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第166回 株式会社ビーエム 代表取締役社長 青沼 弘氏
update 10/09/07
株式会社ビーエム
青沼 弘氏
株式会社ビーエム 代表取締役社長 青沼 弘氏
生年月日 1940年、山梨県中巨摩郡櫛形町(現在の南アルプス市)生まれ。
プロフィール 4人兄弟の次男。実家は専業農家を営み、ヤギ、豚を飼い、米や野菜、蚕も育てていたという。父は、町の有力者でもあったが、農家は、自給自足があたりまえ。幼少の頃から、畑仕事を手伝うなど、あまえることなく育てられた。礼儀作法に厳しかった母から教わったことも少なくなく、青沼の人間性は、この母の手によって育てられたといっていい。18歳で親戚が経営する木材工場に入社。運送会社でドライバーなどを務め、37歳でステーキハウス「B&M」大井店を開業。当時から列をつくる人気店になっている。
主な業態 「B&M」
企業HP http://www.steakbm.com/

大きくなったら東京へ。小さな胸に希望が詰まっていた。

「ザァー、ザァー、家族が寝静まるとお蚕さんが桑を食べる音が部屋に満ちるんです」。今回、ご登場いただく株式会社ビーエムの代表取締役社長 青沼 弘氏はそういって、子どもの頃を振り返り始めた。青沼は1940年に山梨県の農家の次男として生まれた。「ヤギや豚、そして蚕を飼っていた」。特に蚕は人間たちよりも大きな顔をして住居を占領していたらしい。「米や麦、そして野菜も作っていました。贅沢はできなかったですが、農家ですから食べるものには不自由しませんでした」。兄弟は4人。兄弟たちも幼い頃からはたらき手となって「農家」を支えた。家族全員で仕事を分け合い、収穫物も同じように分け合って食べた。「動物を飼っていましたから休みはありません。お蚕さんの世話のために真夜中1時ぐらいに寝て夜明け前には起きるというような生活をしていました。苦しかったのですが、当時はそれがあたりまえでした。ただ、いつか偉くなって両親をそうした生活から解放してやろうと思っていました」。次男坊の青沼はやがて家を出る。そういう風に育てられた。だから、大きくなったら東京へ。青沼の小さな胸には、希望が詰まっていた。

木材工場から運送会社に。人生の旅が始まった。

「農業高校」を卒業した青沼は、母方の親戚が営む木材工場に就職した。当時からオートメーション化を進めた近代的な工場だった。この就職で初めて山梨を離れ、千葉で暮らすことになる。「木材を黙々とカットしながらも、何かやろう、やろう、と。気持ちははやるのですが、では何をするか、それがわからなかった」と青沼。焦燥感が青年の心を揺らす。3年後、青沼は焦燥の出口を探すために、もしくは希望の入口を探すために、会社を後にした。新たに就職したのは「日本運送」という運送会社。運転手からのスタート。この会社で青沼は10数年間勤務し、身体も心もたくましい青年に育っていく。「ドライバーですから、いろんな社会に商品をお届けします。これが私の世界観を広げてくれました」。入社して数年後には、寡黙にはたらく姿が社長の目にとまり別部署に移ることになる。その部署とは「事故係」だった。問題が起こったときに頭を下げに行く係といってもよかった。この部署では「問題が起こったときにどう対処すればいいかを学んだ」という。ここでの経験も、青沼を強くした。

