有限会社アトミックハート 代表取締役社長 荻久保功一氏 | |
生年月日 | 1973年5月21日 東京・五反田出身。 |
プロフィール | 長男で一人っ子。小学2年生の頃、両親が離婚。その後、母の手で育てられる。小学校高学年から地域のバスケットボールチームに所属。最初は弱小チームだったが、最後には都の大会で3位の成績を上げるまでになる。中学でもバスケットボールを続けたが、高校になるとスポーツより遊びが楽しくなる。暴走族に入り、高校は「正義の拳」をきっかけに自主退学。17歳から築地でアルバイトをはじめ、その後、役者をめざす傍らで飲食店のバイトを転々とする。24歳の時に出会った赤坂のクラブで商売のおもしろさを知り、役者から方向転換。飲食店での独立開業をめざし、28歳で初の店舗、「おうち」を出店。この店で「まかない」に出していた麻婆豆腐が、人気になり、「炎麻堂」が誕生する。現在の目標は、3年で「炎麻堂」を、直営だけで20店舗(現在3店舗)まで出店することである。 |
主な業態 | 「炎麻堂」 |
企業HP | http://atomic-heart.co.jp/ |
荻久保功一の朝は、そんなホステスたちがかけてくれるあいさつから始まった。小学2年生の頃、両親が離婚。荻久保は、母に引き取られた。母の職業はホステス。仕事が終わった後はきまって仲間のホステスたちが家に集まり、朝まで酒盛りが行なわれていたという。荻久保が眠い目をこすり、布団から這い出したときには、ビールやらウイスキーやらの瓶がカラになっていたに違いない。兄弟のいない荻久保は、母が勤めに出ている時は、むろん一人。夜も、もちろん一人で過ごした。とはいえ、特別それが苦になったわけではなさそうだ。「一人っ子はみんなそうだと思うのですが、さみしいとか、そういう風に思ったことはありませんでした。友だちもそうですが、誰かが一緒に家にいることも多かったし、案外、一人の時間を楽しむことができたんだと思います」。小学校高学年になり、荻久保はバスケットボールを始める。最初は、弱小チームだったが、みるみるうちに強くなり、都で3位に入るまでになったそうだ。「やればできる」、少年のみずみずしい感性に、そんな言葉が刻まれたのではないだろうか。結局、バスケットボールは中学3年まで続けている。
荻久保が通う中学校は、学区内でも荒れた中学として通っていた。それでも中学時代は良かったが、高校になって部活動をしなくなると、当時の悪友たちとも遊ぶようになり、荻久保の生活は乱れ始めた。暴走族に入り、夜な夜なバイクを乗り回した。それだけが原因ではないが、教師に目をつけられていた。反面、生徒たちからの人気は絶大でノリで生徒会の選挙に出てたところ、500人の学校で450票を獲得してしまっている。これも、教師たちからすれば、しゃくに触った。だが、この人気者の時代はすぐに終わってしまう。ある時、執拗に殴り続けられている生徒をみかね、正義の鉄拳を暴力教師と噂の高かった、教師に叩き込んでしまったのである。自主退学か、留年か。教師たちは、ここぞとばかりに荻久保に迫った。荻久保は自主退学を選択する。
17歳で、高校を退学した荻久保は、反省したわけではないが、それまでの素行の悪い生活と決別。朝5時から築地で、昼は喫茶店で、夜はレストランでと、勤勉に働いた。睡眠時間3時間という生活を1年近く送っている。「遊びよりも、仕事が楽しくなった」と、勤勉に勤めた理由を語っている。一番、年下ということもあったのだろう。どの店でも可愛がられた。19歳になった荻久保は、雑誌で見かけたオーディションに応募。見事、アクターズスクールに合格する。これが役者への第一歩だった。ところが二歩目、三歩目がなかなか踏み出せなかった。芸能事務所にも所属し、舞台や映画などにも出演したが、そこまで。「自分の立ち位置がわからないんです。イケているのか、そうでないのかも」。だから、諦めることもできない日々が続いた。24歳になって、そんな荻久保に転機が訪れた。
24歳になった荻久保は赤坂のクラブに勤めた。「1Fがマジックバーで、2Fが会員制のクラブでした。お寺の境内にたたずむ、ズバリ隠れ家的なお店でした。近くにテレビ局などもあり、その局の人や、IT関連の人たち、政界の人たちも夜な夜な訪れるような店でした。赤坂で一番、予約が取れない店と言われたお店でした」「ところが、そうなったのはオープンして半年後のことで、私が入店した頃は、1日4組のお客様がお見えになっただけで、今日は忙しかったな、という会話がなされるぐらい超ひまな店だったんです。ほかにもクラブでのアルバイト経験がありましたから、これはまずいな。そんな風にも思っていたのですが、徐々に口コミで広がっていったんでしょうね。半年ぐらいから、一転、1日の売上が120万円を超すようなモンスター級の店になっていくんです」。その店の盛衰が、荻久保の心を捉えた。「何より、一生懸命サービスすれば、すぐに答えが返ってくる。これが、たまらなくおもしろかった」と荻久保。心からボールを投げると、役者とは違って、明確なボールが返ってきたということなのだろう。「商売はおもしろい」。この思いが、役者への未練を断ち切らせてくれた。飲食店を起業しよう。それが、新たな荻久保の道になった。
あと1年で起業しよう。それが26歳の頃。役者の道を断念したときだ。「アルバイトしかしていないので資金はありません。あるといえばお客様だけでした。一人のお客様が、お金はだせないけど、内装工事はしてあげようと言ってくださり、オープンにこぎつけることができました。でも、運転資金はゼロ。1日でも、だめだったらアウトです」。ところが、この店が爆発的にヒットする。20坪の店が、毎日、客で満杯になる。「1Fでコース料理が食べられ、2Fがコンパニオンがつくようなお店で、1軒で接待もできてしまう。そんなお店でした」。この店が、アトミックハートの起点になる。だが、もともと荻久保がしたかったのはレストランで、ナイトビジネスではなかったようだ。たまたま経験のあったビジネスからスタートしたというのが、ほんとうのところ。だが、やりたくともレストランの経験は少ない。どうするのか? ところが、そのレストランを起業するチャンスが思わぬところからふってわいた。
その「麻婆豆腐」は、料理長が、ホステスやスタッフたちのまかないとして出したのが始まり。1度食べたスタッフたちからリクエストがたえなかった。それが、現在、超人気の炎麻堂の「麻婆豆腐」である。「これだけスタッフに人気があるのだからと、料理長と2人でランチのお弁当にして売り出してみたんです。店の前に長机を一つ置いて。それが信じられないくらい売れたんです。100人の行列ができたぐらいですから。そして、これはいける、と『炎麻堂』をオープンするんですが、こちらもオープン時には100人を超える行列ができたんです」。ちなみに、割引券や宣伝はいっさいしていない。客のほとんどが、純粋に炎麻堂の「麻婆豆腐」の旨さに惹きつけられてやってきた。現在の目標では、3年以内に、この炎麻堂を直営だけで10店舗まで伸ばすこと。当然、人材採用にも前向きだ。炎麻堂の「麻婆豆腐」を国民食に。役者時代には叶わなかった多くのファンから喝采を受けること。そんな荻久保の壮大な目標に参加してみるのも悪くない。
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