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第156回 株式会社一蘭 代表取締役社長 吉冨 学氏
update 10/08/03
株式会社ドリーマーズ
中村正利氏
株式会社一蘭 代表取締役社長 吉冨 学氏
生年月日 1964年12月5日、福岡県北九州市に生まれる。
プロフィール 大学在学中、父親が病に倒れ、生活費を捻出するためにアルバイトを開始。卒業後、さまざまな事業を興し、「一蘭」の屋号を守ることになる。小さな店だったが、それを全国区に。2010年6月現在、27店舗まで広がり、2007年にはニューヨークにオフィスを構えるまでになっている。稀代のアイデアマンが、ラーメン業界に巻き起こした新風と新たな常識に注目していきたい。
主な業態 「一蘭」
企業HP http://www.ichiran.co.jp/

19歳。新規開業の店舗で、アルバイトを始める。

1964年12月5日、福岡県北九州市に生まれる。4人家族の長男。姉が一人いる。サラリーマンの父。母は専業主婦。ごく一般的な家庭のなかで育っていく。小学生の頃にはソフトボール。中学時代には野球に取り組んだ。運動神経はよく、とにかくスポーツならなんでもできるタイプの少年だった。一方、小学生の頃からリーダーシップに長けていたそうだ。とはいえ、10代の頃はたいした目標もなくその日暮らし。とくに何かに打ち込んだこともなかった。そんな吉冨に一つの転機が訪れたのは19歳。父が病魔に侵され闘病生活を始めたのだ。当時、吉冨は、第一経済大学の学生。仕送りがなくなったため、食堂でアルバイトを開始した。これが飲食業との出会いである。新規開業の、オープニングスタッフの募集に応募して採用される。店主とチーフと吉冨の3人が立ち上げメンバーだった。「開業の企画からその後の運営までを経験することができた」と吉冨。「けっして楽ではなかったが、この間に経営をまなび、ラーメンビジネスにも興味を持ち始めた」とも言っている。

「子どもの頃からおまえはアイデアマンだった」と父は語った。

父の最期の言葉は、吉冨を奮い立たせた。「おまえは商売に向いている。商売人になれ」。その一言に吉冨は、こう答えた。「商売するなら資金がいる」、と。だが、父は諭すようにこう付け加えたのだった。「うちにはお金も、土地も、人脈もない。だが、おまえには頭があるじゃないか。おまえは子どもの頃からアイデアマンだった。おまえなら必ずできるから…」。吉冨、20歳の時に父は他界した。吉冨は、商売を自らの方法で模索する。メモとペンを持ち歩きアイデアがひらめけばすぐに書き留めた。だが、それほど商売は、簡単ではない。アイデアを錬り、事業を興すこともあったが、なかなか軌道に乗らない。最初に始めたのはファミコンの販売。ショップまで持ったが、儲けが出るまでには至らなかった。それもそうだろう。経営について吉冨は学んだこともない。アイデアは良かったが、商売に変換する能力はまだ修得できていなかったのである。人手不足の状況から派遣事業を開始。ある人との出会いをきっかけにコンビニエンスストア関連の物流倉庫の請負業も行なっている。外国人でも分かるように商品名を数字に置き換えたり、作業をマニュアル化したりするなどアイデアで効率を高めた。しかし、良かれと思って始めた小さな接待で人の本性をみた。相手の要求が徐々にエスカレートする。吉冨がいまも、社内で一切の接待を禁じるのはこの時の教訓からである。

ラーメンは演歌歌手。都会の片隅でなるべく寂れた小さな店を。

ラーメン店を開業することを決意した吉冨。とんこつスープに洋ごしょうではなく、赤唐辛子を用い、スープのうえに赤いたれを浮かべる、まるで一つの蘭の花びらがスープに舞うようなラーメン。まずは物件探しである。ちょうどこの頃から、ラーメンが、映画やドラマのシーンなどで人生の侘び寂びを象徴するような使われ方をするようになったこともあり、「ラーメン店は無理に目立つ必要はない」という思いがあった。“都会の片隅的”な立地で、なるべく寂れた小さな店を探したのである。歌手に例えると、きらびやかなアイドルよりも、地味な演歌歌手の方がいいという思いがあったそうだ。 ただ、そんな中でも行列ができれば目立つように、通行量はなるべく多いところ、1階の物件であること、駐車スペースなども当然考慮した。 更に店に味わいを出すために、敢えて廃材を使用するなどかなりこだわった。そしついに1993年、吉冨は「那の川店」をオープンする。ちなみに「一蘭」の創業は1960年。吉冨が経営に乗り出すまでは、老夫婦2人が細々と営む大衆ラーメン店であった。吉冨は、このラーメン店を企業化し、全国区に育てていく。

