株式会社ライブフードプロデュース 代表取締役 小林一也氏 | |
生年月日 | 1963年10月17日、埼玉県生まれ。 |
プロフィール | 埼玉県生まれ神奈川県海老名市育ち。地元の新設高を卒業後、アルバイトを経て叔父が経営する商社に就職。同時に中央大学夜間部に通う。1988年プライスウォーターハウスコンサルタント株式会社に入社し6年間コンサルタント職を経験し、1995年大手外食チェーンの経営企画室に転職。上場支援業務を経て1999年に退職・独立。株式会社ライブフードプロデュースを設立し現在、子会社を含め、外食店5業態8店舗と宅配飲食2業態15店舗を展開中。 |
主な業態 | 「合点」「土の香」 |
企業HP | http://www.lfp.co.jp/ |
プロ野球選手にパティシェ。子供たちが将来就きたい職業として近年上位にランクされる職業だ。「将来の夢を作文に書いてみましょう」。子供時代、誰もが一度は経験があるだろう。さてその時間、楽しかったか苦痛だったか...。
小林氏は振り返る。「将来の夢なんて考えたこともなかったからいつも困って、世界一周とか書いてごまかしていました(笑)」。夢があるから大人になって成功するとは限らない。目の前の目標を一生懸命追いかけた結果、成果がついてきて次にやるべきことが見えてくる。その積み重ねで起業家として頭角を現すタイプも以外と多いのではないだろうか。
1963年10月、小林氏は埼玉県に生まれる。父は親が経営する工業化学薬品商社を継がず会社勤めをしており、まだ小学校入学前の幼い頃、神奈川県海老名市に引っ越しをした。父親は3人兄弟の長男で、家業は末の弟が社長、二男が専務を勤めるユニークな形で引き継いだ。
「その三男の叔父さんが格好よくてね。子供の僕に対してもまるで一人前の人間として接してくれるわけです」。祖父から続くメッキなどの表面処理を行なう化学薬品の商社の社長である叔父は、研究所や機械メンテナンス会社、さらには旅行会社など8つのグループ会社を作り事業の幅を広げていた。法政大学などを受験し合格するも「なんとなくこの大学じゃない」という理由で浪人生活に入り、知り合いのパプのオープニングのアルバイトをはじめた小林氏は、仕事の楽しさを知ると同時にさらに叔父に“強い憧れ”を抱くようになっていた。
「大学はやめて働こうと思いました。で、叔父さんの所に行ったわけです。ここで働かせてくれって」。叔父は了承してくれたが条件を出したという。夜、大学に通って仕事と両立させること。きちんと卒業すること。簡単ではないが、後にこの約束が小林氏自身の仕事人生を助けることとなる。
中央大学に合格した小林氏は、朝8時から社用トラックでルート営業を行ない、夜6時から10時まで大学に通うという生活を送った。化学を専攻し半導体材料の研究に携わったため実務にも役立ち、大手上場企業から町工場まで多くの取引先から可愛がられた。しかし、世の中の流れから、取り残されるような感覚が年々増していった。20歳そこそこの野望を抱く青年は物足りなさを感じるようになる。「自分自身が経済の先端にいるような、世の中を動かしているような仕事がしたい!」。一度思い立つと行動せずにいられない小林氏は、4年勤めた会社を退職し、その後1年間大学での研究に専念し(1年留年した)コンサルティング会社、プライスウォーターハウスコンサルタントに就職する。
商社からなぜコンサルへ? きっかけは大前研一氏の著書『企業参謀』だったという。経営者の教科書とも言われるこの本に甚く感動した小林氏は、自らがコンサルタントとなって企業経営者、ひいては日本経済を元気にしたいと考えるようになったのである。社内で飛び交う英語には苦戦を強いられたが、政府系ITコンサル、企業の会計周りの業務改善といった複数案件に携わり、後半はプロジェクトマネージャーとして活躍。6年間勤務した後、今度は「自らが実際の企業参謀役となるため」に上場準備で経営企画室メンバーを求めていた大手外食チェーンに転職する。飲食事業との出会いである。
