株式会社 駒八 代表取締役社長 八百坂 仁氏 | |
生年月日 | 1948年7月25日、北海道室蘭に生まれる。 |
プロフィール | 父は鉄工所で勤務するサラリーマン。兄妹2人の4人家族。大学進学と共に上京し、数寄屋橋のビアホール(ニュートーキョー)でアルバイトを始めたのが飲食業との出会い。卒業後、商事会社の外商部で勤務したのち、脱サラ。1975年、前職で知り合った奥様と夫婦2人で7坪の居酒屋を始める。これが「駒八」の始まり。以来、35年、「駒八おやじ」の愛称で親しまれ、居酒屋の店主としてつねに店に立ちながら、事業拡大を行う。現在(2010年)本店を中心に、「駒八」ブランドの居酒屋を始め、立ち呑み店やバーを東京田町に13店舗、八重洲・秋葉原・目黒・青物横丁・浜松町に7店舗展開している。今後の出店計画も多数あり。 |
主な業態 | 「駒八」など |
企業HP | http://www.komahachi.com/ |
札幌から南に下った岬の突端に室蘭市がある。かつて鉄鋼で栄えた街だ。1948年、この街に「駒八おやじ」の愛称で親しまれる株式会社 駒八 代表取締役社長 八百坂 仁(やおさか ひとし)は生まれた。父親は鉄工所に勤務するサラリーマン。18歳になった八百坂は大学への進学にともない、室蘭を後にする。1966年、昭和41年のこと。戦争のキズも癒え、力強い復興の足音が聞こえ出した頃だ。とはいえ、大学に進学させるためには費用もかかったはず。八百坂自身も上京するとすぐにアルバイトの口を探し、ニュートーキョーが経営する数寄屋橋のビアホールではたらき始めている。「時給は80円。けっして高くはなかったんですが、それでも食事がついていましたから、それ目当てに始めたんです」と八百坂。このときのアルバイトが飲食業の出発点となる。
八百坂は、学生時代3年近くニュートーキョーでアルバイトを続けた。仲間もでき、社会人との交わりもできた。ビールを運びながら徐々にたくましい大人になっていく。大学卒業後、商事会社の外商部に勤務。そこで奥様と出会い結婚。やがて居酒屋「駒八」を開業することになるのだが、八百坂自身はためらっていたようだ。売上成績も良く、「後十年も経てば家を買えるぐらいになっているだろう」という目算もあった。「父親がサラリーマンだったこともあって、それではおもしろくないなとも思っていたんですが、給料も悪くありませんでしたし安定していましたから。かみさんにも、もう少しこのままで、なんて話していたんです」。ところが、奥様が八百坂の本心を代弁するかのように、独立を迫る。そのおかげで、八百坂はサラリーマン生活に終止符を打つことになる。いうならば奥様は、「駒八おやじ」の産みの親でもあったわけだ。
ところで当時、「脱サラ」という言葉が流行っていたらしい。八百坂もその、脱サラ組に入る。飲食店でいえば、「カレーショップ」「立ち食いそば」が脱サラの定番だったようだ。実際、八百坂も、退職前に蕎麦屋でアルバイトを始めノウハウを学んでいる。だが、八百坂が開業したのは、そのどちらでもなく、当時まだカテゴリーとして認知されていなかった居酒屋だった。「かみさんと2人で不動産屋を回りましてね。たまたま高円寺の、飲み屋街の入り口のところにいい物件があって、よしということですぐに手付金を打って」。これが1975年のことである。いまでは一般的な居酒屋だが、当時は同業種もほとんどなかったそうだ。それもあって、オープン早々、店は客でごったがえした。料理長を加え、忙しくも元気に立ち振る舞う八百坂夫婦の姿があった。
たった7坪の店からスタートした「駒八」は、7坪にかかわらず、日商で12万円、月商250〜300万円を売り上げる人気になり、みるみる店舗数を増やしていく。すぐに2号店を出店し、創業から5年後に現在本店となる田町に3号店を出店。その間、一つの転機を挙げるとするならば、2代目となる長男、八百坂圭祐の誕生だろう。奥様が店を離れ、育児に専念することになったのである。夫婦でありながら、良き事業のパートナーだった奥様が店を離れなれたことによって、八百坂はひと回り大きな組織運営を考え始めた。「そのとき新宿に出店するつもりだったんですが、同じビルに和食の店がオープンすることになっていて、洋風居酒屋にしてくれたらと言われたんですが、それじゃね。その次に不動産屋が紹介してくれたのが田町だったんです。坪数30坪、それでいて新宿の17坪と家賃がかわらない。大手の電機メーカーなどもあり、サラリーマンも多い。よしここに出店しようということになったんです」。これが現在の駒八本店である。
「初日から繁盛し、入り切れず毎日30〜50人のお客様に帰っていただいた」と、八百坂は出店当時を振り返る。いまでは居酒屋激戦区の田町だが、当時はまだ居酒屋が少なかったという理由もある。だが、それだけではない。入っていただけなかったお客様に、次回来店時に中ハイ・ビール一杯サービスするといった「お詫び券」を配ったり、待ち時間に、ビールを一杯サービスしたりと八百坂の心配りが客を惹きつける。3年目に駒八別館をオープン。宴会需要に応えるため「駒八亭」もオープンした。いずれも繁盛店になる。この八百坂の経営手腕を評価し、次第に出店のオファーも来るようになった。いよいよ出店に拍車がかかっていく。現在、田町を上空から見下ろせば、いたるところに八百坂の店があるのが分かるだろう。
さて、「駒八」の、35年間も変わらずにつづく人気の秘密は、いろんな数値やサービス内容、個性的なメニューで説明することができるだろう。しかし、サービスやメニューを真似たとしても、「駒八」同様のパフォーマンスをたたき出すことはできないはずだ。八百坂は、60歳を過ぎたいまも、朝5時には起きだし、6時には河岸に行く。親しくなった知り合いとあいさつをかわしながら、自らの目でたしかめて仕入れをする。そのとき、八百坂は何を考えているのだろうか。ここに実は駒八が愛され続けてきた本来の秘密があるような気がしてならない。いったん会社に行き事務仕事を終えた後サラリーマンが居酒屋に立ち寄る時間になって、八百坂もまた店にでる。馴染みの客と馴染みの話。客の手元をみれば、朝、八百坂が仕入れてきた魚が料理され提供されている。客といっしょに笑い、客同様に居酒屋を愛する「駒八おやじ」こと八百坂は、本心から「客の笑顔をみるのが楽しい」という経営者だ。だから、いまだに蔵元に顔をだし、話題の店を食べ歩くことも怠らない。旺盛な探究心で「居酒屋」の進化をいまだ追求している。
八百坂は、現在、商売の哲学を若手経営者に伝えていくための「居酒屋経営塾」を開催している。大事なことは「お客様を喜ばせる」「満足させる」ことを徹底して続けることだ。そんな八百坂のDNAを持った経営者が、この塾からどんどん輩出されることに期待したい。ちなみに「駒八」では2009年から本格的に新卒採用を開始している。不況にも、競合にも負けない底ヂカラある居酒屋経営の本質を学ぶチャンスになるのではないだろうか。
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