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第163回 株式会社夢笛 代表取締役社長 高橋英樹氏
update 10/08/24
株式会社夢笛
高橋英樹氏
株式会社夢笛 代表取締役社長 高橋英樹氏
生年月日 1970年1月8日、福岡県北九州市出身。
プロフィール 高校を3ヵ月で退学。自動車メーカーで期間工として働くが長続きせず、退職。大阪の飲食店でのちに先代社長と呼ぶ専務に出会い、24歳の時に、先代社長と共に広島県福山市に有限会社夢笛コーポレーションを設立。34歳の時、この会社を引継ぎ、「なごみ」などの店舗をスタッフみんなのチカラで出店。2010年8月現在、福山市中心に10店舗の飲食店を展開し、社外では「居酒屋甲子園」の理事長を務めるなど、全国に活動基盤を広げている。
主な業態 「むてき」「なごみ」
企業HP http://www.muteki.jp/

勝ったら西、負けたら東。ジャンケンポンから始まった一つの物語。

1970年1月8日、福岡県北九州市に生まれる。2人兄弟の長男で4つ下に弟がいる。サラリーマンで寡黙な父と、共立大学の事務局長まで勤めた母。家のなかではもっぱら母が主導権を握っていた。高橋は「ガキ大将」という名の人気者だった。ワンパクだが、人に好かれる少年だった。勉強も、スポーツも良くできた。友だちの輪の真ん中にはいつも、高橋がいた。小学校からサッカーを始めた。中学3年まで負け知らず。何一つ怖いものはなく、思い通りにいかないこともなかった。ところが、高校で一転、挫折を知ることになる。「いちばんはじめに人生考えなあかんかった時に、考えへんかったんやろうね」と高橋。坊主頭になるのがイヤだったからサッカー部がなくてもいいと思って、元女子高、電車通学の2つに惹かれ、ある高校に入学した」。とりたてて勉強した記憶はないが、県でもトップクラスの進学校だった。女子生徒の多い花園のような学校だったが、エネルギーを発散できなかった。代わりにバイクに乗るようになり、タバコを吸うようにもなった。停学2回。それでも懲りず、問題を起こし、母が学校に呼ばれた。教師は、育てかたが悪いと母を責めた。「オレのことはなんぼ怒られてもええけど、おかんは関係ない」。目のまえにあったラジカセを教師めがけて投げつけた。「それでおわりよ」。高校生活はたった3ヵ月で幕を閉じた。ところで、高橋はこの当時、「餃子の王将」でアルバイトをしている。それがきっかけで飲食に惹かれたのかと尋ねてみた。するとまったく正反対の答えが返ってきた。「料理はおいしかったけど、中華だから、店のなかは油まみれで、長時間労働。オレにはもっといい仕事があるはずや、と、思っていた」。地元の友人と一緒に大手自動車メーカーの期間工に応募した。2人して愛知県に向かった。待ち受けていたのは、おそろしいほどの単純作業だった。何度も音を上げ、逃げ出したが、そのたびに引き戻された。結局、クビになり、町に放り出される。ふたたび友人と2人、名古屋駅に向かった。互いに所持金1万円。ジャンケンで勝ったほうが、西へ、負けたほうが、東へ。勝った高橋は、西へ向かう新幹線に乗り込んだ。1万円では、福岡にたどりつくことは出来ない。途中下車。高橋の物語はそこからスタートする。

