株式会社スモルストン 代表取締役社長 石田盛人氏 | |
生年月日 | 1966年5月7日生まれ。 |
プロフィール | 幼い頃から正義感が強く、曲がったことが嫌いな少年。小学生時代は、勉強もスポーツもできたが、次第にスポーツ一本の少年に。中学生時代からバスケットボールを始め、高校はバスケットボールの特待生として進学している。大学には進まず専門学校に。専門学校中退しフリーターに。その後、大手企業を転々とする。最後の勤め先となる日立で出会った後輩に刺激され、30歳で独立を決意。翌年、31歳の時に100万円を元手に35坪のBARを開業。以来、13年、2010年6月現在、レストランバー、カフェバー、ダイニング、居酒屋など9店舗を運営するに至っている。 |
主な業態 | 「ピテカントロプス」「月の洞くつ」など |
企業HP | http://www.smallstone.co.jp/ |
3つ年の離れた姉と、数分先に生まれた兄がいる。「双子なんだけど、性格もぜんぜん違うんです」、石田はそういって笑う。どちらかといえば冷静で大人しい兄と比べ、弟の石田は、わんぱくな少年だった。正義感が強く、向こうみず。曲ったことが大嫌いなのは、大工の父から受けついだ性格かもしれない。ともかく相手が高校生だろうがおかまいなし。小学生の頃に、高校生に向って石を投げて懲らしめたこともある。勉強も、スポーツもできた。当然、人気者だった。父が他界したのは小学5年生のとき。とたんに家計が苦しくなった。家賃2万円の借家で母と兄弟3人の暮らしが始まった。母はデパートの売り場で働き始め、一人で家族を養っていくことになる。家事は分担され、石田もせっせと食事をつくった。そんな生活が続いていく。
中学になった石田は、バスケットボールを始める。姉の影響がたぶんにあったそうだ。このバスケットボールにのめり込んでいく。勉強はおろそかになったが、高校へはバスケットボールのおかげで、特待生として進学することができた。もちろん、クラブ活動のみに専念できたわけではない。生活のために、レストランでアルバイトを始めた。これが、石田の原点になる。ホールとカウンターを経験し、飲食のおもしろさに惹かれていったのだ。とはいえ、まだ高校生、起業するという思いにまでは至らない。ファッション関連の専門学校に進んだのも、漠然と将来を捉えていたことの証だろう。あいまいな動機では続かない。1年も経たず、石田は専門学校を辞めてしまった。遊び仲間がたくさんいたのだろう。高校3年の頃から友人宅に転がりこみ、ハタチになるまで家にはほとんど帰らなかったという。家族、特に母のことを思えば遊んでいられなかったはずだ。だが、なにをすればいいかわからない。気持ちだけが空回りし、現実に向かい合うことができなかったのではないだろうか。ともあれ、そんなときに、兄から「しっかりしろ」と諭された。その一言が、石田を救った。高校時代にアルバイトをしていたレストランに戻り、自宅から通った。石田の生活が、初めて地に足を付けて動き始めたのはこの時からだろう。
20歳を過ぎ、セコムに就職した。「頑強なカラダの造りが評価されたんでしょうね(笑)。すぐに警備の仕事に配属されました」。いまだからいえるが、侵入した泥棒と格闘し、3〜4人は捕まえたこともあったそうだ。仕事がおもしろくないわけではなかったが、まだまだ遊び盛り。警備の仕事は時間的にもハードで、遊ぶ時間もなかった。それが理由で、2年後に退職した。その後、富士フィルムに入り、ふたたび2〜3年で転職。今度は日立に就職した。「汎用コンピュータの製造でした。何億もするコンピュータの試作品を造るのですから、おもしろくないわけはありません。まるで大きなプラモデルを造っているような感じでしたね」。26歳になって結婚もした。ようやく石田の人生は落ち着くかにみえた。そんな石田のまえに一人の青年が現れる。
新人歓迎の飲み会があった。石田も先輩として参加する。その帰り道のこと。「電車のなかで、その新人が乗客たちにからむんです。とくに外国から来ている労働者たちに。お前ら何者だ、みたいな。何ふざけたことを言ってやがるんだ、と」。持前の正義感が黙っていなかった。駅に降ろした後輩を、殴りつけた。「さすがにやばいかなと。上司に泣きつかれたらクビになるかもしれませんから」。ところが、翌日出勤すると、後輩が向こうからあやまってきた。「すみませんでした」と。2人の間は急速に近づいた。「こいつが凄く熱い奴で、話をしていると、こちらまで熱い気持ちになってしまうんです」。彼と触れ合うことで、心の奥にしまい込んでいた夢や野望が、目を覚ました。もう、止められなかった。
