株式会社東京一番フーズ 代表取締役社長 坂本大地氏 | |
生年月日 | 1967年、大阪府生まれ。 |
プロフィール | アルバイト先のディスコを経営する社長の影響を受け、「商売人になりたい」と同社に就職。当事、大阪では画期的だった活魚の卸問屋をスタートさせ、奈良県内に活魚料理店をオープンし繁盛させる。23歳の時、のれん分けで独立。ディスコのリニューアルに着手するが大失敗。初心に戻って活魚料理店を出店し、起死回生。26歳の時に東京進出し、「泳ぎとらふぐ料理専門店 とらふぐ亭」を繁盛に導く。2006年、東証マザーズ上場を果たした。 |
主な業態 | 「とらふぐ亭」など |
企業HP | http://www.tokyo-ichiban-foods.co.jp/ |
「起業家にならへんか」。この言葉で、私は飲食の世界に入る決心をしました。高校時代のアルバイト先のディスコを経営していた社長の下で商売の面白さに目覚めたのです。
入社初日は、そのままディスコの運営に携わると思っていたので、私は「今日から黒服かも」と嬉々としていました。しかし社長の手には長靴があった。社長はそれを私に渡しながら、「お前は今日から魚屋だ」と言ったのです。私の顔はまさに鳩に豆鉄砲でしたよ(笑)。
社長の実家は実はすし店で、社長はその仕入れ部門を立ち上げようとしていたのです。社長は「ゼロから一を生み出す」ことが大好きな方で、当時、活魚問屋は大阪では斬新だったこともあり、何のノウハウも何もないところから新事業をスタートさせました。
最初は魚の知識もないまま市場を回って、仕入れの交渉をしました。だから生き腐れを掴まされたのも知らずにすし店に卸して、店の主人に物を投げつけられた、なんて失敗もありました。毎日、猛烈なスピードで鮮魚や仕入れの知識を習得し、1日の労働時間は20時間。初年度の年間休日は30日ぐらいだけでした。
でも「辞めたい」とは少しも思いませんでした。「社長について行く!」と決めていましたから。私より8歳年上の社長の口癖は、「商売やってたら、休めんよ」。たまに社長に飲みに連れていってもらうと、「商売の何たるか」について詳しく教えてもらいました。それでまたやる気も出てきました。
やがて卸し先である活魚料理店が繁盛しだしてくると、社長は何のノウハウもないのに今度は奈良県に1000坪ほどの土地を買って、同じような活魚店を自ら出店しました。通常8000円ぐらいする鯛の活造りを、私たちは卸問屋のメリットを生かして1980円という破格の値段で提供しました。それが魅力のひとつとなって大繁盛したのです。時代の先見性といい、商機を逃さない行動力といい、社長は私がもっとも尊敬してやまない商売人でした。
その後、同業態を4店舗出店し、経営はもちろん、調理の技術や接客…と飲食ノウハウのほとんどを私はこの時期に学びました。会社の業績もうなぎ上りで、当初は5000万円前後だった売上高が、気がつくと5年後には30億円までになっていました。
入社5年後、私は23歳で独立し、新たにディスコのリニューアルに挑戦しました。かつて自分がアルバイトとして働いていたディスコが、5年前のまま風化していたのです。
「お前に2000万、貸したるわ」と社長は借用書も書かずに、私のリニューアルに投資してくれました。さっそくアメリカに飛び、当時流行っていた米国ニューヨークのクラブを視察しました。
そして独立してから、NYのクラブスタイルをそのまま大阪に再現してリニューアル・オープンさせたのです。しかし世界最先端のスタイルが大阪の人々には格好良すぎました。やがて閑古鳥が鳴き、開店4ヶ月後にはつぶれてしまったのです。
すっかり意気消沈した私は「2000万円もの借金を、これから先、社長にどう返そうか…」と悩みました。たとえサラリーマンになって30年かかって毎月借金を返済しても、きっと社長は喜ばないだろう。できるだけ早く確実な方法で返済するには、経験豊富な活魚業態でもう一度勝負するしかない!――そう思い、私は社長に深く陳謝しながら、もう一度だけふぐ料理店をやらせてくれるようにお願いしてみたのです。社長は静かにうなずいた上に、再建のためにさらに2000万円を私に差し出しました。社長の寛大な心に、目頭が熱くなりました。
新たな気持ちで、私はとらふぐ専門店を出店し、軌道にのせて3年後には借金全額の4000万円を社長に返すことができました。「頭の中ではイメージできていても、実際はできないことがある」。それが商売の恐ろしさであり、面白さでもあることを学びました。
こうして私が26歳の頃には、ふぐ料理専門店を大阪に4店舗展開しました。しかしながら大阪では「ふぐ料理専門店」のマーケットが飽和状態ということもあり、その後、まだ浸透していない東京にて挑戦を決意。すぐに東京へ行きました。
東京はふぐの調理師免許の許可基準が全国一厳しく、参入障壁はけっして低くはありませんでした。しかしそれゆえに、東京ではふぐ料理専門店に希少価値があると思いました。「需要はあるけど供給できていない状態。つまりビジネスチャンスがある!」そう思ったのです。私はけじめをつけるため、大阪の店の経営権をすべて共同経営者の友人に譲り、裸一貫で東京に出ました。
ゼロから仕入れ業者を開拓し、店舗のオープン準備、アルバイトの採用・教育など、初めてすべてを一人でやり抜きました。96年に東京・新宿に「泳ぎとらふぐ料理専門店 とらふぐ亭」を出店すると、たちまち行列ができ、テレビや雑誌の取材も相次ぎました。生産者から直接仕入れる養殖トラフグだからこそ安く、しかも安心でき、活魚として提供することで、“美味しいふぐ料理をリーズナブルに味わえる店“として評判を獲得したのです。
その後は会社の組織固めにも着手し、2006年には東証マザーズに上場しました。現在は3業態50店舗を展開しておりますが、ふぐ専門店に関しては、今後5年間で直営(もしくはのれん分け)で首都圏に200店舗を出店する計画です。首都圏におけるふぐ料理店のマーケットは、5年後には400億円に達するとも言われており、私どもの成長チャンスはまだまだ首都圏にあると考えています。
現在の社員は190名、アルバイトは900名(4月現在)。当社が採用時に重要視している点は「しゃべっていて気持ちがいいか」。つまり人間性が第一。出戻り社員が多いのも特徴で、社員のふぐの調理師免許取得率は90%にもなります。
私は会社が上場してからも、現場によく出ています。朝から夕方までは会社でのデスクワークが中心ですが、夜は現場に出るのです。私が現場好きということもありますが、「100人の経営者を輩出する」のが私の夢だからです。技術的な面だけでなく、経営の本質も伝えていければと思っています。かつてアルバイト先の社長が私に教えてくれたように。そのためには現場でのコミュニケーションも大事だと思っているのです。今後も出店を予定しており、これから一緒に躍進する新たな人材を探し求めているところです。
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