おかんは、息子をよろしくと、専務に預けた。逃亡をたくらむが、その機会がみあたらなかった。

新大阪駅で在来線に乗り換え、神戸にいた唯一の知り合いだった先生宅に向かった。福岡までのキップが買えるお金を借りようと思ったからだ。泊まっていけ、その一言に甘えたのがいけなかった。翌朝、目が覚めると鬼のような形相をした母の顔が目の前にあった。連絡を受け、福岡から駆けつけてきてくれたのだ。だが、息子を連れ、福岡に戻る…というシナリオは、母にはなかったようだ。職安に行き、面接を20社ほど受けさせ、唯一、OKをだしてくれた「魚菜」という飲食店に息子を託した。当時の高橋は、アフロで、前歯もなく、顔はバイクでコケて、キズだらけ。採用してくれただけでもありがたいのに「寮もあり、給料は15万円」と15歳のヤンチャな少年には悪くない条件まで出してくれた。ところで、高橋の記憶は、高校を退学してから「魚菜」に入社するまでがもっとも曖昧だという。まるで辛い記憶を脳が勝手に忘れさせようとしているかのように。「魚菜」に入社してからの記憶は逆に鮮明だ。「寮はたしかにありましたが、6畳1間に6人。部屋の左右に2段ベッドがあり、新人のオレたちはベッドとベッドの間に寝るという有様。給与は6万5000円。うそばっかりでした(笑)」。「ここもすぐに逃げ出してやろうと、思っていました。でも、そんなタコ部屋ですから、なかなか逃亡のチャンスがみつからない。そのうちに半年が過ぎ、少しずつ仕事がおもしろくなっていったんですね」。嫌っていたはずの飲食店が、好きになる。何故か。「条件は劣悪だったが、いままで感じたことのない愛情を感じた」と高橋は振り返っている。店長はもちろんだが、専務も、料理のおやじと呼ぶほど尊敬する板長もいた。15歳の少年にはそれで十分だった。当時、綴った18冊のノートがある。レシピとまではいかないが料理のメモが並んでいる。先輩たちの技を盗みつつ記載したノートである。「右から三番目のソースをかける。まったく何のソースかわからないんです。だから位置をメモしていたんでしょうね」。いま読み返せば意味がわからないところも多い。でも、そうやって料理人に近づいたことはたしか。「これが、オレの原点だよね」と高橋。この店には、結局、3年間勤めた。その間に高橋は和食の料理人の仲間入りを果たす。とはいえ待遇が上がった様子はない。「昇給は1回もなかったね。たまに社長が1万円くれて何か食べてこいって。でも、その1万円は後で給料から引かれていた。ミナミの宗右衛門町に年越しの日に24時間営業する店があって、オレたちは、自分の店が終わるとそちらに行って朝まで応援するわけ。すると社長が『ごくろうさん』って500円くれるわけよ。タクシー代にはならないし、正月料金だからラーメン一杯も食えなかった」と笑って、3年間を締めくくってくれた。

「むてき」開業。初任給は、屋上で食べた焼肉。

退職の理由は尊敬する専務が辞め、おやじと慕う板長も退職してしまったことだ。高橋は板長とともに神戸三宮の和食店に移った。給料は40万円に跳ね上がった。いままでとは雲泥の差。だが、お客様の顔をみずに、黙々と料理をつくる、それだけの日々が耐えられなくなる。「これでは、駄目になる」。高橋はもらったこともなかった給与を捨て、大阪に戻ることを決意するのである。かつての専務の紹介で、ある会社の飲食事業を立て直すことになった。高橋が店長に就任した直後から売上が急回復した。3店を掛け持っているにもかかわらず全店が昨年対比で急激に伸び、なかには200%以上を達成した店もあったそうだ。「理由は簡単。客の方にみんなを向かせただけ」と高橋。自信もつく。この頃になって、独立を視野に入れ始めた。4年、過ぎた頃だろうか。元専務から電話が入った。「そろそろ店を始めるから手伝ってくれへんか」。お世話になった人である。断る理由はなかった。「立ち上げだけ手伝って、福岡に帰って自分の店を始めよう。そう思っていたんや」。会社設立にあたり、高橋もわずかながら出資した。1号店は、1ヵ月だけあたった。90坪の2フロア。月商900万円。悪くない数字だ。どうだ、と言わんばかりだっただろう。だが、翌月になると600万円と30%ダウン。翌々月も同様に600万円。カツカツの数字だった。初任給が出たのは3ヵ月後。「魚菜」時代の元専務であり、当時の社長から、バーベキューをするから肉を買ってこいと言われた。言われた通り、肉を購入。ビルの屋上でスタッフたちを集め焼肉パーティーが始まった。若い奴らばかり。ゴチとばかりに、肉にありつく。その手が急にとまった。「よし、これで明日からもがんばれるな」、社長はみんなをみわたして、そう言った。これが初任給だった。肉代はもちろん高橋が出した。2軒目の「串BAR」がバカあたりしなかったらどうなっていただろう。つぎに出店した「串BAR」1号店が、12坪で300万円の月商を上げた。この店が、優等生となり業績を支えた。「白木造りで、レゲェが流れる赤提灯のない焼鳥屋」がコンセプトだった。のちに4店舗まで出店し、一時は「のれん分け」も実験的に行なっている。中学生までそうだったように、何も怖くなかった。貯蓄などない。あり金、全部、つぎ込んで店をつくった。「財務も、人材育成もなにもなかった。それでもいきおいだけで店ができ、繁盛したんや、あの頃は」。店単位では、業績は順調だったが、財務状況は決して良くなかった。出資者は7名。役員も、すでに数名、規模。組織の頭が重すぎて、資金がうまく回らない。当時、どれだけ高橋はその状況を把握していたのだろうか。出資者の一人なのだから、知らないでは済まされない。だが、店長からマネージャー、営業部長に昇格した高橋には、店の運営に走り回る以外ほとんど時間がなかったのも事実である。先代社長を慕う気持ちが、人をみる目を曇らせていたといえるかも知れない。リストラも2回した。仲間を大事にする高橋には何より辛い経験だった。もう一度、「リストラせよ」と命じられたら、まっさきに自分をリストラしようとまで決意していた。「もういっしょにはいられない」。そう思ったのは、高橋が反対した、ある店のオープン当日だった。「オープン当日、スーツを着て店にやってきた社長や役員たちを見て、もうこれはだめだ、と」。懸命に働くスタッフたちの姿と、あまりに対照的だったのである。