37歳、ステーキハウス「B&M」を開業。

キャリアを積みあげていった青沼だが、「何かをやろう」という初心を忘れたことはなかった。だから与えられた仕事は一つも無駄にはせず、糧にすることもできたのだろう。ハデではないが、こうした地道な生きかたもまた我々が見習うべきことの一つだ。それはともかく、30歳を過ぎ、それまで不明瞭だった「何か」が、おぼろげなばらも輪郭を持つようになる。青沼37歳の時、東京にある品川区役所前に「レストラン」をオープンした。これが、行列を覚悟しなければ入られない人気のステーキレストラン「B&M」の始まりである。ウエスタン調に彩られた店内に、ウエスタンミュージックが流れる。丸太で組みあげられたログハウス風の造りにも圧倒されそうだ。さて、「B&M」の1号店がオープンしたのは1977年。調理師免許を持っていた奥さまがシェフをやり、カットを徹底的に学んだ青沼が肉をスライスする。坪数もわずかな家庭的でこじんまりした店だったが、ステーキの旨さが客を惹きつけた。37歳という年齢的には、遅いスタートだが、その分、懸命に働いた。すでに2人の子どもがいた「息子たちにはかわいそうだったかもしれません。一番、父親が必要な時にそばにいてあげられなかったのですから」「野球をやっていた息子がレギュラーになれなくて、父さんキャッチボールを教えてくれっていうんです。でも、時間がない。だったら3分でいいからって」「夏休みの作文が書けないと言われたこともありました。忙しくて旅行にも行けなかったものですから。だから1度だけゴールデンウィークに、江ノ島に家族で旅行に出掛けたんです。でも、泊まるところがなくってね。しょうがなしに東京に戻ってきたのですが、そこに阪急ホテルがありまして・・・。屋上に登ったらうちの家が見えるような場所だったのですが、息子たちがここでもいいから泊まろうよっていうんですよ。ここでもいいから、みんなでご飯を食べたい、みんなで一緒にお風呂に入りたいって」「私がしてやれたことはたいしてありませんが、ただ、はたらく背中だけはみてくれていたのでしょう」。その2人の息子は、壮年になったいま尊敬する父を支えている。

利益もみんなで分け合う。それが青沼流のやりかただ。

人気店「B&M」の店内の様子やメニューはぜひ、ホームページ(HP)で確認してもらいたい。青沼の人なりが滲み出たHPだ。社名の意味も書かれている。ここではもう少し青沼本人にまつわる話を続けよう。青沼は人と一緒のとき、一人だけで食べたり、飲んだりすることはない。缶コーヒー1杯しかなければ、それも分け合う。「みんなで分け合うもの」という母親の教育が、からだに染みこんでいるからだ。だから、利益も一人占めしたことがない。利益もみんなで平等に分け合う。社員だけではなくアルバイトに同じ思いで接する。たとえば学生がアルバイトを始めると、ご両親に手紙を送っている。地方の方なら上京された折にはぜひ、という一言も忘れない。学生の生活ぶりをみて「こたつ」を買い与えたこともある。相手を思いやる。だからアルバイトも辞めない。正社員になるアルバイターも多い。青沼の下を卒業した人間たちは、いまも店を訪れる。世知辛い世の中で、ひとつ咲く花のように、美しい。そんな清らかな雰囲気が「B&M」には漂っている。だが、こんな青沼も、一度だけ怒りにふるえたことがある。あの「BSE問題」だ。過剰な報道が日々繰り返し行われた。この報道がステーキハウス「B&M」を直撃する。業績悪化。嘘のように客足が途絶える。このままでは会社が潰れてしまう。怒りは、社員たちにも向かいかけた。だが、すぐに青沼は自身を責めている。「ステーキハウスを選んだのはオレだ」。閑古鳥が鳴く店内で、青沼は社員たちに頭を下げた。「給料は責任を持って払うから、調理はメニューを見直してくれ。ホールは徹底的に掃除をしてくれ」と指示を出した。その覚悟に、思いに、改めて共鳴したスタッフたちは、1週間ですべてのメニューを見直し、店内をピカピカにみがきあげた。「BSE問題」が収まるとこうした努力が、今まで以上に強い組織がつくりあげていた。

お客様にとって、スタッフたちにとってオンリーワンの会社に。

3店舗以上、3億円以上の売上がボーダーラインだった社長たちの会合に青沼は入りたくて何度も通い、まだ2店舗しかない段階で参加させてもらうことになった。「周りには、大企業ばかり。雲のうえの人たちと話をさせてもらうだけで心がふるえた」と青沼は語る。当時のすかいらーくの社長に言われたことをいまでも覚えている。「規模の大小なんて関係ないよ」。そう、小さくても1番になれるんだ。誰にとっての1番か。それはもうおわかりだろう。お客様にとって、そしてスタッフたちにとってオンリーワンの会社に。青沼の笑顔はそういう風に語っていた。

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