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第137回 株式会社サクセスストリート 代表取締役社長 大和淳二氏
update 10/06/22
株式会社サクセスストリート
大和淳二氏
株式会社サクセスストリート 代表取締役社長 大和淳二氏
生年月日 1979年6月20日生まれ。福岡県前原市出身。
プロフィール 祖母と母がスナック・和食屋を経営し、父は自動車関係の会社を立ち上げている。2人兄弟の次男。幼い頃に母と父が離婚。18歳で大阪に一人引越し、芸人の養成所に入る。その時、焼肉店で始めたアルバイトがきっかけで飲食の道へ。紆余曲折を経て2007年、株式会社サクセスストリートを起業。2010年5月現在、3店舗を構えている。
主な業態 「炭火串焼 バリうま」「酒場 二丁目漁港」「北品川がむしゃら」
企業HP http://success-street.net/
神様が捨てたのかもしれない。カーネギーの「人を動かす」。公園で拾ったその本をいまも読み返す時がある。ところどころに引かれたアンダーライン。その一つひとつが苦境にあえぐ青年の心を動かした。株式会社サクセスストリート 代表取締役社長 大和淳二氏。小さな贈りものを胸に、人間力で勝負する若き経営者の、まっすぐなまでの生き様を振り返ってみよう。

少年院で初めて知った親の愛。

福岡県前原市、今で言う糸島市に大和は生まれた。2人兄弟の次男である。祖母と母はスナック・和食屋を経営し、父は自動車関係の会社を立ち上げた。小学生時代に、父と母は離婚。祖母の下で暮らすが、すぐに親戚に引き取られたという。4つ年の離れた兄は性格が大人しく、良く友達に泣かされて帰ってきたそうだ。4つ下の大和が仕返しに行った。子どもの頃からカラダが大きく、気性も荒かった。兄は中学卒業し、すぐに働き始め、大和にこずかいをくれたりもした。両親に見放された格好の2人は力を合わせた。やがて2人は父の下に引き取られるのだが、大和は、しばらくして父や兄から離れなければならなかった。少年院に送られた大和には保護観察がつき、福岡を離れることが仮出所の条件になっていたからだ。「小学校の頃から悪くて、中学になると拍車がかかりました(笑)。学校には給食を食べに行くだけ。バイクを乗り回し、いつのまにか暴走族のリーダーになっていて、少年院に送られてしまうんです。」まっすぐに生きようとすればするほど、ひねくれてしまう。「その時、父親が弁護士を立て、早くだしてやろうとがんばってくれたんですね。その気持ちがありがたかった」。初めて感じた親の愛情であったのではないだろうか。ひねくれた感情が、まっすぐに伸びた。だが、その時にはもう前述通り、父の下から去らねばならなくなっていた。

吉本の育成所に駆け込んだ青年時代。

半年間の少年院暮らしを経て、社会復帰した大和は大阪に行く。18歳。昔から人を笑わせることが好きだったからと、吉本の育成所に入った。同期にはいまや有名な芸人もたくさんいる。「最初はギャラもないんです。エキストラに選ばれて1日ロケに行っても、貰えるのはチョコレート一つだったり。年収300円なんて先輩もいました(笑)」。それでも思いを捨てきれず、舞台に立つ日を思い描き続ける人間ばかりだった。だが、大和は「スパっとあきらめるのも勇気」という先輩の一言で、1年と少しで養成所を後にした。「才能を少しでも自覚していれば辞めなかった。10段階評価で喩えるなら、最低の1点だった」というのが自己評価だ。ちなみに、人を笑わせるコツはテンポと間だという。「街角に立って、いざ人を笑わせようとするとリキミ過ぎるのか、間が悪くなり誰も笑ってくれなかった」そうだ。だが、この養成所時代に学んだテンポと間が、焼肉店での「客との言葉のキャッチボール」に生かされていくのだから、人生に無駄はない。ちょうど20歳になった大和はいったん福岡に帰ったが、その時、大阪でのアルバイト先だった焼肉店の専務から電話が入った。「正社員として戻ってこないか」。その会社が、関西のカリスマ的な経営者今吉氏が立ち上げた商売人道場「元気ファクトリー」だった。

