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第157回 有限会社WEEDS(ウィーズ) 代表取締役 小西正英氏
update 10/08/03
有限会社WEEDS
小西正英氏
有限会社WEEDS(ウィーズ) 代表取締役 小西正英氏
生年月日 1967年7月25日、兵庫県生まれ。
プロフィール 父、母、2歳年下の妹の4人家族に育つ。1年間の大学浪人を経て飲食の世界へ。ピーク時には250のバーをチェーン展開していた大手飲食会社に就職し、14年間勤務したのち2002年に独立。千葉中央に『新陳代謝促進食堂・辛辛』を出店。その後店舗数を拡大し、現在、首都圏に『辛辛』を5店運営する他、手羽先唐揚げの店『手羽市』3店舗、海鮮居酒屋『海とわさび』の計9店を経営。また海外法人の設立、出店計画も進んでおり、2010年内には台湾に『辛辛』をオープン予定。
主な業態 「辛辛」「手羽市」「海とわさび」
企業HP http://www.kara2.co.jp/
バーテンダーから店長へ。14年間のサラリーマン人生は、楽しく、店舗運営のノウハウを学べる最良の場だった。自らがオーナーとなり1号店オープンから丸8年が経ち、今年10店舗目で、ついに海外進出も実現する。

真冬の旅立ち

WEEDS(ウィーズ/雑草の意)の創業者、小西正英氏の父親は昭和15年生まれ。損害保険会社を定年まできっちりと勤め上げ、現在はリタイアし悠々自適の毎日を過ごしている。小西氏が飲食の世界に足を踏み入れたのは、その父親との喧嘩がきっかけだった。真夜中の口論の末に家を飛び出し、生活費を得るために飲食業界でアルバイトをはじめたのだった。
だが厳格な父は対峙すると厳しかったが、誰よりも真剣に、誰よりも優しく息子を見守り続けた。その証拠に独立の際、資金のすべてを面倒してくれた。オープン後に店を訪れた時は、数分間店内を見回し「ついでで来ただけだから」と一言発し帰っていったという。
まったく男同士というのは...。照れ屋で、それでいて深い深い何かで繋がっている。
1967年7月、兵庫県西ノ宮市に生まれた小西氏は、父、母、妹の4人家族で育つ。父親は仕事柄転勤が多く、時には単身で、時には家族全員で赴任先に赴いた。中学の3年間は小西氏も一緒に生活拠点を船橋に移したという。サッカー少年だった小西氏は友人には困らなかったが勉強するのは大嫌い。そのため小中では平均的だった成績も高校に入ると極端に下がっていき、大学受験に失敗してしまう。
「浪人は1年と決めていたし、後半になるともう働くつもりになっていました」。それは真冬のある夜のことだった。
浪人生活に終止符を打とうとしながらも就職の具体性がない息子と父親とのバトルが勃発。口論の末、小西氏は二度と戻らないつもりでコートを鷲掴みにして西ノ宮駅に向かったという。2時から始発が出るまでを駅でガタガタ震えながら過ごしたというその日のことを、笑顔で振り返る。
「本当に身一つの家出(笑)。神戸の先輩の家に転がり込み、すぐに働けるホテルの宴会場でバイトをはじめました」。意地もありがむしゃらに働き家を借りることができるようになったところで、やっと正社員として腰を据えて働ける環境に身を置くことを決意。20歳になった小西氏は、大手企業が経営するバーでウェイターから始めることとなった。

マネジメント

神戸のとあるホテルの1階で営業する80席のバー。正社員としてのスタートは想像していたより楽しかったという。意外なほど接客業が合っている自分にいちばん驚いたのは自分自身だったのかもしれない。なんと小西氏はこの会社に14年勤務することになるのだった。
ウェイターからバーテンダー、そして24歳で店長に。トントン拍子に階段を駆け上がり、自身も父親のように転勤を繰り返す。神戸3店舗、大阪2店舗、福岡4店舗と経験店舗が増えるごとに実力も付き、ステップアップしていった。
店長になりたての大阪勤務の頃には阪神淡路大震災(1995年1月17日)も経験している。店に大きな被害はなかったが、売上げが落ち込む時期と災害が重なり手腕を発揮した。例えばコスト削減を指示する本社との戦いだ。全席をオープンにしお客様に好きな席に座もらったり、1人のスタッフのリストラもしなかった(スタッフの在籍数を減らさず、個々に面談して時短勤務をお願いし、ピーク時に人数が揃うよう配置した)。リストラを敢行し復調と共に人材不足に陥りビジネスチャンスを逃した他店を横目に、小西氏は着実に実績を構築していった。「勘はいいんです。だからその頃も今も自分を信じて決断しています」。
さて、企業において店舗運営の主軸となった小西氏が、なぜ転職(独立)を考えるようになったのか? それは「社員である限界」を知ったからだった。業績アップに結びつく施策を企画提案しても、他店にはできないという理由で却下となる。横並びでなければならない現実は「俺じゃなくてもいいじゃん」という思いになりヤル気を削いでいく。アイデアがあっても飛び抜けられない環境に限界を感じた小西氏は、33歳で辞表を出した。

