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第150回 株式会社一家ダイニングプロジェクト 代表取締役社長 武長太郎氏
update 10/07/13
一家ダイニングプロジェクト
武長太郎氏
株式会社一家ダイニングプロジェクト 代表取締役社長 武長太郎氏
生年月日 1977年1月24日千葉県生まれ。
プロフィール 中央大学法学部に入学するが、1単位も取得せず中退。
20歳で起業。めざましい成功を遂げたが、25歳の時にどん底を経験。新人2人の姿をみて、復活にかける。「第二のわが家」、この起業時のコンセプトをさらに明確に打ち出し、ゆるぎないファンを獲得。基盤作りに成功する。2010年5月現在、千葉県を中心に「こだわりもん一家」「漁だし亭」「大漁一家」「博多劇場」など14店舗を出店。一方、外食業界の活性化を目的にした社外向け『店舗プロデュース事業』にも着手。『居酒屋甲子園イベント統括理事』を務めるほか、千葉の飲食勉強会『千葉フードリーム』を立ち上げるなど、精力的な活動を展開している。
主な業態 「こだわりもん一家」「漁だし亭」「大漁一家」など
企業HP http://www.ikkadining.co.jp/

和風ダイニングバー「一家」誕生。

武長が「一家ダイニングプロジェクト」を立ち上げたのは、1997年のことである。当時、付き合いのあったサントリーグルメ事業部のスタッフに連れられ、五反田にあったダイニングバーに出会ったのがきっかけ。なかなか言葉にできなかった「やりたい店」が、具現化されていた。「これをやりたい」とスグに行動にでた。「当時、飲食店といえば大手の居酒屋ばかり。和風ダイニング、そういう発想自体なかったと思います」。「私のやりたかったコンセプトが具現化している店をみて、『第二の我が家』というコンセプトがはっきり頭のなかに表れたんだと思います」。「家に帰ってくるのだから、靴を脱ぐための下駄箱を置こう。くつろげる炬燵を置こう。『いらっしゃいませ』ではなく、『お帰りなさいませ』とお迎えしよう。そういうことが次々にイメージできたんです」。さて、この時、生まれた「一家本八幡店」は、爆発的な人気店になっていく。

母親が始めたスナックで、受け取った1万円のチップ。大学進学を決めるまで。

武長が生まれたのは1977年1月24日。千葉県出身である。兄弟は2人。父は自営業を営んでいた。この父の事業が上手くいかなくなり、母が、スナックに勤め始める。子どもたち2人が家に残り、ある日、ストーブが原因で火事になった。自分たちの不始末以外、なにものでもない。にもかかわらず、怒られなかった。いつもなら、子どもたちを正座させ怒っているはずの父が、逆に謝っている。武長は改めて、両親の愛情を感じたに違いない。だが、この事件が両親の離婚を決定づけた。武長が小学校3年生の時だ。母親は、自ら店を経営し始めた。「中学生時代から母の店を手伝った」と武長。中学から高校へはエスカレーター方式で進学。武長は好奇心旺盛な青年に育っていた。

6ヵ月。1単位も取得せずに大学中退。旅の途中で、やりたいことに出会った。

猛勉強の末、「中央大学法学部」に合格する。夜学部だとはいえ、中央大学の法学部といえばだが、エリートコースの一つである。しかし、アルバイトを掛け持つ武長は、時間の調整が上手くいかず、なかなか大学生活に馴染めなかったそうだ。「これがオレのやりたいことだったのだろうか」。答えを探す旅にでた。コインの表裏で行き先を決め、長崎へ向かう。たぶんに逃避行的な要素もあったのではないだろうか。途中、熊本で旅の資金が尽き、現地のお土産屋でスイカ売りのアルバイトを始めた。お店のおじさんにバーに連れて行ってもらい答えに出会った。「そのバーで働いているマスターを見ているうちに、飲食のおもしろさに惹かれていくんです」「笑顔に囲まれたお客様との暖かさを感じ、22歳になったら起業しよう」。旅の空を見上げながら、決意する。早速、大学は中退し、ホテルでアルバイトを開始。サービスの基礎を学びながら、資金を貯めた。13万円の手取りのうち、10万円を貯金に回す。遊ぶお金も、時間もなかった。22歳までには相当な資金が蓄えられるはずだった。だが、商売の女神は少し早めに微笑んだ。「19歳の時に、おかあさんの知り合いでクラブをやられていた方が『店を辞めたい』と相談に来られたんです。その話が終わるかどうかのうちに、ぼくがその横でまっすぐ手を挙げ、やさせてください、と」「資金は、1100万円程度必要だったのですが、まだ100万円ぐらいしか貯まっていません。だから、ほとんど母親の資金です。おかあさんがぼくにお前ならできると投資してくれたんです」。このクラブが大ヒットする。1997年の七夕の日にオープンしたこの店は、初月から1500万円を売り上げた。まだ武長はハタチに過ぎなかった。

