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第168回 株式会社ミュープランニングアンドオペレーターズ 代表取締役社長 吉本隆彦氏
update 10/09/14
株式会社ミュープランニングアンドオペレーターズ
吉本隆彦氏
株式会社ミュープランニングアンドオペレーターズ 代表取締役社長 吉本隆彦氏
生年月日 1955年2月13日生まれ。
プロフィール 神戸市出身。大阪丸ビル、第一ホテルの創業者を父に持つ。2人兄弟の次男で、長男は現在、父の後を継ぐ。幼少の頃から財界人たちと接しビジネスの世界を垣間見ながらも、忙しくもやさしい父母の下でスクスクと育っていく。アメリカに留学し、帰国後サントリーに入社。「店舗開発部」を創設し、数多くの「食」ビジネスの立ち上げに参加。後に、分社化し、現在の「ミュープランニングアンドオペレーターズ」を設立。初代社長に就任し、2010年5月現在も社長職にあり、その在任期間は20年におよぶ。
主な業態 「NOS ORG」「JIM THOMPSON's Table Thailand」など
企業HP http://www.myuplanning.co.jp/

大阪丸ビル、第一ホテルの創業者である吉本晴彦氏を父に持つ。

JR大阪駅の南西方向に、円筒形のビルが誕生したのは1976年。大阪府吹田市で万国博覧会が開催されてから6年目のことである。地上30階・地下2階、高さ123.92mの背の高いビルは、当時、周辺で唯一の高層ビルだった。このビルの創業者が、当時、関西の経済界をリードしていた吉本晴彦氏であり、今回ご登場いただく、「株式会社ミュープランニングアンドオペレーターズ 代表取締役社長 吉本隆彦」の父上である。ちなみに、丸ビル内には、「第一ホテル」という著名なホテルもあり、こちらも吉本晴彦氏が創業したものだ。当時を知る者からすれば、関西経済の復興と高度成長期の力強い足音の象徴が、このユニークな形をした「丸ビル」という存在だった。このように、関西の経済成長に貢献した吉本晴彦氏だが、子どもにとっての父親は、資産の多寡や仕事の質だけが基準ではない。「たしかに両親とも仕事に追われていましたが、週末になると時間をつくってくれ、必ずといっていいほど食事に連れていってくれました」と吉本。どうやら、父親という基準でも満点だったようだ。裕福で、円満な家庭の像が目に浮かぶ。そんな家庭のなかで吉本はスクスクと育ち、中学・高校時代には、スキーに入れ込んだそうだ。大学に進学すると当時まだものめずらしかった「フライフィッシング」にハマり、兵庫県や京都府、大阪府の渓流を回り、イワナやニジマス釣りに没頭した。「優雅」といえば「優雅」な学生時代だったといえるのではないだろうか。

学生時代早くも、店舗マネジメント、オペレーションの才を発揮する。

「小学生時代はどちらかといえば内向的な性格だった」という吉本だが、学生の頃にはスポーツにも、勉強にも、そしてもう一つアルバイトにも積極的に精を出す青年になっていた。「日本の大学にいた3年間は、父親が経営していたDQ(デイリークイーン)というアイスクリーム店ではたらいていました。百貨店の地下に店を構えている高級なアイスクリーム店で、私は主に神戸地区の、百貨店などにある店の管理をしていました」。吉本が20歳前後のことだから、1975年前後。いまのようなカラフルなアイスクリームはなかった時代である。専門店もむろんない。「飛ぶように売れた」と吉本は語っている。とはいえ、想像以上の売上を実現できた理由は、時代が良かったからだけではないだろう。吉本の「商才」が若いうちから花開いていたといえるのではないか。もっとも、吉本の給料はわずか10万円程度に過ぎなかったようだが。さて、大学4年を目の前にして、兄の勧めもあり南カリフォルニア大学に編入する。その大学を卒業後も、アメリカに残り、米国に進出していたサントリーでアルバイトを開始。「『日本からわざわざ来たんだ』なんていいながら、お酒を売るんですが、そのときにさまざまな経験ができました。とくにラスベガスには大量のお酒が流れ込んでいくんです。夜と街がお酒を飲み干していく、という感じでしょうか」。青年、吉本がナイトビジネスのダイナミズムに引き寄せられていくのは、この時の経験があったからだ。

