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第134回 株式会社喜代村 代表取締役社長 木村 清氏
update 10/06/08
株式会社喜代村
木村 清氏
株式会社喜代村 代表取締役社長 木村 清氏
生年月日 1952年。千葉県野田市生まれ。
プロフィール 4人兄弟の末っ子。15歳でパイロットを志望し、自衛隊に入隊するが、事故で目を患いパイロットの道を断念。中央大学法学部の通信教育で学び、司法試験にトライする。その後、水産会社などを経て独立。1979年に「喜代村」創業。1985年、株式会社「喜代村」法人設立。数多くの事業を立ち上げ、2001年に超人気店「すしざんまい」本店オープン。2010年5月現在、魚介類をはじめとした食材の輸入・製造卸・販売を行う水産食品事業をメインに、寿司部門として「すしざんまい」を都内に32店舗、ほか鮮魚店などを直営。一方で、次世代のすし職人を育成するすし学校「喜代村塾」を運営している。
主な業態 「すしざんまい」など
企業HP http://www.kiyomura.co.jp/

15歳で自衛隊入隊、パイロットをめざす。

祖母を含め、7人家族。両親は農家を営んでいた。にぎやかな家庭だったが、木村が4歳の時に父が亡くなり、とたんに生計が苦しくなる。子どもたちも力を合わせ、家計を支えたが、あまりに微力だった。木村も幼い頃から祖母を真似、ウサギや鶏、チャボ、はと、いなごを育て、お小遣いにしていた。兄弟たちは寡黙にはたらいたが、長女は高校に行けず、次女も通信教育を受けるのが精一杯だった。だが、それが悪いわけではない。木村自身は早くから高校に行くことをあきらめていたが、逆に大きな夢があった。パイロットになることだ。15歳で自衛隊に入隊し、夢を追いかけ始める。当時、15歳で入隊できたのは「全国でもわずか100名」というぐらいだから、狭き門を潜り抜けたことになる。この自衛隊での生活は5年9ヵ月におよぶ。パイロットをめざした過酷な訓練に耐えた木村だったが、ある事故で生命線である目を悪くしてしまう。そうなれば、パイロットの道を断たれたも同然だった。目標を失い呆然と立ちすくむ木村に先輩の一人が、「いまできることをすべきだ」と諭す。それがきっかけで大検の資格を取り、中央大学法学部の通信教育部に入学。司法試験を目標に、木村はふたたび力強く歩み始めた。

生活費を捻出するためのアルバイトが、木村の進路をかえる。

通信教育生ながら、木村の勉強ぶりはすさまじかった。2年生までに3、4年で学ぶ講義も受けさせてもらったそうだ。受けると決めた司法試験まで後、半年ぐらいになった頃だろうか。生活費がなくなりかけ、百科事典を販売するアルバイトを始める。これが木村の一つの転機になった。27万円という文言に誘われ、始めたアルバイトだったが、コミッションセールスだったため1ヵ月やってもらったのはわずか4万円。家賃と生活費に消えていった。昼飯を買うお金もない。どうすればいい。試験も迫ってくる。そんなある日、公園のベンチに座る木村の元に子どもたちがあつまってきた。何をすればいいかわからない木村がブツブツと商品の百科事典を読んでいたからだ。木村は耳を傾ける少年少女たちの姿がかわいらしくなり、読んであげていると、その親たちが興味を持ち出した。ワンセット、ツーセットと売れ始める。これが評判になり、1.5ヵ月で500刊も販売することができた。この販売数のおかげで「印刷まで間に合わなくなってしまった」という。当時の営業部長まで木村のやり方を真似始めたぐらいである。だが、このアルバイトは早々に辞めている。約束通りの給与が支給されなかったからだ。この後の、1974年、木村は水産会社に通信教育を受ける学生の身分で入社した。この仕事が木村のその後を決定づけることになるのだが、入社当時は、まだ司法試験合格があくまで目標だった。

90以上のアイデアを事業化した、事業家、人生。

「仕事のほうがおもしろくなってしまったんです。営業だったのですが、次から次に売れていく。気づくと、給与も、弁護士とかわらないぐらいもらっていましたから。こういう道もあるな、と」。俄然仕事がおもしろくなり木村は、人生の軌道を修正する。選択肢がなく弁護士をめざした時とは異なり、パイロットをめざしたあの頃のように、これだという新たな目標ができた。ビジネスマンとして、新たな目標に向かって木村はスタートを切る。ところがそれから数年後、今度は、事故にあい、ふたたび道を閉ざされかけた。また挫折か、と天を仰いだとき、独立という道が見えてきた。その道をあゆみ、1979年、「喜代村」創業。「事業家」として木村は、独り立った。その後、木村は、あらゆるビジネスに興味を持ち、独自のアイデアで次々に事業化していく。その数は「90以上にのぼった」そうだ。「カラオケBOX」「レンタルビデオ店」「弁当の製造」「養殖」「屋台村」「パチスロ」「寿司屋」「すしネタ開発」「居酒屋」「コンビニ」「マグロの卸し」「持ち帰り弁当店」、そして「海産物の輸入・販売」と続き、「不動産事業」を手がけたこともあるそうだ。

木村が、求めているのは「素直で、好奇心旺盛な人」。

それらの事業がどうなったのか、と尋ねると「部下たちに引き継いだり、譲ったりした」という答えが返ってきた。「もともと飽き性なんでしょうね。事業が軌道に乗り始めると、だんだん興味が薄れて…。そうなると、もちろん事業も上手くいかなくなるから部下に譲ったりしていたわけです」。だが、いつまでも、同じことを繰り返すわけにはいかない。1985年、法人登記し、株式会社「喜代村」を設立。「水産食品部門」「弁当部門」「寿司部門」「商品開発部門」の4部門に事業を絞り、企業の基軸をつくった。食品部門はいまもメイン事業だが、寿司部門が運営する、すし店「すしざんまい」が急速な勢いで成長している。2001年に1号店がオープンしてから、毎年1店舗以上の出店を続け2010年時点で、すでに32店舗を出店している。木村のこれまでの人生を振り返れば、貧しい生活から脱出するために兄弟で苦労を重ねた日々、パイロットをめざし自衛隊に飛び込み訓練に耐えた日々、挫折、司法試験への挑戦、営業で駆け回った日々、公園で集まった子どもたちの笑顔、さまざまな事業を興しことごとく成功に導いた日々、そして独立、法人化、「すしざんまい」の開業。それらのことが一つの言葉に凝縮されているような気がしてならない。最後に、求める人物像を伺った。すると「素直で好奇心の旺盛な人」という答えが返ってきた。その人たちに木村は何を教えるのだろう。まっさきに教えるに違いないのは、「夢を持とう」ということではないだろうか。「夢はかならず叶う」、それを証明してきたのが、まぎれもなく、木村の人生そのものだから。ちなみに、木村は現在、次世代のすし職人を育成するすし学校「喜代村塾」を運営している。木村のもとで、まずはすし職人をめざしてみるのも悪くないのではないだろうか。

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