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第169回 株式会社三ツ星カンパニー 代表取締役社長 星野穣久氏
update 10/09/14
株式会社三ツ星カンパニー
星野穣久氏
株式会社三ツ星カンパニー 代表取締役社長 星野穣久氏
生年月日 1980年4月10日生まれ。東京都出身。
プロフィール 小学校4年生の時に、山梨県に移り、以来、山梨中心の生活がいま尚つづく。高校時代、購入したバイクの費用を捻出するために始めたホストのアルバイトが、飲食事業との、初めてのかかわり。高校卒業後、ワシントンホテルに入社。フロント業務に何より喜びを感じていた時に、父親から1本の電話が。飲食店、起業の誘いだった。
主な業態 「三ツ星マート」「古酒家(クースヤ)」
企業HP http://mitsuboshi-company.co.jp/

2002年4月、「まんまる」オープン。

「おやじ、おかん、妹、おばあちゃん、ぼくの5人がゴールデンメンバーだった」。星野は事業立ち上げの瞬間をそういう風にいって笑った。15坪の焼鳥屋が星野の原点。店名は「まんまる」。いまでも、この店は主要店舗の一つだ。開業に至った経緯は以下の通り。郵政局の局員だった父の高志氏が、息子の星野に起業を持ち掛けた。それが、始まり。当時、高志氏は保険を担当し郵便局のなかで、ずば抜けた成績を収めていたそうだ。関東では常に1。それだけ凄腕の営業マンだったそうだ。当然、収入も良かった。ところが、小泉改革で民営化されたことで、インセンティブが禁止され、収入が激減した。その減収分を補おうと、かつて経験したことのある焼鳥屋を始めようと考えたのである。ただ、民営化されたとはいえ、副業は禁止されていた。そこで高志氏はワシントンホテルのフロントに席を置く息子の星野に白羽の矢を立てた。「ぼくはその当時、フロントの仕事がおもしろくてしかたありませんでした。だから『おれ、いま仕事がたのしくてさ』って暗に断ったんですが、『なら、オレが半分やるから、お前も半分やってくれ』って。さすが凄腕の営業マンですよね。そこまで言われたら、イヤだとは言えなくなってしまって…」。こうして、親子2人。それに家族も加わった強力なメンバーで、<焼き鳥ともつ煮、沖縄料理の店>「まんまる」がオープンした。2002年4月のことである。

「まんまる」+「ビアガーデン」。夏の夜に本格デビュー。

月商90万円。それでも、なんとか利益は出た。15坪で5万円。首都圏ではまず考えられないこの家賃のおかげだった。家族5人。接客に長けた星野を中心に良く働き、店は軌道に乗る。だが、月商90万円の壁を超えられなかったのもまた事実である。そんな「まんまる」に、夏がきた。星野の頭に一つのアイデアがひらめいた。「ちょうど隣に更地があって、そこでビアガーデンをやればおもしろいんじゃないかなと」。高志氏は大反対だった。だが、今度は、高志氏が息子の説得に折れた。「20坪程度だったんですが、お店のほうと大家さんが一緒だったので、夏場だけというと、いいよってタダで貸してくれたんです(笑)」。砂利のうえにテーブルをならべ、入口にラジカセを置き、提灯を飾った。それだけの簡易な「ビアガーデン」に客が押し掛けてきた。「お前がこんなことを始めるから、こんなに忙しくなったんだ」。高志氏はあまりの繁盛ぶりに根を上げてしまった。結局、月商400万円。夏が終わる頃には大量の利益が手元に残った。「夏限定のアルバイトもいたんで、みんなでサイパンに行くぞぅって。もちろんぜんぶ店持ちです」。下記に掲載した写真の1枚は、その時のワンシーンである。ところで、この時、星野はまだ21歳。アルバイターたちと、そう年も離れていなかったに違いない。父親の反対を押し切ったひと夏の冒険が、21歳の星野を1人前の男に育てた。このビアガーデンの成功以来、高志氏は、息子に経営を委ねるようになっていく。夏が終わると、ビアガーデンの稼ぎがなくなるため、ふたたび低空飛行が予想されたが、思わぬ効果があった。ビアガーデンで知名度が上がったからだろう。「まんまる」の売上が翌月から一気に300万円に達したのである。予想以上の繁盛だが、星野はこれで満足しなかった。夏に利益を生み出してくれた隣の更地。ここを3万円で継続的に借り、コンテナを3台ならべ12坪ほどの店をつくってしまったのである。これが<琉球キッチン『古酒家(クースヤ)』>の始まり。この両店で星野は、事業の基盤を作り上げていく。事業だけではない。人材も、そうだ。現在、幹部の2人は、このとき採用した社員とアルバイトである。現在、「株式会社三ツ星カンパニー」は山梨県甲府市を中心に10店舗を構え、静岡にも進出している。

