カフェ・カンパニー株式会社 代表取締役社長 楠本修二郎氏 | |
生年月日 | 1964年福岡県福岡市生まれ。 |
プロフィール | 父は、一般的なサラリーマンだが典型的な博多男児。一本気な性格で人情にも篤いという。兄弟は姉と兄がおり、3人兄弟の末っ子。小学2年生の時に「海の中道」に移り住み、豊かな自然のなかで少年時代を送る。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業後、リクルートコスモスに就職。同社退職後、大前研一(マッキンゼージャパン会長)事務所に勤務し、戦略的な思考を学ぶ。2001年、カフェ・カンパニー(株)の前進となるコミュニティ・アンド・ストアーズ(株)を設立する。 |
主な業態 | 「WIRED CAFE」「A971」「SUS」など |
企業HP | http://www.cafecompany.co.jp/ |
そんな話から楠本のインタビューは始まった。福岡市にある「志賀島(しかのしま)」という小さな島で、この有名な「印」は発見されたらしい。志賀島は、本土と陸続きという珍しい島で、この島と本土を結んでいるのが、全長約8 km、最大幅約2.5 kmの巨大な砂州「海の中道」である。今では公園が広がり、リゾート地ともなっているこの「海の中道」で、楠本は小学2年生から5年生までの多感な時期を過ごしている。「元々は福岡市内で生まれたんですが、父親がたぶんロマンチストだったのでしょう(笑)。米軍基地、コンビナートしかないような海の中道に引っ越したんです」。たしかに何もなかったが、丘の上にあった家の窓からは玄界灘が一望できた。楠本は、この窓からみる景色を今でも一枚の絵画のように覚えている。赤く染まった空と海と、米軍基地内に点在する緑のペンキで塗られた家々が同時に見え、それらが絶妙の色合いを出していたそうだ。もちろん少年時代である。景色ばかりに見とれていたわけではない。徒歩すぐの海に潜り、魚を漁り、貝をやまほど漁り、学校では番長にくってかかる勇猛さも発揮した。米軍基地も少年たちにとっては、格好の興味の対象だった。コンバットを真似、ほふく前進でフェンスの向こうのアメリカに侵入した。「すでに米軍は撤退していたので、家も廃墟で、朽ち果てていましたが、その朽ち果てた感じがなんともいえずによかった」と楠本は振り返っている。こうした少年時代にみた風景が楠本の感性を構築する原風景の一つになっている。
楠本が小学6年生になった年、楠本家は市内に戻った。父親の酔狂が終わったわけではなく、兄の高校受験という現実的な問題が優先されたからだ。楠本の父は根っからの博多男児だそうだ。剣道にうるさく、兄弟3人とも剣道をやっていた。姉と兄は、それなりの実績を剣道でも残したが、楠本は唯一抵抗し、剣道だけではなくサッカー部にも所属し、2つの部を掛け持った。ささやかな抵抗というところだろう。高校は修猷館高校という進学校に進んだ。だが、成績のほうは450人中、444番。3年生になっても成績は上がらず、早くから浪人を覚悟。というか、祭り好きで企画好きな楠本にとっては、9月に開催される運動会のほうが優先順位が上だった。副ブロック長となり、企画とリーダーシップの発揮に没頭する。この運動会が終わるまで勉強はお預け。さすがに巻き返す時間は残っていなかった。1浪の末、進んだのは早稲田の政経。浪人中の様子を伺うと「1年間365日1日も休むことなく、1日10時間勉強すると決め、好きな音楽も断った」とのこと。少年の自立心の芽生えが見て取れる。早稲田大学進学。周りには個性的な人間がそろっていた。起業家の卵も少なくなかった。楠本は「491」という企画団体に所属し、ライブハウスで開かれるイベントなどを企画するという活動を行なっていた。実際にパーティーを企画したり、雑誌に企画を持っていったりもした、この当時の活動が後の楠本の仕事につながっていく。ちなみに、この当時にはすでに「起業」という二文字が念頭にあったそうだ。