ハタチの青年の年収は1年で2400万円になった。

そのオープンから3ヵ月後、10月に「一家ダイニングプロジェクト」を設立する。12月に1号店オープン。この店が冒頭に記した「一家本八幡店」である。この店が予想以上にヒットしたことで、すぐに2号店を出店。こちらもヒットする。当時の数字でいえば1号店は初月から800〜900万円を売り上げ、300万円の利益を叩き出している。2号店も同様の結果になり、武長の年収は2400万円になった。「儲かったら、自分の欲しいものをたくさん買おう」と必死になって働いてきた。だが実際、金が手元に入ると、使い方が分からなかった。バイト全員を引き連れ、コンビニに行き、好きなものを買わせ、家でドンちゃん騒ぎをした。それでも使えたのは5万円程度。翌日、食べ残したお菓子の残骸をみて、もったいないなと、思う性格である。無駄なお金の使い方をせずに、有意義なお金の使い方をしようと考えた。「よし、このお金を使って2010年まで50店舗にしよう」、武長は決意した。

失敗、挫折。新卒2名に救われた。

4店舗目まで、奇跡がつづいた。5店舗になって初めて商売の神様が、思い出したように試練を与え始める。武長は25歳になっていた。それまでも、たしかに人間関係では苦労した。20歳の社長を、40代の料理人たちが舐めてかかる。「店に出向くと、なんで社長が出てくんだ。社長は会社のデスクに座ってりゃあいいだ」そんな罵声を浴びせられたこともあったそうだ。だが、後になって思えば、それはまだ試練ではなかった。5店舗目、6000万円をかけ行徳店を出す。これが、こけた。武長の目が全店に行き渡らなくなっていたのが原因だろう。他店の売り上げも、同時期に昨年月対比で20%ダウンするようになった。「最初はワールドカップの影響か、とたかをくくっていたんです。でも翌月になってもまるで回復しない。どうなってんだ?と」。その後も20%のダウンが続く。行徳店はいっこうに上向かない。資金が初めてショートする。月々300万円ずつ。そうなると銀行がそっぽを向いた。どうすることもできない。逃げ出したくてしかたなかった、と武長は当時の様子を語っている。そんな武長を救ったのは、新卒採用した2名の新人だった。「たまたま彼らの店に行くと、彼らが懸命に働いているんです。彼ら2人は、初めての新卒採用者で、夢を語って、そのぼくの夢に共感して入ってくれたんです。そんな彼らがぼくの言葉を信じ、懸命に頭を下げている姿をみて、オレはなにをやってんだと」。

「第二のわが家」、原点回帰を売り上げを伸ばす。

そう思っただけで、簡単に売り上げが回復するというわけではない。まだまだ試練はつづいた。だが、少しずつ改善に努めた。「創作料理メインから、きちんとした和食の居酒屋へメニューを変更した」のも、その一つ。スタッフの意識も改革し、コミュニケーションを図ることに努めた。満を持しておむすび専門店をオープンしたが、こちらは失敗。だが、この店を「ラーメン店」に変更したときから徐々に風向きが変わった。追い風が吹き始め、銀行が1億円を融資してくれることになった。資金繰りが楽になる。長い目で経営の舵取りができるようになった。原点回帰。「第二のわが家」のコンセプトをさらに推し進めた。その結果、驚くべき数字が一つある。リピート率。武長が唯一こだわる数字だ。「一家」のそれは70%にもなる。これこそ、「我が家」というコンセプトが、多くの顧客に受け入れられた証拠に違いない。息を吹き返した武長と「一家ダイニングプロジェクト」は、その後、順調に店舗数を伸ばし、武長は、居酒屋甲子園など社外のプロジェクトにも参加し、業界自体の活性化にも取り組むようになる。ところで武長は母親のことを人前でも「おかあさん」という。インタビュー中、そのお母様が現れ、たのしい会話がほんのひと時なされた。2人の仲睦まじさが言葉の端々から伺えた。この会話を聞いているうちに、武長は母親だけではなく、スタッフともこういう関係なのだろうな、とフトそんな風に思った。武長の目を覚ましてくれた新卒者の2人は、2人とも要職についている。創業以来、武長を支え続けた常務は昔ながらの厳しさとやさしさで、武長をいまでも励ましてくれている。もちろんアルバイト一人一人も、しっかりつながっている。そう考えれば、「一家」は、スタッフたちにとっても、我が家のように帰るべきプレイスなのだな、と思えてきた。

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