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第147回 株式会社OEC 代表取締役社長 長谷川秀人氏
update 10/07/06
株式会社OEC
長谷川秀人氏
株式会社OEC 代表取締役社長 長谷川秀人氏
生年月日 1963年6月22日、千葉県松戸市に生まれる。
プロフィール 2人兄弟の長男。父親は建設機器のリース・販売の会社を経営。小学生時代はソフトボールに。中・高は野球に没頭する。専修大学卒後、上場企業の子会社に就職。3年間勤務した後、父親の会社に転職。しかし、1993年に会社倒産。一人、東京へ。東京で、さまざまな会社と人と出会い、新たなスタートを切る。コンサルティングのほかにも店舗の建て直しなどの仕事を行い評価を高め、1997年、独立。2004年、「もりちゃん」1号店出店。2010年5月現在で9店舗を数えている。
主な業態 「もりちゃん」
企業HP http://www.morichan-yaki29.com/

白球を追いかける少年と、経済成長の波に乗った父。

少年時代の長谷川は、いつも白球を追いかけていた。小学生の頃は、ソフトボール。中学になってからは野球に没頭した。中学は県で一番のマンモス校。長谷川はプロ野球選手をめざす。高校は専修大学の付属高校。野球の推薦枠で入学した。千葉県は野球が盛んな県の一つ。地方大会ともなれば180校が参加するほど。そのなかでベスト16まで残ったそうだ。運動能力も高く、足が速かった。与えられたポジションは「1番、ショート」、背番号は「6」だ。だが、大学に入学した長谷川は、プロの道を断念した。専修大学には、甲子園に出場した選手たちも進学してきた。さすがに、という思いがあったという。野球と一線を引く代わりに、教員をめざし、実習もこなした。中学の社会科を教えようと思っていたそうだ。ところで、長谷川の父は、長谷川が小学3年生の時に、建設機器のリース・販売業を営む会社を起業。経済成長の波に乗り、140名の社員を抱えるまでになっている。

父の会社が飲食事業にも進出、その時に、長谷川、入社。

まじめに大学に通い4年で単位を取り卒業したという長谷川だが、サーフィンやバイトにも明け暮れた学生時代だった。アルバイトは飲食が主。「大和実業」のエスカイヤクラブでも2年間バイトしたことがあるそうだ。だが、特別、飲食に何かたのしみを見出していたわけではなかった。大学を卒業した長谷川はしたいことが見つからず、父の伝手もあって、トーメンの子会社に就職。その会社では結局、3年間勤務したが、「2年間は営業、1年間は東京港横断道路の建設に関った」という。父の会社に転職。25歳の時である。この頃、父の会社は絶頂期ではなかったか。ただしくいえばバブルで日本経済全体が絶好調だった頃だ。「つくば市にヤードをつくる予定で確保した土地の眺めが良く、飲食をやろうとい話になったようなんです。それで、私が引き戻されたわけです」。父からすれば、そろそろ息子に譲るための準備を始めたかったのかもしれない。すぐに開業とは至らず、長谷川は保養所の管理などをするはめにもなったが、1年3ヵ月経った後にようやくオープンにこぎ着けることができた。120坪、137席、大手食品メーカーが開発した「飲茶」のフランチャイズ店舗だった。

バブル崩壊。倒産。父と母とは連絡が取れなくなる。長谷川は借金を一身に背負った。

「10日で7キロ痩せた」と、長谷川。1989年10月27日にグランドオープンしたこの「飲茶店」は、4日間で420万円を売り上げた。アルコールもないお店だから、かなりのハイスコアだ。社員は3名。残りはアルバイトと建機部門からの応援で店舗を切り盛りした。利益も相当上がったようだ。後に2号店も出店している。時代は、バブルの前後。バブルの崩壊により経済も、社会も、シーソーのように反対方向に傾いた。直接、傾いたのは、長谷川が指揮していた飲食部門ではなく、主要事業の方だった。1993年、負債総額50億円弱で倒産。いきなり会社は債権者で埋め尽くされた。父とも、母とも連絡がつかなくなった。呆然と立ち尽くす暇もなく、長谷川は、社長の息子ということで対応に追われた。「また10キロ痩せた」と笑わしてくれるが、それほど強烈な状況だったのだろう。3日間、駆けずりまわって金策に走る。「幸いに、都銀以外からの借金はなかった。スジの悪いところから借金がなかったので救われました」。とはいえ、債権者からは針のムシロである。当時長谷川は30歳。飲食部門を、どうにも出来なかった7億5000万円の負債と共に引き継いだ。

引き継いだ事業を放棄し、東京へ。

「何もわかっていなかった。だから引き継げたのかも知れない」と長谷川。7億5000万の借金を30歳でリアルに感じろというほうが無理だ。だが、すぐに現実になった。月々300万円。それだけの返済がのしかかる。もう無理だ。幸い、2つの飲食店は好調だったため、フランチャイザーに返すことができた。一定のメドをつけた長谷川は千葉を離れ、一人、東京へ向かう。目的があったわけではないが、ともかく東京に救いを求めた格好だった。東京に出た長谷川は、3年間、飲食店の立ち上げ支援のコンサルティング会社で働き「損益とキャッシュフローの違い」などを知る。その後の長谷川は人との出会いを通し、いくつかの会社を歩きながら、さまざまな経験を積んでいく。ある関西の会社からは、東日本における飲食部門の、運営統括のポジションを任された。そのなかである人物と出会う。店舗流通ネット株式会社の創業者である。その人に出会ったことが一つの転機になったともいう。「直営店舗部があってその部長として迎えていただき、飲食事業に関してはすべて任せてもらえたのです」。さながら経営者のような役割を演じていくことになる。だがこの時点ではまだ経営者になるという意識はなかったそうだ。

背中を押されて起業。店名「もりちゃん」は現在9店舗。まだまだ増殖中。

当時の仕事ぶりを一つご紹介しよう。西新宿にあった店だ。月商70〜80万円の売上しか上がらず、以前のオーナーから会社が引き取った。長谷川は仲間と2人で颯爽と出向き、わずか4ヵ月で月商210万円の店に作り変えている。結果だけみればまさに神がかり的。それだけの能力を長谷川は手にしていたことになる。だが、それでも起業という文字は頭に浮かんでこなかった。「実は、独立はその会社の経営者に勧められたんです。本業は不動産でしたから、給与体系も合わなかったんですね」。この話だけを聞いていると、受け身のように思えなくない。ところで、長谷川は、いまになっても社員たちに安易な独立は勧めない。何故か。答えはすぐにみつかる。父親の会社の倒産とその後処理に追われた日々の記憶が、長谷川に軽はずみな行動を起こさせない制御装置のようになって働いている。だが、その慎重さがあったゆえにチカラを磨き続けることもできたのかもしれない。こういう人は強い。全方位的な経営知識が、揺るぎない判断の基礎になっている。2004年、1号店を出店したのち、2010年5月現在で9店舗。どの店も揺ぎない人気店だ。店名は「もりちゃん」。実は、社員の名前らしい。社名の「OEC」についても伺ってみた。「『OEC』、つまり『おいしい』です」という答えが返ってきた。長谷川の人生同様、味のある会社になっていくはずだ。もちろん、学べることも一味違うことを付け加えておこう。

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