アイデアマンの本領が発揮される。

とんこつ1本に絞る。一つ目の戦略は、この単品化だった。この戦略のアイデアは、学生時代のアルバイトの時に気づいた「捨てる勇気」がベースになっている。というのも、当時、働いていた食堂のメニューは豊富にありすぎたため、従業員にも過度な負担がかかっていた。それを見てきただけに、商品を絞り、一つのメニューに特化することに重きを置くことにしたのだ。「一蘭」の代名詞にもなっていた、唐辛子ベースの赤いたれも改良した。スープからは一切の臭みを取り除いていく。単品に絞ったことで、自慢のとんこつラーメンはさらに磨かれたことになる。製麺技術も研究を重ね、自家製麺を開発した。その一方で、250円、300円が主流の当時に、一杯650円という価格で勝負をかけた。それだけ手間隙をかけた究極のラーメンだったのである。他のラーメンと比べ高額だったが、客は価格に納得。「一蘭」は繁盛店になっていく。だが、吉冨はこれで満足したわけではない。吉冨のアイデアは尽きることがなかった。「記入式オーダーシステム」「味集中カウンター」はその好例だろう。「一蘭」では味の濃さ、こってり度、にんにくの量、ねぎの種類、チャーシューのあり、なし、秘伝のたれの量、麺の堅さが選択できる。さらに、こってり度だけでも5パターンからお気に入りの度合いを選べるようにしている。まるで、自分好みのラーメンをオーダーすることができるのだ。こうしたアイデアを盛り込みながら、「一蘭」はマスコミなどからも注目されるようになった。2001年には、東京都港区に「六本木大江戸線駅上店」を開店し、関東圏に初上陸。2007年にはニューヨークに現地法人ICHIRAN USA Inc.を設立した。現在、店舗は、博多、東京、大阪、名古屋に計27店を数えるまでになる。

39歳、死の淵をみた。

2010年現在、すでに述べたように27店舗を展開する「一蘭」だが、吉冨39歳、2006年に、大きな挫折を経験することになった。事業のことではない。それであれば立ち向かえていたはずだ。人と人の信頼の糸が切れてしまったのである。ある日、突然、社員の4分の1が店を辞めてしまった。しかも、その社員たちを扇動したのは、小学時代からの幼馴染。右腕として、ともに戦ってきたはずのなかまだった。どうして? 彼がなかまたちを連れて辞めなければならないほどの状態になってしまっていたことが受け入れられず、苦悩する。思考は、暗い淵に沈んでいく。ついには遺書を書き、妻と子供、そして従業員を福岡に残し、新幹線に乗り込んだ。行き先は京都。京都の「吉兆」で食事をしたら、どこかで死のう、と思いつめた。そのとき、隣に老夫婦が座る。耳が悪いのか、何度も大きな声を張り上げていた。嫌でも話が耳に入る。「ばぁさん、ばぁさん」と夫が妻にアサヒビールを注ぎながら、「明日から原点に返ってキリンラガーにしよう」と。「原点に戻って」。その言葉が吉冨の頭のなかで何度もこだました。「また原点に戻ってやればいいじゃないか」と亡き父からそう言われているように感じた。またある店で、店員が声をかけてきた。「お客さんは、どちらから?」。吉冨が「福岡です」と答えると、店員はすかさず「一蘭のラーメンおいしいよね」と。心臓が脈打った。「遠い京都で一蘭を知っている人がいる。もう一度原点からやり直そう」。邪推だが、もしこのことがなければ、「一蘭」は、また吉冨は、アイデアと成功に溺れていたかもしれない。さらにいえば、資金があり、人脈があれば、どうだっただろう。父の言葉がやはり大きな意味を持つ。「おまえには頭があるじゃないか。おまえは子どもの頃からアイデアマンだった。おまえなら必ずできるから…」。ホームページにつぎのような一文が添えられている。<天然とんこつラーメン一蘭は、世界一とんこつラーメンを研究する会社です>。愚直なまでに磨きをかけたとんこつラーメンで勝負する「一蘭」。同時に、このラーメン店は従業員の幸せも徹底的に追求する「愛」に溢れていることも付け加えておこう。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
3歳の時 小学校3年生の時 派遣会社を営んでいた20代前半の頃(イベント現場での風船配り)
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5 思い出のアルバム6
93年オープンした1号店「那の川店」(28歳の頃) 師と仰ぐ 故・コ永賢三先生と(天神店オープン時) 現地法人を設立した頃(2007年42歳)

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