先生は、キャバクラの女の子たち。

店名は「焼肉どんどん」。オープンキッチンで、カウンターに七輪を置き肉を焼くスタイル。小さな店内には煙が立ち込め、ライブ会場のような熱気に包まれた店舗だった。「深夜帯に強く、朝5時までの店でしたから、水商売の女性のかたも多かったんです。『客商売のプロ』がお客様ですから、教えられることも少なくありません。『3回も来てんのに、なんも覚えてへんやん』って怒られたこともありました」と当時を振り返る。たとえば左効きのお客様には左にお箸をだすなど、細かい作法も彼女らから教わったそうだ。厳しくもあったが、楽しかった。「人を楽しませ、元気にさせる」。芸人にはなれなかったが、同じ気持ちで働けるステージをみつけた思いだったのではないだろうか。社長の今吉氏にも認められ、21歳の時、初の東京進出、「歌舞伎町店」オープンのためのメンバーに選ばれた。専務と、その店を預かる店長と大和、メンバーは3名。大和にとっても実は、初の東京。だが見物などをしている暇はない。出店した店は、15坪ながら月商1000万円。寝る暇もないとはこのことだった。

BSE問題、発生。乗り越えた向こうにもう一つの試練が。

その「歌舞伎町店」がオープンして、まだ1年も経っていなかった頃だろうか。1000万円を越す、モンスター級の売上を誇っていた店の売上が、月に数万円に落ち込んでしまった。原因はBSE問題。「オープンすればすぐに満員になるような店だったのですが、当時は1日に1名のお客様がいらしただけの日もありました。でも、そんな時にも社長からは、『俺たちは元気を売るんだ、そんな元気のない顔でどうするんだ』と怒られ、騒動が収まるまでの3ヵ月間ほど、忙しさとは違う意味で歯を食いしばり、必死で働きました。この後、「元気ファクトリー」は、西新宿や三軒茶屋に2号店、3号店を出店する。そのいずれの店舗でも大和は店長を務めた。2店とも立地が悪く、人間力がなければ売上を上げられなかったからだ。だが、この3号店、「三軒茶屋店」の時にボタンの掛け違いが起こり大和は会社を辞めることになった。社長のあまりの独断に納得がいかず、スタッフを思う気持ちにウソはつきたくなかったからである。後ろ髪を引かれつつも、「カッコよく会社を去った」大和だったが、実は当時、離婚したことで慰謝料を請求され、同時に祖母が急に亡くなったことで、祖母の保証人になっていた大和に返済が回ってきていた。給料は相当貰っていたものの、それもなくなり無一文。とりあえず消費者金融に頭を下げ、慰謝料も、返済金も支払った。代わりに高利回りの新たな借金が残った。BSE問題をしのいだ大和だが、まだ己のことになるとなかなかうまく立ち回れなかった。なにしろまだ24歳だ。

一冊の本との出会いから始まったサクセスストーリー。

自暴自棄にもなっていた。妻も、子もいなくなり、仕事もなくなった。残ったのは借金だけ。しかも借りた相手は消費者金融。行く当てもなく歩き、歩きつかれ、腰掛けた公園のベンチの足元に一冊の本が落ちていた。これが、あのカーネギーの「人を動かす」だった。この本に出会って大和は「独立」を志すようになる。まず肉の卸業者に就職し、肉に関するノウハウを覚えた。給与は良いほうではなかったが、「月々の借金を返すことができ、家賃と、後は、少し食べられるだけでよかった」。肉の捌き方も覚えた。この後、知り合いが台湾でオープンするという焼肉店を手伝いに行くことになるのだが、それも、この時に一頭の牛を捌く技術をマスターしていたからだ。台湾からふたたび日本に戻った大和は共同経営で串カツ店を出店。そして2007年、大和、27歳の時に、自身初の店舗「炭火串焼 バリうま」をオープンする。現在、3店舗。10店舗の出店をめざし、スタッフ全員で元気な店作りに取り組んでいる。社員たちと共に遊びにも行けるようにハワイに店をだすのが一つの夢だ。大和の人生を振り返った時、いくつかの「きっかけ」が人を動かしていることがわかる。少年院に入らなければ、親の愛情を知る機会がなかったかもしれない。養成所に入り才能のなさを思い知らされなければ、また水商売の女性たちと接していなければ、接客の楽しさを知らなかったかもしれない。すべてをなくし、一冊の本を手にするまで、異なるそれらの「きっかけ」が、実は、まっすぐにつながっていたように思えてならない。そして、独立をめざし立ち上がった大和。このインタビューを行なった2010年5月、大和はまだ31歳だ。この若きまっすぐな青年社長に接すれば多くの人が応援したくなるに違いない。ちなみに、現在、大和の片腕となってくれているのは、その昔、大和が店長を務めていた時の教え子だ。

ずいぶん前に読んだのではっきりとは忘れたが、「人の動かす」のなかに次のような一文があったように思う。「人に嫌われたければ、その人を辛らつに批判し続ければいい。その批判があたっていれば効果はてきめんだ」。1時間あまりのインタビューだったが、その間、大和の口から人を非難するような言葉は一切、聞こえてこなかったことも付け加えておく。若いうちに近い距離で、学んでみたい経営者の一人だ。

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