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第145回 株式会社シークレットテーブル 代表取締役社長 薬師寺祥行氏
update 10/07/06
株式会社シークレットテーブル
薬師寺祥行氏
株式会社シークレットテーブル 代表取締役社長 薬師寺祥行氏
生年月日 1968年10月19日岡山市生まれ。
プロフィール 両親と2人兄弟。 4歳上の兄がいる。繊維会社に勤めていた父は40代で独立起業し、婦人服関連の事業を始めている。ちょうど薬師寺10歳の時。中学では柔道部、高校ではサッカー部に所属する一方で、音楽にも傾倒。明治大学に入学してからは、ますます音楽にハマり、その後、30歳で断念するまでバンド活動を続けている。2003年、35歳でダイヤモンドダイニングに入社。2009年6月20日に子会社であるシークレットテーブルの社長に就任。
主な業態 「MAIMON恵比寿」「美食米門」「キリストンカフェ」「京町恋しぐれ」など
企業HP http://www.secret-table.com/

物心がついた時に、父親が脱サラ。婦人服関連の事業を興す。

1968年10月19日岡山市生まれ。薬師寺は小さな頃から外遊びが好きな少年で、小学低学年から柔道を始めている。中学3年で柔道は辞めるが、初段まで進んでいる。高校ではサッカー部にも所属していた。その一方で、音楽にも傾倒していく。好奇心旺盛な少年の姿が浮かび上がる。親の手伝いも良くしたし、高校時代には製本関連のアルバイトも行っていた。大学で東京に出る。明治大学に入り、初めて一人暮らしを始めた。ますます音楽にハマっていく。大学では、音楽サークルに入った。ドラムに、ギター。大学時代の本業は?と尋ねたら薬師寺は、音楽と答えていたに違いない。一人暮らしの生計を立てるために、アルバイトにも精を出した。飲みに行っては、音楽談義となる。その飲み代もアルバイトで捻出しなければならなかった。

ファミリーレストランを高級レストランだと思った青年。

東京での生活は新鮮そのものだった。ファミリーレストランに行き、高級なレストランと勘違いしていたほどだから、岡山での暮らしとのギャップは相当あった。生活資金をまかなうために始めた「珈琲館」のアルバイトでも、地方出身のウブな青年のまじめさが表にでる。この田舎出身の生真面目な青年をからかったのだろうか。「おまえは仕事ができないな」と、ことあるごとに指摘されたそうだ。そのうちに、コンプレックスが芽生え始める。何故。どうして。だが、ただ落ち込むタイプではない。「あれが、いい意味のトラウマになりました」と薬師寺。たしかに、「それ以来、できない奴といわれるのが嫌だからと、何をするにしても、一番できる奴を目指すようになった」とプラス転換している。

バイトと音楽と、フリーな生活に終止符を打ったのは30歳。

卒業を控え、サークル活動は次第に縮小されていく。日毎、夜毎に語り合った仲間たちも、スーツに着替え、ネクタイを締め、就職活動に入り込んでいく。薬師寺はそんな友人たちを眺めつつ、1年間、留年し、大学時代最後のアルバイト先だった会社に就職する。電話回線の営業だった。コミッションセールスだったが、売上が良く、報酬もそれなりにあった。だが、仕事内容が肌に合わず退職。バンド活動を続けつつ、TV番組の制作会社にも2年間ほど勤務する。しかし、楽しい日々はすぐに過ぎていった。やがて30歳という節目を迎える。「だんだん大人になったんでしょうね。もう、潮時だって思いもあって音楽は趣味にすることにしました」と薬師寺は、その時の決断を語っている。ここに至るまで、年齢と共に強くなる、社会的なプレッシャーとも戦ってきたはずだ。それらすべてをいったんリセットすることで、つぎの模索を始めたに違いない。

飲食業に第一歩を踏み出す。入った会社は軍隊のような組織だった。

つぎを模索した薬師寺だが、30歳という年齢から取り組めるものは何もなかった。ただ、飲食ならという思いで、ある会社のトビラを叩いた。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続けていた会社だった。「まるで異空間でした。軍隊のような組織で、社長のもと一糸乱れず戦うというような集団でもありました」。その戦う集団のなかで、「出来ない奴」と言われたくない薬師寺は、半年で主任になり出世の階段を駆け上がっていく。結局、この会社で5年間勤務することになる。この会社で得たことを2つ挙げてもらったところ、予想外の答えが返ってきた。一つは百貨店の催し物コーナーで物販を任されたことだという。いままで来店されるお客様を、言い方を選ばずにいえば「さばけ」ばよかった。しかし、物販では呼び込みから始めないと売れなかった。この事実を知ったことが一つの収穫だった。もう一つは、定食屋を任されたこと。それまではテーマレストランの店長を任されてきた。たかだか「定食屋」。最初はそんな風にも思っていた。だがそこで、定食屋の難しさを知る。椅子を引くことや水を出すことよりも、何よりも早く料理を出すことが優先される。少しでも料理を出すのが遅れると客は簡単に怒って帰ってしまうのだ。斬新な人気レストランの店長だった薬師寺の鼻は見事に折られてしまうのだ。

ダイヤモンドダイニングに転職。迷宮の国のアリスが最初の店だった。

以前の会社を5年勤めた薬師寺は35歳を迎える。子どもも授かり、つぎのステップを考える。その時出会ったのが、ダイヤモンドダイニングだった。「当時はまだ4店舗ぐらいの頃です。それでも、1店1店が個性的で、飲食の経験者から見ても魅力的でした」。このダイヤモンドダイニングに店長候補として入社する。最初に配属されたのは「迷宮の国のアリス」だった。ここで薬師寺はいきなり社長の松村氏の目に留まる活躍をする。「テーマ性の大きな店だったんですが、接客のレベルをもっと上げて、お客様に楽しんでいただけるレストランにしようと、接客技術の基本であるあいさつから教えていきました。そういうことが松村の目に留まったんだと思います」。この年から、ダイヤモンドダイニングは、記録的な店舗展開を行い始める。薬師寺が入社した翌年は、文字通り出店ラッシュだった。

赤字の店を3ヵ月で再生せよ。期待に応え、2009年、社長に就任。

薬師寺36歳の2004年、ダイヤモンドダイニングは、一気に店舗数を増やし、企業規模をみるみるうちに拡大していく。子会社も誕生した。M&Aも行った。そのM&Aの対象となった会社は、薬師寺が前職の時にいた会社だった。薬師寺は、社長の松村氏から「3ヵ月で収支をトントンまで回復させろ」と指示を受け、責任者として前職の会社に乗り込んでいく。知った顔もあった。元上司もいた。やりにくい面もあったが、売上を伸ばし、会社の業績を伸ばすことが、結局は彼らを救うことになることを薬師寺は知っていた。短期間で再生させた実績を認められ、2009年6月20日にシークレットテーブルの社長に就任する。インタビューを行った日は、就任以来、すでに半年以上経っていたが、「まだ社長というより営業本部長と言われたほうが、しっくりくる」と薬師寺はいう。いずれ社長という広報的な役割もしなければとは思っているものの、いまはまだ内部にいて、利益を上げることを優先しなければならないからだ。その意味で、まだ薬師寺は現場で戦う経営者だ。振り返れば、東京に憧れ上京し、音楽に夢中になって将来を追いかけた日々もまた、いまに続いている。その道のりが、まっすぐに見えるのは、目の前にある一つひとつのことと、逃げずに戦ってきたからではないだろうか。

思い出のアルバム
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趣味:ロックンロール 2008年 店舗オープンDM撮影にて 2010年度 入社式
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