1台のバイクが運んできた「接客」という仕事。

ところで、星野は、どのような幼少期を送ってきたのだろうか。星野はもともと東京都生まれである。3歳の時に埼玉に移り、小学4年生のときに、家族全員で山梨県に引越している。父親の高志氏が仕事で行った高台からの風景に一目ぼれしたのが、引越しの理由だった。その当時、高志氏は、食品関連の会社のサラリーマン。引越しを機に、その会社も退職した。郵便局員になるのは、山梨に引越してからのこと。星野は、自然に囲まれたこの土地でスクスクと育っていく。星野が、星野の人生を決定づける「ホスト」のアルバイトを始めたのは、バイクの購入がきっかけだった。「沖縄生まれの母は、何事も鷹揚なところがあったのですが、心配性でバイクの免許を取るのもだめ、買うなんてとんでもなかったのですが、『これだけは』と父に頼み購入してもらったんです。ところが、『お金はお前が払え』と。それで、カッコいいなと思っていたホストのバイトを始めるのです」。星野は簡単にいうが、当時、まだ高校生。ホストの仕事は真夜中までつづく。「授業中はただの酔っ払いだった(笑)」と星野は笑う。実は、この高校で星野は無期停学処分を受けている。だが、それも星野にすれば、もっけの幸いだった。朝夕、教師からかかってくる電話の確認に上手に対応し、バイトに精を出した。停学の1ヵ月間で45万円のバイト代をせしめたそうだ。その後、高校を卒業し、ワシントンホテルに入社している。ところで、ホストのバイトは、接客業のなかでも極めて高いレベルのサービスが要求される。「上下関係はそれほど厳しくはなかった」そうだが、「何をすべきか」「何をしてはいけないか」を徹底的に仕込まれたそうだ。これが、星野のサービス力をみがいていく。むろん、ワシントンホテルでの仕事も、接客力を押し上げた。何より、「接客という仕事が好きになった」ことが、この当時の最大の収穫だったのではないだろうか。ともかく1台のバイクが思わぬ副産物を運んできたことになる。

恵比寿で、惨敗。「ローカル路線」を確立する。

さて、2店舗目となる<琉球キッチン『古酒家(クースヤ)』>も成功に導いた星野は、その後も順風満帆、強い帆を張り、快調に業績を伸ばした。だが、思わぬ落とし穴に落っこちてしまう。2009年。2010年の現時点からいえば、昨年のことである。「東京進出という野望があったんです。とくに恵比寿。山梨の田舎者が大都会の、それも恵比寿で成功する。こういう姿に酔いしれていたんだと思います。ちょうどいい物件があって、その恵比寿と五反田に、ほぼ2店舗同時オープンしたんです。恵比寿なら月商700万円は間違いなくいくだろうと」。成功のイメージしかなかった。だが、この店がこける。「全店舗のなかで1番高い家賃の店だったんですが、売上は1番低かったんです(笑)」。月商200万。損益分岐点も割っている。だが、なかなか決断できなかった。いままでの自信が木っ端みじんに砕かれた。だが、それを受け入れられなかった。「1年間、他の店の利益を全部、つぎ込んだ」と星野は語っている。結局、この2つの店舗は閉店した。同時に、星野は東京から撤退する。「分相応」という言葉がある。ローカルで成功できても、東京で成功するには、まだ分相応ではなかったのだろうか。そうは思わない。星野の経営スタイルが、競合の激しい都市では通用しなかった、それは事実であろう。しかし、あくまで現時点の話。長い目でみれば、この2店舗の撤退は、星野にとってプラスになるはずだ。実際、「これでうちの『低コスト』『早期回収』『ローカル』というスタイルが確立できた」と星野自身もそう語っている。すでに、山梨のお隣り静岡に新店舗出店の構想も打ち出した。そういう意味でいえば「分相応」かどうかではなく、「時期尚早」という言葉がしっくりくる。星野は、「今後はあくまでローカルで勝負する」と断言しているが、地域で力をつけ、強力な組織を作りあげた三ツ星カンパニーが、やがて、競争に明け暮れ辟易した都市の店舗を圧倒する時がきてもいいのではないか、と思う。ちなみに、三ツ星カンパニーでは現在、積極的な人材募集を行っている。組織強化と共に、労働条件の改善を積極的に推し進めていくためだ。「もうすぐ完全週休2日制が実現します」と星野は誇らしげにいう。「こういうことが実現できてはじめて、業界のステイタスも上がる」とも。そんななかで新たな人材に求めるのはヤル気。東京という激戦区から離れて、ローカル路線に将来を託す若き経営者。この「ローカル路線」が、いつの日か、飲食業界のメインストーリーになるかもしれない。それは、今後入社してくる仲間たちのヤル気、次第だ。

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