オーナー人生の幕開け

2002年6月、小西氏は千葉中央駅から歩いてすぐの場所に『辛辛』という韓国料理の店を出す。きっかけは前職で構築した人脈だった。元同僚が福岡で経営する『辛辛』は、専門性と特色に富み「これなら首都圏でもイケル」と感じた小西氏は、さっそく出店交渉を行なったという。もちろんFC契約などといった堅苦しいものではなく、謝礼を払っての出店。同じ看板を掲げる兄弟店として元同僚も全面バックアップしてくれた。
しかし店長経験は豊富にあれど、社長業、新規店をゼロから立ち上げる仕事は初体験。2カ月の準備期間の出来事はすべてが手探りだったという。
まず立地。ゴミゴミした繁華街を避けたかったため、あえて駅の逆側に着目。T字路の角という目立つ場所に“坪を埋め込んだユニークな外壁”の店を作ることで店舗自体に広告宣伝効果を出した。そしてスタッフ採用の求人誌広告掲載、面接も一人で行なった。仕入れ先などの業者も電話帳で調べ、信頼を得るまでは現金商売を続けたという。オープニングスタッフは18名。もちろんオーナー本人も毎日フロアに立ち、接客の陣頭指揮をとっていった。
小西氏は人に恵まれている。家出直後に迎え入れてくれた先輩、独立出店をサポートしてくれた元同僚、出店資金のすべてを引き受けてくれた父上などなど…。節目に必ず大切な人の助けがあるのだ。小西氏は今も社員と共に遊び食事をするというが、ポケットマネーを使うのだろう。それは前職の店長時代も同じだったのではないだろうか。周りのためにお金や神経を使い、それが常に自分に帰ってきている。情けは人のためならず、なのではと思うのだ。そうするとサラリーマン時代に独立資金の貯金が殆どできなかった理由も想像できるし、人との関わりでオーナーとして成功の階段を着実に登っていけていることも理解できる。

次はイタリア!?スタッフの夢を実現する場

初の出店から8年が過ぎ、WEEDSは首都圏に9店舗を展開し、年内には台湾への出店も実現する会社となった。「僕の夢というより、これからは社員がやりたいと思う事を実現する場にしていきたい」というように、もうWEEDSはオーナーのものから社員たちのものへと変化し、より大きく成長を遂げるステージに入ってきている。
本社には毎月1回店長が集合し、定例の戦略会議&営業反省会が行なわれる。シャイな店長もいるし、小西氏が現場で接客をしていた姿を見たことがない新しい控え目な店長もいる。しかし店舗の人材募集について、Webによる販促企画について、あるいはイベントキャンペーンについて発言する店長たちは日ごとにたくましくなり、小西氏は「社長としての孤独は感じない」という。
また、海外もビジネスの場だと知った社員が「イタリアに出店したい」という夢を語ってくれたと小西氏は顔をほころばせる。実力をつけた社員の独立はできる限り応援するが、社内企業の道があることも強調。例えば、イタリア出店が実現する暁には手を上げた社員に社長を任せ、以降もグループ会社としての拡大、世界展開を進めていけばいいと考えている。
店長としての現場経験が長かった小西氏は、「飲食の仕事でいちばん大切なポジションを担当しているのは、やはりお客様と接しているスタッフだ」と言い切る。その現場を託している社員、縁あって巡り会えたスタッフに、ぜひ自分の夢を叶えて欲しいし、その応援をしていきたいという。社員としても好きではじめた仕事、好きで続けている仕事で夢が実現すれば、それ以上の幸せはないはずだ。

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