もともと接客が好きだった。レストランではカウンターでバーテンダーのようなこともした。BARなら自分にも起業できるはず。「やりたいこと」と「できること」が一致した。給料はいらないからと、夜はBARで、土日は料理屋で料理の勉強をさせてもらった。石田30歳のときのことだ。それから1年後に、100万円を元手に起業する。「銀行や国金に断られたんですが、まだ日立に席を置いていたものですから、それが信用ともなって、なんとか開業資金を集めることができました」。借り入れは900万円。利息も3〜4%と高かったが、一切、不安はなかったという。向こうみずというだけではない。嗅覚が働いたのかもしれない。オープンした35坪のBARは、「1ヵ月ももたない」という友人たちの忠告をあざ笑うかのようにいきなり大繁盛した。石田は繁盛の理由を「近くにBARがなかったから」というが、それだけではないはずだ。人間、石田の覚悟と人間力が客を魅了したのだろう。ここから石田の快進撃が始まる。
BARを始めたきっかけの一つにお酒が好きだったことが挙げられる。そんな石田にとって、カクテルづくりも楽しみの一つだったのではないだろうか。一方で、店をオープンさせてからの石田は、経営者の顔ものぞかせるようになる。ノウハウをおぎなうため、人脈を広げようとする。酒販メーカーと組んで、いろいろな企画を実施。そのたびにレポートを提出して、信用を高めていった。バーテンダー協会にも入会。この協会が主催する大会で、バーテンダーとして、全国ベスト6にも選ばれた。先輩たちにも恵まれたというべきだろう。石田はこのバーテンダー協会で、現在、湘南支部の支部長まで務めている。だが、そんな先輩たちと一つ違っていたのは、石田が多店舗化をめざしたことだ。自分のためではなかった。石田が多店舗化をめざすようになったのは、ある一人の人物との出会いがきっかけだ。
かつて石田が在籍した日立グループの設計士が、店によく訪れた。次第にその青年は石田の生き様に惹かれていくようになる。2人は意気投合する。青年の名前は小笠原。のちに専務になる人物である。「彼もまた熱い奴でした。何度も話あって、結局、社員になってもらうのですが、そうなると彼の将来のことも考えなくてはいけない。すると、いつまでも1店舗だけというわけにはいかなくなってしまったのです」。実は、多店舗化が引き金となり、妻と意見が合わず、離婚することになってしまった。だが、曲ったことの嫌いな石田にとって、「社員を採用するからには彼らの将来まで考える」、これは譲れない考えだった。石田はがむしゃらに走り始めた。2号店、3号店を次々オープンさせていく。とはいえ、当時、法人化もしていなかったため、信用がなく銀行が融資をしてくれない。そんな時、ある酒販の社長が石田を信用し2000万円の保証人になってくれた。小笠原が、実家の土地を担保に500万円を貸してくれた。後に引くわけにはいかない。その石田の覚悟を賞賛するかのように客が集まった。4号店からは、内装まで自分たちで行うようになる。まるで、まっすぐに進む石田の軌跡を描くように、一つひとつの店舗が誕生していく。仲間も集まってくる。法人化も行った。「スモルストン」。石田の「石」と小笠原の「小」をつなぎ合わせた。
2010年6月、現在、「スモルストン」はレストランバー、カフェバー、ダイニング、居酒屋などを9店舗展開している。2011年2月にはシンガポールにも海外1号店をつくる予定だ。だが、将来設計はそれだけではない。「早ければ年内には社長を降り、小笠原に社長を譲ろうと考えています。専務を社長にして、部長を専務にする。そういうのも、ぼくの仕事の一つですから」。「小笠原に社長を譲り、自身はシンガポールの現地で事業を一から成功させたい」という。2人の名前からとった社名。これははたして何を意味するのだろうか。ひょっとすれば、石田と小笠原だけのつながりではなく、人と人が出会うことによって生まれ、成長してきた石田の生き様そのものを物語っているといえるのではないだろうか。
幼少の頃兄と | 仲間と | 仲間と2 |
1号店創業メンバー | 創業当初のバーで | 小笠原専務と |
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