ドリーマーズ株式会社 代表取締役社長 中村正利氏 | |
生年月日 | 1968年9月24日、千葉県茂原市に生まれる。 |
プロフィール | 2人兄妹の長男で、4つ離れた妹がいる、父親は精肉屋を営み、母親も手伝に追われた。18歳で、ペンションの経営をめざし、大阪の辻調理師学校に入学。卒業後、東京に戻り、イタリアンレストランの名店に勤務。コックの修行に疑問を感じていた頃、一冊の本に出会う。ドトールコーヒーの創業者(現、名誉会長)、鳥羽博道氏に鍛えられ、「つぼ八」創業者であり、現在、(株)八百八町の代表取締役社長石井誠二氏の指導を受け、事業を伸ばし、育てた敏腕経営者。現在、「串屋横丁店舗」を22店舗、「辛獅子屋店舗」を3店舗。生まれ故郷である茂原市に「茂原工場」「惣菜工場」「テストキッチン」を持つ。工場の供給能力は現段階で50店舗分、可能だという。 |
主な業態 | 「串屋横丁店舗」「辛獅子屋店舗」 |
企業HP | http://dreamersgroup.jp/ |
ドリーマーズ株式会社の代表取締役社長 中村正利は、1968年9月24日、千葉県茂原市に生まれた。2人兄妹の長男。父親は精肉屋を経営し、母はその手伝いに追われていたそうだ。中学から空手を始め、現在も道場を手伝うスポーツマンでもある。高校は県内でも有数の進学校だったが、中村は、大学に進まず大阪の「辻調理師学校」に入学した。現在、大学進学率は99%に達すると言われている。当時はこれよりも低かったに違いないが、家庭の事情などがない限り18歳の青年にとって、なかなかできる決断ではない。そのことを問うと「大学進学に疑問を感じたから」という答えが返ってきた。「目的」が中村を動かす唯一のカギだったのだろう。では、何故、調理師学校に進んだのか。「当時、ターザンという雑誌があって、そのなかの記事の一つに触発されたんです。長野県でペンションを経営されている人がいて、こういうカッコいい生きかたもあるんだと」。ペンションの経営が、18歳の中村がみつけた一つの目標になった。そのためには調理を学んでおかなくてはならない。中村はボストンバックを抱え、新幹線に乗り込んだ。
辻調理師学校で1年間、基礎を学んだ中村は、西麻布の有名なイタリアレストランに就職する。「鍋が飛んできた」と、当時を振り返る。厳しいのはともかく、このまま調理の道を進んでいいのか、という素直な疑問と不安が頭をもたげてくる。それが入店1年後のこと。そんな時にふと立ち寄った本屋で出会ったのが「ドトールニューマーケット創造の原点」というドトールコーヒー創業者、鳥羽博道氏著の本だった。この本を読んで、鳥羽氏に憧れを抱いた中村は、レストランを辞し、履歴書を携え「ドトールコーヒー」の扉を叩いた。中村21歳、1988年のことだ。恵まれていた、というべきだろう。ドトールコーヒーで勤務した4年間、中村は憧れの鳥羽氏から直接、薫風を受けることができた。「配属された部署では、毎日、コーヒーをブレンドするのですが、良いか、悪いか、これはトップにしかできない判断だったんですね。だから、鳥羽氏が直接、テイストし、ゴーがでるまで続けられるのです。まったく妥協がないんです」。納得の味ができるまで作業は続く。鳥羽会長は深夜車で帰り、中村は工場に宿泊することも多々あった。「1杯150円のコーヒー」に凝縮された鳥羽氏の生き様を中村は学んでいくことになる。
この4年を経て、中村は起業に向け走り始めた。「鳥羽氏のように生きよう」、それが原点。だが、まだ24歳。資金もなければ、コネもない。まずは、資金だと不動産会社に就職。毎日、足が棒になるまで1軒1軒の家を訪ね営業する日々が始まった。鳥羽氏の下で「あきらめない」大事さを刷り込まれた中村は、客先で粘り込み、売上数字を伸ばした。2年目には会社のなかでトップ営業マンになり、3年目には4億円以上を一人で売り上げる敏腕営業マンになる。ちなみに、この4億円という数字は大手ハウスメーカーのトップ営業マンにも比肩する数字だ。知名度のない不動産会社のいち営業マンが達成したのだからなおさら驚く数字といえる。年収は1500万円を超える。徐々に資金のメドも立つようになる。時は「インターネット黎明期」。まだインターネットという言葉が一般化されていない、正確には1996年。中村はいちはやくインターネットに可能性を見出し、会社を起業した。ヤフー株式会社が設立され、サービスを提供し始めた年で、まだダイヤルアップという方式が取られていた頃。1メガの書類をメールで送ろうと思えば数十分も要した頃だ。
