えた。高校の頃から、実はファンなのだ。あの頃と比べ値段は上がったが、それでも1人前210円(持ち帰りの場合230円)(※東日本は1人前230円、持ち帰り250円)。欲張って、つい多い目に購入してしまう。今回、ご登場いただくのは、大阪の人間なら昔から誰もが知っているこの「大阪王将」の経営者 文野直樹。社名変更を行い、現在は「イートアンド株式会社」として、総合フードサービスをめざしている。リーマンショック以降、経済状況が悪化するなか、文野が率いるこのイートアンドは、逆に最高益を毎年更新。経済ニュースでも話題をさらっている。

餃子専門店、大阪王将、誕生。

1959年11月29日、文野は、高知県の中村市に生まれる。地図で調べるとすでに四万十市になっていたが、四万十川の下流に中村という地名があり、駅もあった。日本有数の雄大な川のほとりにある町だった。産声をこの地で上げた文野だったが、実は2歳で大阪に移り住み、その後は、ずっと大阪人として育っている。父親は大阪王将の創業者。サラリーマンから転身し、一代で「大阪王将」を築いた人物である。「大阪王将」の1号店は、昭和44年(1969年)に大阪京橋にオープン。テーブル、カウンター合わせ12席、わずか5坪の店だったという。オープン当初は、文野が母屋という「餃子の王将」同様、バラエティーにとんだメニューをそろえていたそうだ。ところが、父親はもともと器用なほうではなく、40代から、この道に入ったこともあって、料理の評判が良くなかった。ただ、不思議と餃子だけは人気があった。だから、メニューを餃子とビールだけに絞り込み「餃子専門店」と称するようになった。王将といえば餃子。いま流にいえば、この開き直りとも取れるブランド戦略が見事にハマったことになる。

「のれん分け」を積極的に行い、店舗数は急拡大。

「餃子専門店」以外にも、父親は「餃子無料券」の配布、10人前食べると無料になるという「10人前挑戦」、「テイクアウト」も含め斬新なアイデアを打ち出し、それが功を奏して業績は急角度でアップする。そして瞬く間に25店舗のオープンを実現した。一方、当時から父親は「のれん分け」を積極的に行い、食材を供給することで利益を上げていったそうだ。ところで1969年といえば、文野は10歳。父親が始めた商売に興味があったのだろうか。小学5年生から店を手伝っている。

25歳、「大阪王将」の社長に就任。

昭和52年(1977年)、「大阪王将」は法人登記を済ませ、大阪王将食品株式会社として新たなスタートを切っている。そのとき文野は、18歳。当時、大学へ進学するかどうかで文野は悩んでいた。16歳から店長をやり、商売の楽しさに魅了されていたからだ。「結局は、いったん大学に進学したんですが、すぐに飛び出し20歳の時に父から5000万円を借り、東海の三河で『東海王将』を起業しました」。この「東海王将」で文野は、従来の駅前の「餃子専門店」というスタイルを変え、ラーメン、チャーハンなどフルメニューをそろえた郊外型店舗を出店している。「3〜4年で10店舗を出店した」そうだ。だが、父親から帰ってきてはどうだと打診され、文野は、重い腰をあげる。「東海で、機嫌ようやっとたんですがね」。すでに文野も25歳になっていた。この昭和60年(1985年)、文野は「大阪王将」の社長に就任し、父親は元来好きだった画家の道を歩み始める。だが、この時、すでに「大阪王将」のビジネスモデルは時代遅れになり、ビジネスモデルの転換を迫られていた。

