株式会社サービスビジネスコンサルティング 代表取締役社長 日賀野俊雄氏 | |
生年月日 | 1972年1月20日、茨城県小山市に生まれる。 |
プロフィール | 父は銀行員、母も元銀行員だった。2人兄弟の次男。兄は画家。学習院大学時代に、手に職をつけようと飲食店でアルバイトを開始。そこで飲食に興味を抱き、大学を1年半で中退。バーを複数店舗経営する会社に入社し、バーテンダーになる。1997年、11月1日、その会社から店舗を譲り受け、独立。他店が苦戦するなかで、善戦し、評価を高める。サービスを徹底的に追求し、クリンネスに力を注ぐことが基本。現在は、外食店舗の運営で得たノウハウを基にコンサルティング事業も行なっている。 |
主な業態 | 「リフレイン」 |
企業HP | http://www.sbc.ne.jp/ |
銀行員といえば、厳格で実直なイメージがする。その銀行員である日賀野の父は、勤勉な人だった。「毎朝、ぼくたち兄弟が起きる頃には、すでに出かけ、夜の11時ぐらいに帰ってきました」。だから、あまり父と接した記憶がない。母も、父同様、銀行員だった。結婚して専業主婦になるが、こちらは気遣いの人だった。「この仕事をおもしろいと思う、ぼく自身のルーツは何かと考えたことがあるんです。すると子どもの頃の母親の姿に行き着いたんです。とにかく母は気配りの人で、父の兄弟が多いこともあったのでしょうが、親戚にも気を遣い、自宅の周辺の人にも気配りを忘れない人でした」。そんな母親のDNAを受け継いだのかもしれない。日賀野にとっては「気遣うこと」「喜んでもらうこと」、それが素直に嬉しいことなのだ。ちなみに2つ年の離れた兄は、現在、画家を生業にしている。「テンペラ画」というそうだ。親戚を見渡しても特に芸術肌の人はいないのだが、日賀野も一時期は、芸術大学に進もうかと考えたことがあるくらい芸術に興味がある。日賀野家のなかで、この兄弟2人だけが、芸術肌に育ったのかもしれない。
兄は、芸術関係の大学に進学するため九州に渡った。2年後、今度は日賀野が進学する番だ。日賀野は東京に出た。進学したのは「学習院大学」。名門である。しかし、19歳になって始めたアルバイトをきっかけに日賀野は、この大学を1年半で退学してしまう。「田町にある「すっぽん料理」のお店でアルバイトをさせていただいたんです。当時、大学生だったんですが、腕に職をつけようと考えたんです。およそ1年、学校に通いながら板前修業をしました」「その店では調理もそうなのですが、実は、先輩にあたる人が、板場にいるにもかかわらずとても人気者だったんです。どうしてだろう。観ていると気配りや気遣いができているんですね。元々ホストをやられていたと聞いて、なるほどな、と。こういう人になりたいと思い始めるんです。それで大学を中退し、バーを経営する会社に就職したんです」。
バーをはじめ、クラブやライブハウスなどのナイトビジネスが全盛期を迎えたのは、1989年ぐらいだろうか。今でいうバブルの時代である。景気が悪くなると、ナイトビジネスも精彩を欠くことになった。日賀野が、入社したのは1995年。バブルが崩壊し、その影響がまだ色濃く残っていた頃だ。一向に上向かない経済に、徐々に社会まで暗くなっていく。日賀野が就職した会社も、数店舗のバーを経営していたが、業績は悪化の一途だった。昨年対比30%まで落ち込んでいく。ところが不思議なことに日賀野が任された店だけは、前年と同水準を維持していた。それに目を留めた経営者が、売上が最も大きい店舗を日賀野に任すといい出した。「3ヵ月の間に、バブルの頃の売上に戻すことができれば、営業権を譲ってもいい」。どういう目算があったのかわからない。ただ、前年の売上に戻すだけでも、むずかしい時代である。それを最高潮だった「バブルの時期の売上に戻せ」とは、聞き方によっては冗談とも思えるような指示だったのではないだろうか。ところが、日賀野は、2ヵ月後にあっさりバブル時を超える売上を叩き出してしまう。条件が一つ加わった「この数字を3ヵ月維持できれば、営業権を譲りましょう」と。普通なら、約束が違うと怒るところだが、日賀野は、再度の条件を飲みふたたび目標を達成してしまう。最終的には任された時の2倍の月商になっていた。この店の人気ぶりは、巷でも有名になり、「一般の会社の社員が研修だといって、来店されたこともあった」という。そのサービスとは、どんなものだったのだろうか。