インターネットは年々、巨大な姿を現し、その重力に引かれるように何人ものネット起業家が誕生する。ネット関連というだけで多くの資金が、設立間もない会社にも集まった。「最初はホームページの作成などをやっていたのですが、4年目に『yahoo』のような検索エンジンを思いつき、壮大なチャレンジを開始することにしたんです。まず、1回目の増資で1億2000万円を集め、最終的には試算した6〜7億円まで増資を行う予定でした。1回目の増資は成功するのですが、そこでネットバブルが弾け、増資が困難になり、資金がショートしてしまうのです」。壮大なチャレンジは最初でつまずくことになった。31歳。すでに結婚もしていた。開発を念頭に抱えたエンジニアの人件費は巨費にのぼった。中村は白旗をあげた。「4年で会社を潰した」と中村はいうが、会社自体は潰れていない。正確にいえば休眠。できた借金4000万円も、数年かかったが完済している。ちなみに、会社が立ちいかなくなったことを奥さまには話していなかったそうだ。だから、店をやる、といった時もネットの会社が、飲食業にも進出するんだという風に思われていたそうだ。心配はかけまいとする中村の気持ちが透けてみえる。
ネット事業の社長から飲食業の社長に。ふつうなら転身だが、中村の場合はUターンともいえるだろう。資金もふたたびゼロに戻っていた。そんな中村を救ったのが、「一の酉」の委託経営という起業システムだった。この「一の酉」で中村は本部も驚く業績をあげる。「客数も、坪数も同じ店舗で4倍の差をつけた」と中村。当時、「一の酉」の平均月商は121万円。中村の店は最高で483万円を達成している。平均月商も430万円にのぼった。2年の契約期間を終了すると、中村はいよいよ独自店舗の開業に踏み切った。これが「串屋横丁」の始まりである。中村33歳。このとき、その後の人生を決定づける人物に出会う。「つぼ八」の創業者、現「八百八町」社長の石井誠二氏である。石井氏については、いまさら詳しく伝える必要はないだろう。数々の経営者を育成したことでも知られ「ワタミフードサービス」の渡辺氏も、石井氏のもとで学んでいる。
「税理士に紹介してもらったんです。石井氏はスグに会ってくださいました。事業計画書を持っていきアドバイスを受けようとも思っていたのですが、そういう話はまったく出てこず、人生観、仕事観を徹底して教えてくださったんです」。考えてみれば鳥羽氏から、また石井氏から直接、薫陶を受けることができた中村は恵まれている。だが、同時に両氏のDNAを「優秀さ」を実証する役目が与えられたともいえる。そんな中村がめざす店づくりとは…。「この街にできてよかったと思ってもらえる店づくり」である。とびきり新鮮な素材を入手できる「しくみ」もつくった。食品工場は、すでに50店舗分の供給能力を有している。理念のキーワードは「感動、元気、やすらぎ」だ。社員にも、アルバイトにも中村は、仕事観、人生観を教えている。中村に感銘し、アルバイトから社員になる人も少なくないようだ。中村を中心にお金ではなく、理念に惹かれたスタッフたちがあつまる強力な組織もできあがった。だが、それも手段でしかない。目的は、この飲食事業を通して、人々を元気にすることだ。現在、100店舗という目標を掲げ、社員採用にも積極的に取り組んでいる。まだ、この規模なら中村の愛弟子になることも可能だ。
辻調理師専門学校時代、19歳。 | ドトールコーヒー時代、22歳。 | 建設会社営業マン時代、27歳。 |
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