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第158回 株式会社モトックス 取締役社長 平岡 篤氏
update 10/08/10
株式会社モトックス
平岡 篤氏
株式会社モトックス 取締役社長 平岡 篤氏
生年月日 1949年6月、大阪府八尾市に生まれる。
プロフィール 大学卒業後、大手アパレルメーカーに入社したが、巨大な組織で自らが埋没してしまうことを怖れ、3年で退職。酒類の卸販売を行なう中堅企業に転職。仕入れを担当した時代には地酒を探すため蔵元を丹念に回り、ナショナルブランドからの脱却を図る。その後、ワインの輸入・卸を始め、ついに特約解消を決意する。そうした改革を進めるなかで、高校時代からの友人という、現会長の寺西氏と共につねに先頭を走り、2010年、「株式会社モトックス」の4代目社長に就任する。
企業HP http://www.mottox.co.jp/
今回、登場いただく飲食の戦士は、直接、飲食に関わる経営者ではなく、酒類の卸販売を通じ、飲食の進化や多様化をサポートしてきた人物だ。平岡 篤。2010年、株式会社モトックスの取締役社長に就任し、1915年から続く老舗企業の4代目となった。今回は、この平岡とモトックスの軌跡を追いかけながら、彼らがサポートしてきた「飲食」の進化について迫ってみよう。

平凡なサラリーマンになるつもりで入社した大手アパレル会社を3年で退職。
中堅企業で、経験のない酒類の卸営業を始める。

平岡が生まれたのは、1949年6月。出身は大阪府八尾市である。四人兄弟の末っ子。実家は、戦後から繊維会社を営んでいたが、のちにガソリンスタンドを経営するようになる。
実家が事業をしている場合、子ども達もそれを見習うかのように事業を興すケースが多い。むろん2代目や3代目として事業を引き継ぐケースも少なくない。しかし、平岡は、「平凡なサラリーマンでいい」と思っていたそうだ。実際、大学卒業後は、大手アパレルメーカーに就職。ごく普通のサラリーマンとして社会人生活を送り始めた。
平岡が社会に出た1972年といえば日本中に活気があり、経済も急上昇していた頃である。平岡が就職したメーカーも、入社当時360億円程度だった売上が、3年で1000億円を超えるまでになったそうだ。1970年に開催された万国博覧会が幕を閉じ、経済が立ち上がるにつれ生活が豊かになり、日本人の多くがファッションに目覚めた頃だった。海外ブランドも輸入され、色鮮やかな時代を迎える。平岡の営業数字も気持ちよく伸びていったに違いない。
そんなファンションの黎明期。大手アパレルメーカーで、誰もが憧れるような先端を走る仕事をしていた平岡だったが、会社が大きくなるにつれ、将来に疑問を抱き始める。平岡の言葉を借りれば、「先が見え、つまらなくなってしまった」のである。いまでいうなら、ベンチャー志向といえばいいのだろうか。ともかく平岡は、巨大組織で自己が埋没してしまうことを怖れ、小さくても自らが舵を取る可能性の高い企業にこそ、己の未来を託すべき何かがあるのではないか、と思うようになるのである。
むろん父親は猛烈に反対した。それはそうだろう。誰もが認める大手企業をわずか3年で辞め中小企業に転職するなど、当時でいえば信じられない冒険である。父の目には愚行以外の何物でもないと映ったのだろう。