サントリー入社。年間60〜70の新業態を開発する。

日本に戻った吉本は、サントリーに入社する。たまたま親しい友人がサントリー役員の御子息であったり、父や兄もサントリーと深く付き合っていた。アメリカ時代も含め、吉本も何かしらの縁を感じた。それが同社に入社するきっかけになったのではないだろうか。「当時はまだ、英語が話せるだけで一目置かれる存在だった」と吉本。配属されたのは営業部で、港区を3名で担当した。まだ経済が右肩上がりで、街も、人も活性化していた時代である。夜の街は、大量の人と酒を吸収した。「ちょうど第二次ディスコブーム。クラブやライブハウスも乱立し、ウイスキーが売れまくった時代でした」と吉本も語っている。アメリカ、とりわけラスベガスで観た「ナイトビジネス」が日本に定着するそんな予感まで感じていたのではないだろうか。時代はバブルに向かって走っていく。サントリーは当時、「店舗開発」の部を創設。吉本たち数名が、立ち上げに参加した。この開発部はめざましい業態開発を行い、その数も年間60〜70店舗にのぼったそうだ。「出せば、売れる」、そんな時代でもあったようである。

新たな展開のために、独立。「ミュープランニングアンドオペレーターズ」誕生。

サントリーの「店舗開発部」からさまざまなスタイルのお店がリリースされていく。「プロント」も、吉本たちがリリースした店舗の一つである。成功を重ねていく吉本だが、一つ頭を抱える問題があった。社員の転勤である。「せっかく教えた人間が転勤でいなくなる。これに悩んでいました」。と同時に、直接店舗を運営することで、現場の力が強くなった結果、コントロールできなくなってきたのである。そこで、サントリーの文化継承のために、また自らが自由に動くことができるように、「開発部」を独立させた。それがいまの「株式会社ミュープランニングアンドオペレーターズ」の始まりである。独立後、すでに20年。吉本は、この20年間、トップとして会社の舵を取ってきた。その間には、たしかに紆余曲折があった。バブルが崩壊し、多様なビジネスが生まれては、消え、そしてやがてビジネスのキャンパスは埋め尽くされていく。「すきまがなくなった」と吉本は表現する。だが、吉本が可能性を捨てたわけではない。より洗練されたビジネスを構築するための挑戦を開始している。

海外へ、若者たちよ、海外に目を向けろ。

海外進出もその一例だ。2003年から、海外に目を向け、日本人が海外でも仕事ができるように水先案内人の役割を担おうとしている。「日本人のハイホスピタリティは、世界でも通用します。日本人はチップを受け取らなくても、きちんとしたサービスができる人種です。しかも、『安心、安全』という面からの心配りができる。これは世界にも誇れることなんです」。そんな吉本に、いまの若者たちへのアドバイスを聞いた。「日本はものづくりを通して、テレビや自動車などのハイクオリティな商品を輸出してきました。残るのは、日本のハイレベルなサービス業の輸出です。そういう意味では、若い人たちが海外に目を向けるのは、とてもいいことだと思います。なぜなら、海外にはまだまだ日本人が活躍するチャンスがあるからです」。飲食はたしかに多様な、海外でも通用する「人」を育ることのできる業種の一つといえるかもしれない。「わび、さび」もしくは「おもてなしの心」、これらを海外に輸出する、そういう「人」が生まれてきてもおかしくない。吉本は、そんな日本人のサービス精神を輸出できる人を支援する、その用意をいま、着々と進めている。

思い出のアルバム
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沖縄にて趣味の釣りを。40代前半。 大韓航空社長の別荘にて。 大韓航空社長のお招きで、フライトシュミレーションのレクチャーを。
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