2度目の約束も果たしたことで、営業権を譲渡された。日賀野は15万円のつり銭だけを用意し、独立を果す。それが1997年11月1日。店はむろん軌道に乗っている。ところで日賀野が、この店、つまり現在のBAR「リフレイン」の蘇生に成功した秘訣はなんだったんだろうか。元経営者にすれば、「どんな魔法を使ったのか」といいたくなったことだろう。だが、実際には、魔法はもちろんのこと、秘訣と呼ぶほどのこともない。奇抜なアイデアがあるなら真似ることもできるが、むしろその逆で、普段の業務を丹念にトレースし、その一つ一つのレベルを上げる地道な作業に取り組んだだけである。とはいえ、これがなかなか真似できない。「清掃を徹底的に指示しました。レシートの切れ端が、床に落ちているだけでダメだ、と。特にトイレの掃除は徹底させました。気持ちだけの問題ではないんです。店舗が清潔かどうか、これは大きな差別化につながるんです」。一方、サービスレベルも極限まで高めた。「飲食のなかでも、バーの仕事、とりわけバーテンダーの仕事は、最高のサービスを伴う仕事なんです。カウンターに座られたお客様の状況を瞬時に判断する。お連れの方が部下なのか、取引先の方なのか、それを見抜くことでサービスはまるで違ってきますから」。オペレーションの統一も図った。小さなロスも積み重なれば、1日に30分や1時間のロスタイムが生まれてしまう。それを改善した。魔法のタネというならば、わずかこれだけだった。だが、これだけのことが、魔法のような結果を残したのも事実である。
「もう、大丈夫だろうって、思ってしまったんですね」。独立から4年ほどたった2001年の頃である。日賀野は、徐々に店に顔まで出さなくなる。すると、売上が減り、人間関係までギクシャクし始めた。良かったはずの定着率が下がり、離職者が相次いだ。問題の根本は、日賀野自身の慢心だった。「『おもしろいね』と言われることと、『いいね』って言われることは違うんですね。それを『おもしろさ』一辺倒で行ってしまっていたんです。一時、昔のウイスキーがブームになったことがあったんですが、『それ、おもしろいね、内の店もそれだけにしよう』と。その結果、1杯3000円以上のお酒しか飲めない店になっていったんですね」。慢心は、客の気持ちまで見失わせるような力を持っていた。だが、やがてこの「慢心」に打ち克つことで日賀野はまた一つ成長する。2008年からは、コンサルティング業にも乗り出している。開業については、飲食業以外の相談にも乗るという手広さだ。一方、催事場でスイーツの販売も行なっている。夜の世界しかしらない社員たちに昼の世界、また昼の世界ではたらく人たちの気持ちを垣間見せようと始めた事業だ。こちらも好調に滑り出している。この新たな2つの事業でも、日賀野の気配り、気遣いが生きることは間違いない。慢心に乗っ取られることも2度とないだろう。最後に人についても伺ってみた。すると、「バーテンダーは、絶対的なサービス力を養える仕事です。つまりぼくらは最高の学びの場を持っていることになります。この仕事を通して育て、将来はエリアマネジャーや、コンサルティングの仕事にも就いてもらえるようにしていきたいと思っています」という答えが返ってきた。飲食店への就職や転職を考えている人なら、一度は、その思いをぶつけてみて損はない社長ではないだろうか。
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