地酒を仕入れたことにより、提案型の営業スタイルに。
卸会社が、動き始める。

「関西で酒類の卸を行なっている会社でした。当時の売上高は20億円規模だったように記憶しています。いまでは酒類の卸は、大手に収斂されていますが、当時は関西でも同規模の会社が20社ぐらいあったんじゃないでしょうか」と、平岡は転職した当時の様子を物語る。何故、その会社だったのですか、と問いかけると、「3代目で、現会長である寺西と、友人だったんです」という答えが返ってきた。もちろん、寺西氏を頼って、特別待遇を期待しての転職ではない。事実、入社当時は寺西氏もまだ平岡とかわらないヒラの営業マンだったのだから期待するほうがおかしい。ともかくそういう風にして、小売店などにせっせと営業をかける初体験の毎日が始まった。
酒類の販売は、免許事業である。自由化される以前は、免許自体の取得も困難だった。それが参入壁となり、当時の小売や卸会社の業績は、免許に守られ安泰だった。ところが、規制緩和が始まり、業界の再編がスタート。ディスカウントショップなどのライバル会社が次々登場することになる。これによって、創業1915年の老舗企業といえども安穏としてはいられなくなった。営業職を数年勤めた平岡は、仕入れも任されるようになる。「最初はうちもナショナルブランドが中心だったんです。でも、それでは、その後が立ち行かなくなる。そう考えて、地酒を仕入れるようになったんです。1982年には日本名門酒会に加入させていただくことにもなりました」「ナショナルブランドはTVコマーシャルで売るというスタイルですが、地酒の場合そうはいきません。私たちが蔵元さんに代わって商品の良さを伝えてはじめて販売できるのです。たしかに、たいへんにはなりましたが、どのような酒が、どのような料理に合うのか。それこそ蔵元だけでも数多くあるのですから、提案の幅も一気に広がり、私たちの存在意義も高まったのです」。
実際、全国には酒好きでも把握できないほどの蔵元があり、銘酒がある。大吟醸、吟醸など米の精製方法や米の銘柄でも味は異なる。この奥深さもまた、酒のたのしみの一つだ。いい酒は、ただ酔うだけの酒ではないのである。ともかく、地酒を仕入れたことで、御用聞き中心だった卸営業が、提案中心に変わり始めた。
日本酒の次には、ワインの販売を本格的に開始する。日本酒よりも種類は豊富。同社は輸入から販売までルートを自前で確保した。平岡もワイン事業の責任者として何度も海外を訪れている。そのワイン事業がまた同社の業績を押し上げることになる。
振り返れば一つの起点は、1992年。当時、副社長であり、現在、会長の寺西氏はホームページで、およそ次のように語っている。「1992年、第2の創業といえるほどのターニングポイントを迎えました。当時、大手ビールメーカーの地場問屋であった弊社は、発売後、瞬く間に大ヒット商品となったスーパーDRYを得たものの、ますます激化する同業間の競争や業界の再編、ディスカウントショップの出現による流通革命のうねりのなかで、企業の存続さえ危ぶまれる状況に陥ってしまったのです。そこで私たちは、体力勝負を避け、他社の取り扱いが少なかった酒、輸入ワインに活路を見出したのです」。副社長の寺西氏は陣頭指揮を取り、平岡はそんな寺西氏を強烈にサポートした。社名も、現在の「モトックス」に変更。日本酒とワインがモトックスの主要な商品になっていったのである。

ワインの輸入が主事業に。アンテナショップともいえる飲食事業も立ち上げ、
提案の幅はさらに広がった。いまや飲食店にも欠かせぬパートナーである。

平岡によれば1986年ぐらいから飲食店も始めたそうだ。現在は、関連会社を立ち上げ、そちらにすべて移している。「鉄板焼&ワインKAI」などを、大阪「北新地」ほかに5店舗構えている。ちなみに「鉄板焼&ワインKAI」北新地店の食べログ評価はAランクと高い評価を受けている。もともとは「アンテナショップ」という役割であったのかもしれないが、すでに優等生といえる業績を上げている。豊富なワインが、顧客の心をわしづかみにしている査証でもあろう。むろん、この店からワインの新しいたのしみかたや、新たな銘柄がデビューする時もあるだろう。
さて、ワインでいえば、1997年〜翌98年にかけ、巻き起こった第5次ワインブームがある。この追い風にも乗り、モトックスの業績は加速度的に伸び始めた。ワイン事業中心に80億円を売り上げる。大手を含めても業界トップテンには確実に入る成績だ。そのように業界大手の同社だが、平岡には「規模の拡大のみを追いかけるつもりはない」そうだ。むしろワインのたのしみかたや、新たな銘柄をみつけ提案できる企業になりたいという抱負を語ってくれた。
「たとえば、和食系のお店からも引き合いがあるんです。さしみに合うワインは? 鍋に合うワインは? そういったニーズにお応えできる提案もさせていただいています。フランス、ドイツ、スペインといったオールドな産地だけではなく、チリをはじめとした新たな産地の提案も、その一つです。ワインの価格も下がり、いまでは1000円でも銘柄を間違えなければおいしいワインがいっぱいある。プロとして、そういう提案を通し、飲食店のサポートも行なっていきたいと思っています」。
ワイン専門家であるモトックスがプロデュースする店が新たに生まれてもいいし、すし屋とワイン専門家であるモトックスのコラボが実現するということがあっても、いいような気がした。売上シェアでいえば数%になった日本酒だが、日本の銘酒がモトックスの手により、海外に広がる日も待ち遠しい。
いずれにしても、地酒やワインが私たちの「飲食」のシーンに溶け込み、そのたのしみを覚えられるまでになったのはたしか。さらに、この地酒やワインを飲食業が積極的に取り入れることで、飲食のシーンがよりバラエティになるのは間違いないだろう。平岡の目は、そういう時代がもうすぐ来るよと、教えてくれているような気がした。

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