モスフードサービスのFCに加盟。FC事業の根幹を学び直す。

「つきあいきれへん」。正直にいえば、そんな気持ちだった。「餃子専門店」では、これからの発展はない。頭ではわかっていても、過去の成功体験が拒否反応を示すのだろう。「ラーメンも、チャーハンもメニューにしましょう」という言葉に、オーナーたちは、耳を貸さなかった。説得はした。だが、もう「つきあいきれへん」。このままでは引き継いだ会社まで共倒れしてしまう。文野は奇策に打って出た。加盟店の本部である「大阪王将」が、モスバーガーのフランチャイズ店を始めたのである。「手元に残っているお金で2店舗を一気に出店しました。何で加盟店の本部がほかのフライチャイズに加盟するんや、と文句を言われたもんです」。だが、今度はこちらが耳を貸さなかった。加盟店といっても、大阪王将の場合、ロイヤリティをとっているわけではない。食品を卸すことで、利益を上げていた。加盟店の売上が下がれば、当然、本部の利益も下がる。打開策を提示しても耳を貸さないのであれば、本部が、独自に動くしかなかった。

ラーメン「よってこや」。これが大阪王将の、もうひとつの創業。

このとき、モスフードサービスのFCに加盟することで、文野はひとつの転機を迎える。「すごいシステムに出会いました。FC店をさせていただきながら、本部を含めFC組織の在り方から戦略の意味、成功の要因といったものを全部、勉強させていただきました。こんなにも広く、深いものなのか。経営の本質に初めて触れたのもこの時です」と文野。経営者、文野を覆っていたひとつの殻が剥がれ落ちた。加盟店は過去の成功体験という呪縛から逃れることができなかった、と文野はいうが、逆に言えば、文野もまた知らず知らずのうちに、なんらかの呪縛に捉えられていたのかも知れない。モスフードサービスと出会うことで視界が一気に広がった。同社のFC戦略を文野なりに焼き直したのが、96年に事業化したラーメン屋「よってこや」の展開である。この新ブランドの展開が、文野にとっては、もう一つの起業になる。ゼロから苦労を共にするなかで、いままでにはなかった社員たちとの絆も芽生えた。人の大切さを知ったのも、この時だ。それ以降、文野は、信頼できる社員たちと共に多様なブランドを世に問いかけていくことになる。一方、「大阪王将」も、一気に進化した。餃子専門店から、フルメニュー装備に。駅前からロードサイドへ。いままで王将に来たくても、来られなかったファミリーやカップルもそれらの店に訪れるようになった。1985年「大阪王将」を引継ぎ18年経った2003年、「大阪王将」は、完全再生した。その象徴が、2003年11月、新宿店の出店と成功である。また、「フランチャイズ」に「のれん分け制度」の良さを組み込んだ、大阪王将独自の「のれんチャイズ」もスタート。その後、この「のれんチャイズ」だけでも、年30店舗のペースで出店が続いている。

イートアンドに社名変更。「外食産業」から、「総合フードサービス業」に転換する。

だが、文野の視野は、「外食」だけを捉えているわけではなかった。その意味では、大阪王将の復活は、新たな過程への第一歩に過ぎなかったともいえるのではないか。「食べることにプラスアンドを提供していこう!」と、再生を果たしたと文野がいう前年の2002年には、社名をイートアンドに変更し、すでにその準備を整えていた。「外食」から「中食」「内食」へ、また「冷凍食品」を、エリアも「国内」から「海外(アジア)」へ。いま3つの「next」を追いかけている。もちろん、めざすのは冒頭に書いた総合フードサービス業である。「2015年までに、一気呵成に総合フードサービスのかたちを仕上げていく」と文野は、力強く語っている。

最後に。

取材をさせていただいた2010年4月現在、文野は社長の椅子に座り、25年になる。「大阪王将」の2代目といえば、うらやむ人もいるかもしれない。しかし、今回、文野の軌跡を追いかけてきたことでわかったのは、一人でゼロから起業するよりも、むしろ困難な道を文野が辿ってきたことだった。経営とは結局のところ、人間というものとの戦いかもしれない、と文野の話を聞きながらそう思った。

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学生時代 25年前(社長就任時) 現在(趣味:おやじバンド)
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