「利より義を重んじなあかん」。2億4000万円、絶対的なマイナスからスタート。

当時の株式会社夢笛と、いまの株式会社夢笛は、社名こそ同じだが経営という意味では、まったく別物だ。高橋が経営のすべてを担っている。役員たちには全員、退職してもらった。先代社長もまた同じである。喜んで引き継いだわけではない。高橋が辞めると宣言したとき、思いもよらずスタッフ全員が、自主退職を願い出た。そうなるとむろん店はもたない。「辞めるんやったら、お前がやるか」と言われ、高橋がすべてを譲り受けた。放漫経営の結果、借入金は2億4000万円に達していた。当時、結婚していた高橋は、妻らから猛反対された。だが、もう、覚悟は決めた。いっしょに働いてきた仲間たちを見捨てられなかったからだ。「俺があいつらを幸せにしたったらええ」。銀行にリスケジュールをお願いした、それが最初の仕事。売れるものは全部、売った。店も、会社の車も、自分の車も売り、子どもの生命保険も解約した。マンションからアパートに引っ越した。残ったのは売れ残った店3つ。もう、後がない。高橋は、大事なことは「勇気ではなく覚悟だ」といっている。たしかに壮絶な覚悟だ。しかも、己のためだけではなかった。150万円。それが全財産だった。すべてつぎ込んで新業態を開業した。「なごみ」。「人と人との和をぜったい大事にせなあかん」そういう思いを店名に込めた。「これが再スタートやね」。まるで高橋の覚悟に感銘を受けたかのように、客が集まってくる。覚悟を知ったスタッフたちが懸命に働いたからだ。高橋の会社、つまり夢笛では、高橋の給料を含め、すべての数字がオープンだ。経費を誰がどのようにつかっているか、誰もが知ることができる。店長が使えるお金も、自由だ。インタビューの途中で、高橋はこんなことをいっている。「会社を引き継ぐ時、当時の出資者たちと汚い金のやり取りがあった。まだ、要求するんか。こっちは誠意を持って対応していてもね。わかってくれない。金は大事やけど、人を狂わす」。だから、高橋は「金」をクリアにする。それが「仲間という組織」では大事なことだからだ。最後に経営理念を伺った。<感動創造! 感謝の共想!>と高橋。「おかげさん、お互いさん」、そんな心が生きている会社にしたいとも言っている。2010年8月現在、夢笛は、福山を中心に「むてき」「なごみ」など10店舗を展開している。「利より義を重んじなあかん」。高橋は、そういう。利によって生きるのではなく、義によって生きる。時代がかった言葉だが、高橋の生き様は、たしかにどちらが大事かを私たちに教えてくれている。「みんなといつまでも一緒にいられる会社をつくる。これがオレのビジョンやね」。ちなみに、夢笛には10年選手がたくさんいる。離職率もきわめて低い。スタッフに社長である高橋の話を聞くと、ワンパクなガキ大将のことを語るようにみんなが、ちょっと表現に困りながら、笑顔になる。尊敬する気持ちもにじみ出てくる。「魚屋」「ファーム」「旅館」、みんなといつまでもいっしょにやりたいから、新たな事業の模索も開始している。絵空事ではない。高橋が言うのだから、もう覚悟ができているはずだ。

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