卒業後、「商業施設」をやりたいと「リクルートコスモス」(現コスモスイニシア)に入社する。リクルートコスモスといえば、リクルートグループの不動産会社(ディベロッパー)であり、政界を巻き込んだ「リクルート事件」でも話題になった会社である。さて、88年、このリクルートコスモスに入社した楠本は広報に配属され、この時「リクルート事件」に巻き込まれた。社長秘書にもなり、事件の処理にもかかわっていく。そんな中で当時の苦労を共にした先輩や上司達から楠本はかわいがられた。「社会人としての振る舞いなどは、すべて当時お世話になった方々から学んだ」と楠本は言っている。だが、それだけではない。尊敬してやまない社長の秘書として振舞うことで、気遣いや心配りといったホスピタリティが磨かれたのではないか。これもまた、この期間、楠本が得た財産であることは間違いない。このように生涯、師と仰ぐ人と出会え、貴重な経験も積み重ねた楠本だが、一方では入社当初の目的である「起業」に向かって進めないもどかしさも感じていた。同期で入社し、起業を語り合った仲間たちのなかには、すでに行動を起こしている者もいた。楠本は、その後営業に異動し、今度はマンションの販売に従事。営業は初めてだったが年度でトップの成績を残す。1993年、楠本は退職し、大前研一(マッキンゼージャパン会長)事務所に入る。ここでも、大前氏からさまざまなことを学んだ。戦略的な思考もその一つだ。大きな仕掛けを行なうためには、場当たり的な思考では当然、破たんしてしまう。学生時代からの企画やプロデュース力に、また豊かで自由な発想に、明確な戦略的プロセスが組み込まれていくのは、この時ではなかっただろうか。1994年には「平成維新の会」事務局長に就任。その後独立し「小さな店を開いたり、地域開発や店舗開発のコンサルティングをしたりしていました」と楠本。冒頭に書いた「キャットストリート」の開発にもこの時にかかわることになる。
2001年、「カフェ・カンパニー」の前身であるコミュニティ・アンド・ストアーズ(株)が生まれ、楠本は創業メンバー5人とともに、東急東横線渋谷駅から代官山駅のなかほどの高架下に「SUS」〈Shibuya Underpass Society)を出店することになる。この「SUS」は、カフェ「Planet3rd」とテイクアウトデリ「Lunch to go」、バーラウンジ「Secobar」の3業態で構成された複合飲食店舗だ。楠本と「カフェ・カンパニー」をいちやく有名にした店舗でもある。もっとも、概念でいえばより深い。「地域のコミュニティの形成」である。楠本が仕掛けるいくつもの「カフェ」には、つねにそうした地域社会に根ざしたコミュニティ形成という概念がみてとれる。ホームページで楠本はこう語っている。「私たちの仕事は、カフェのある風景をつくりだすことで、日本の現代都市生活がいつの間にか忘れ去ってしまった地域に根ざしたコミュニティを再生し、活き活きとしたライフスタイルを提案し続けていくことです」。また、この「カフェ」により「みずみずしい情緒感あふれる地域社会の実現に寄与していく」とも語っている。地域社会のなかにある「食」という地域文化。今回、楠本の話を伺っていると「飲食」にはまだまだ大きな可能性が残されているような気がしてきた。飲食店の場合、立地はいうまでもなくどうすることもできない絶対条件だ。だが、楠本の街づくりという広い視点からみると、それさえ不動の条件ではなく、動かすことのできる条件のひとつとに思えてきたからだ。一方、話の端々から、合理性と芸術性、直観と冷静といった相反する言葉も、実は矛盾なく両立するのではないかという気にさせられた。「右書き、左投げ」。両手を自在に動かせる楠本は、右脳も、左脳も、上手に使い分けられるのだ。それが機能性に富みながらも、情緒ある街づくりを実現させている。街という単位で飲食業を捉える経営者。たしかに、事実は小説よりも「かっこいい」。
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