居酒屋をはじめとする多業態・多店舗展開を行なう企業で任されたのは経営企画室長のポジション。そのミッションは上場に向けた会計システムの構築だ。小林氏は経理業務の強化、システムの再構築、人事管理、仕入れ管理、業態開発などなど組織のあらゆる面に手を入れ、上場に向けた新たな仕組み作りを行なっていった。"経営の参謀役志望者"としてはドンピシャの仕事だが、しかし意外なことに小林氏が最も面白さを感じのめり込んだのは、業態開発だった。「大手飲料メーカーとタイアップして実現させた和風ダイニングバーの仕事はエキサイティングだったなぁ」。その運営を成功させたくて、在籍後半には自ら店長に志願して就いたほどだった。
「転職を繰り返して分かったことがあります。目の前の人が喜んでくれる仕事がなんと言ってもいちばん面白い」。前職のコンサルタントの仕事は、クライアントが業務改善の結果を実感する頃には次のプロジェクトに入っていて実態を確認することができない。喜んでくれていてもその生の声を聞くことはできないのだ。しかし飲食はまったくの別世界だった。
美味しい料理で笑顔を生み、ちょっとした気遣い(サービス)もまた笑顔を生む。気に入ってもらえれば客側から何度も足を運び、お金を使い「ありがとう」と言ってくれる。小林氏はこの単純に目の前の人に喜んでもらえるビジネスに感動し、これこそが自分が求めていた道、そして生きていく道なのではと考えるようになっていったという。
上場を間近に控え、できることはすべてやり切ったと考えた小林氏は、自身が“居酒屋のおやじ”となって自分の理想とするお店を作るため独立を決意する。1999年、地元の海老名に『合点』というダイニングバーをオープンさせる。
現在、株式会社ライブフードプロデュースは、『合点』の直営と宅配『銀のさら』『釜寅』のFC、そして飲食に関するコンサルティング事業を行なっている。特に小林氏はコンサルティング業務でアジアを忙しく飛び回り、日本企業の中国への出店、あるいは中国からの日本進出に際するアドバイザリー業務などを行なっている。
「既存事業(店)のブラッシュアップ、次の事業の創造、そして社員がやる気を出せるミーティングの実施。この3つが僕の仕事だと思っています」。元コンサルタントらしく、社員とのミーティングは「どう生きたら楽しいか」などを考え話す場にしているのだという。
また、独立志向のある社員を面白い形で支援もしている。例えば希望のある社員が会社を設立し、店長やマネージャー、人事専門の個人経営者として業務を委託するのだ。経費や税制などのメリットや、独立の一歩が踏み出しやすいことから、すでに16名の元社員が独立しパートナーとなっている。小林氏と同じオフィスに机を並べている独立者も多いので、傍からオフィスを見渡しただけでは誰が社員で誰が独立を果たした個人経営者かは分からない。
もちろん小林氏は、独立最初の仕事として海老名に『合点』をオープンした時の気持ちを忘れることはない。「自分が行きたい店を一切の妥協なしで作ろうとしました」。岐阜の古民家を買い取って再利用した柱などからなる内装、若手ながらしっかりと修行を積んだ和食料理人とベテランバーテンダーによる本物の味。ちょっと敷居が高そうな外観ながら入ってみるとフレンドリーな接客で落ち着ける店。まだ誰も海老名でやっていない店『合点』は、オープン時から繁盛し地元の人気を集めることに成功した。
飲食の仕事を選ぶ多くは、「人を喜ばせたい」と思い、「人の役に立つ仕事がしたい」と思っているはずだろう。小林氏はそこに加えて「自分が成長したい」という気持ちを持つことが大切だという。その3つが揃っていれば、自分の力で道を切り開いていくだろうし、また稼げる人になれるはずだという。
創業者の祖父と。1歳。 | 高校バスケ部。17歳。 | パブでのバイト。19歳。 |
長男1歳誕生日。昼仕事、夜大学時代。22歳。 | 合点海老名店オーナー店長時代。35歳。 | 合点海老名店1周年。36歳。 |
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