株式会社三光マーケティングフーズ 代表取締役社長 平林 実氏 | |
生年月日 | 1949年12月、大田区大森生まれ。 |
プロフィール | 少年時代から商売に慣れ親しみ「商才」を育んでいく。大学卒業後、3年間、和食割烹店で修行したのち神田に定食屋「三光亭」をオープン。牛丼とカレーに絞った商品戦略で出店を重ね、1984年、東京・渋谷に居酒屋「だいこんの花」を開店。その後、「東方見聞録」をはじめ数々の人気店をつくりあげていく。 |
主な業態 | 「東方見聞録」「月の雫」など |
企業HP | http://www.sankofoods.com/ |
1949年12月。平林は大田区大森の江戸時代から続く乾物屋の三男として生まれる。「乾物屋」と言ってもいまの若い人には馴染みが薄いだろうが、魚の干しモノのほか、缶詰や調味料をはじめ日用品まで扱う、いまでいうコンビニエンスストアのような店をイメージしてもらえればわかりやすい。母や祖母が商売をする姿を間近でみながら、「物心がつく頃には『早起きは三文の徳』『苦労は買ってでもしろ!』などと教えられた」と平林は振り返っている。こうした環境で育ったこともあって、早くから平林は「商売」を志すことになるのだが、中学時代に早くも「商才」の一つを現している。こんなエピソードがある。あるとき平林は「立ち食いそば屋」に入った。そば1杯、150円。実家で売っている「そば」は15円にすぎない。10倍の開きがあるではないか。「うちの親はなにをしているんだと思った(笑)」と平林は語る。「ものの見方」は人によってさまざまだ。しかし、些細な違いに目を向け真実を探ることでみえてくるものがある。「そば」1杯から商売の真実をあきらかにした平林は確かに「商人」の目を持っていたといえるのではないだろうか。
平林の世代は団塊の世代とも言われる。学生運動が盛んな時代である。平林が入学した大学も休校状態がつづいた。平林は休校を利用し「定食屋」でアルバイトを行い、資金づくりに精を出した。時は1971年前後。1971年は「マクドナルド」の1号店が銀座三越にオープンした年。愛知県では「ケンタッキー・フライドチキン」の1号店が開店している。アメリカの進んだシステムが輸入され、日本の「食文化」に新たな幕が上がった年でもあった。平林は、そうした時代の移り変わりを皮膚感覚でとらえていく。大学を卒業した平林は和食割烹店で3年間修業し、1975年に奥さまと共に神田駅のガード下に4坪の定食屋を開いた。ここで注目したいのは、神田駅のガード下という立地だ。その後、平林は駅前超一等地を抑え、次々と出店を重ねていくことになるのだが、その戦略の突端がこの1号店の出店場所からも見て取れる。多店舗展開も早く、1年半後に2店舗目を「下北沢」に出店。3店舗目も立ち上げた。その間、「定食屋」は「牛丼とカレーの2品を扱う店」にかわっていた。
オペレーションに目を向けたとき、「定食屋」の豊富なメニューは、非効率さに直結する。チェーン化をめざしていた平林は、早くからこの「効率」にこだわった。その結果、牛丼とカレーの2品にメニューを絞り込んだのである。マクドナルドなどファストフードの登場によって変わり始めた時代の風をいち早く感知した結果といえるかもしれない。ところでこの当時、後に巨大なカレーショップチェーンを築くことになるある社長が、平林のもとを訪れている。牛丼とカレーの2品で順調な売り上げを確保している店の運営を目の当たりにして、その社長はカレーショップの起業に確信を持ったのではないだろうか。ちなみに定食屋の屋号は「三光亭」。「三光」は生家の屋号である。
日本に「居酒屋」というカテゴリーが誕生するのは、それほど昔の話ではない。「養老の瀧」ができ、「つぼ八」などがブームの火付け役となる。平林が、居酒屋に目を向けたのは1984年。東京・渋谷に女性客も入店しやすい明るい居酒屋「だいこんの花」を開店し、この店がヒットする。時代が移り変わることにより、消費者が求める「食」も変化する。「外食」が一般化されていくなかで、競合も増え、経営の効率化が優劣を決する時代に入る。おおざっぱな個人経営では生き残れなくなり、勘や経験に頼った経営は陳腐化され、数値に基づいたクレバーな経営力が問われるようになる。簡単にいえば、経営者の質が問われる時代に入ったといえる。平林は早くから経営の効率化をめざし、原材料費の見直しなどと共にマネジメント力の強化も推し進めた。だが、けっして数値に頼るだけの経営者ではなかった。この淘汰の時代に、むしろ企業力を高め、飛躍した勝因を平林は「人間力」だと語っている。「お客様に喜んでもらうためにどうすればいいか、常にそれを考えること」、これが平林の経営の根幹にある。なにをみて商売をするか。これもまた「商才」の一つといえるのではないだろうか。ちなみに「居酒屋で寿司を出したのは、うちが一番早い」と平林。目に見えない客の要望を現場力で見抜くことで、新たな展開が生まれていく。この現場力もまた平林の「商才」の一つだろう。
その現場力が新たな発想を生んだ。現在の「三光マーケティングフーズ」の名を揺るぎないものにした「東方見聞録」のオープンである。「東方見聞録」は1991年、渋谷に誕生。1997年から快進撃を始める。平林は、カラオケBOXからヒントを得て「個室感覚」を採り入れたのだ。これが後に居酒屋業界に巻き起こる“隠れ家と個室”ブームにつながっていく。1998年12月「新宿中央東口店」、1999年6月 「銀座すきや橋店」「お茶の水店」、7月「新宿西口店」、12月「新宿三丁目店」、2000年2月「横浜西口店」、4月 「表参道店」と出店ラッシュが続き、この年の11月には「月の雫(しずく)」が誕生している。2003年にはジャスダック市場に上場。出店エリアも拡大し、この年、関西圏へも初出店を行っている。この後の出店状況はホームページで確認いただければいいだろう。これらの時代は居酒屋業界が、第二のステージに入った時代ともいえる。実際、「三光マーケティングフーズ」以外にもさまざまな企業が立ち上がり、上場を果たした企業も少なくない。
そんな居酒屋業界に吹く風の向きがかわった。2009年、平林のアンテナはそれを捉えた。リーマン・ショック以降、消費者のサイフが固くなったことも風向きがかわった理由の一つ。だがそれだけではない。消費者が新たなバリューを居酒屋に求め始めたのかもしれない。具体的には「低価格というバリュー」だ。平林は迷わず舵を切った。敏腕経営者のなせるわざである。「全品300円居酒屋 金の蔵Jr.」に始まったこの戦略は、「全品299円居酒屋」となり、「全品270円居酒屋」となって一気にブレイク。すでにリニューアルも含め、90店舗近い店舗が切り替わっている。消耗戦になるかもしれない。だが、平林の「商才」はその勝利を確信しているに違いない。「苦労した。大変な時もあった。でも、それは経営者ならだれもが味わうこと。大事なことはその大変な時に何を考え、実行するか。私と他人との違いをあげるとすれば、愚直にこの道を進み、進むために前向きに考え、実行したことではないでしょうか」。平林はそういう風に自身の成功のカギを解き明かす。そんな平林が求めているのもまた愚直で、元気で、明るく、ポジティブな発想ができる人。そういう人に平林は自身の「商才」を伝えていこうとしているのではないだろうか。
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