東京サバティーニ・インテレスト株式会社 代表取締役社長 青山三郎氏 | |
生年月日 | 1953年、東京生まれ。 |
プロフィール | 服飾デザイン専門学校を卒業後、アパレル業界に就職。23歳で独立し、自社ブランドの製造・小売業をスタート。15年間で国内外に100数十の直営店を展開するブランドに育てた後、投資顧問業へ進出。2003年に東京サバティーニ・インテレスト株式会社の取締役に就任し、2006年からは代表取締役社長を勤める。 |
主な業態 | 「サバティーニ」 |
企業HP | http://www.sabatini.co.jp/ |
「仕事は夢を実現するためのもの」。青山氏がデザイン学校に進みアパレル業界に就職したのは、まさにそのためだった。「自分が作りたい服、売りたい服を世の中に発信したい」。メーカーで1年、小売業で1年という短い企業経験だったが、そこで確信したのは「自分で会社をやれる」という自信。23歳という若さながら独立を果たした。
当時はまだベンチャーという言葉もなかった時代。周りは驚いたに違いない。しかし、3名で始めた婦人服の製造・小売会社は順調に成長していく。ちょうど設立間もない時期に原宿のラフォーレがオープンを控えており、そこに1号店のテナント出店が決まる。女性のキャリアゾーンを対象とした青山氏のブランドは人気を得て、15期の間に日本・台湾・香港にビジネスを広げ、100数十店の直営店を展開し年間100億円以上を売り上げる会社となった。
物心つく頃からおしゃれに興味があり美味しいものが大好きだったという青山氏。影響を与えたのは父親の存在だったといえる。飲食店情報を掲載する「味の手帳」の出版を行っていた父親は、運転免許をとった18歳の青山氏にアシスタント業務を依頼する。といっても仕事は車に雑誌を積んで飲食店を周るというもの。しかし青山氏は、単に雑誌の配達では納まりきらなかった。
店主や料理長と馴染みになり、いつの間にかカウンターに座り一流の料理人が作り出す味を楽しんでいる。他店情報にも詳しいため、料理人も青山氏の来店を心待ちにして熱心に会話すようになった。店作りや味の強弱、盛り付けの工夫など、いわゆる星のつくレベルのレストランで語り合い、それが料理人の仕事に変化をもたらしたことも少なくなかったという。
ただ、飲食の世界ではなくアパレルの道に進んだのは、「食はあくまでも生活の延長」という感覚だったからだという。「サバティーニ」に通いはじめるのは、経営するアパレル会社が店舗数を伸ばし安定路線にのってきた20代後半。「ハレの日に訪れる店」だったが、2度目の来店ですでに旧知の友のように両手を広げて迎えてくれるサバティーニ氏のもてなし、そして料理は、日本のレストランにはない印象的なものだった。
仕事で転機を迎えたのは38歳の時。店舗が増えルートが確立されると、単に自分たちが作りたい服、売りたい服だけを提供していくわけにはいかなくなった。売れる服を出す、本来作りたくないLLサイズもラインナップしなければならない…。それが「夢のためではなく食べるためにやっているよう」で違和感を感じはじめるようになったという。
時はバブル崩壊後で、金融引き締め、高金利の時期。個人資本の会社が健全に企業経営をしていくのは今後厳しくなるとの予感もあった。ファッションの仕事にマンネリ感も感じていた。「40歳を目前にしたもう一度大きなトライできるこの時に、しかも企業としてのブランドの力があるうちに」…。M&Aによる譲渡を行い、その資金を元に違う事業に投資してみようと決断した。
青山氏が次にビジネスとしたのは投資顧問業だった。何せ自分自身が婦人服の製造・小売業でノウハウを培った経験がある。アパレルで出店を考える顧客が何を求めているか、どんな状況の元に出店したいかが手にとるように分かる。また、テナント集客で収益を上げたいオーナーにどんなブランドを誘致すべきかも同様だ。不動産の目利き、空間演出…。顧客のニーズに対するテンポの早い提案が奏功し、第二ステップともいえる投資顧問ビジネスも軌道に乗った。
そんな時出会ったのが「サバティーニ」の案件だった。サバティーニ3兄弟の一人が亡くなり、高齢のために交代で日本に滞在することもきつくなってきており、信頼できる相手への経営権譲渡の話が持ち上がっていたのだった。「サバティーニ」のファンで、40代からは常連客になっていた青山氏は、組織を健全に継承できる人間を探す「サバティーニ」に、投資家として自ら手を上げた。2003年のこと。だがこの時はまだ自らが経営に参画するつもりはなく、社長職に就くなど考えもしなかったことだという。
それまで一ファンとして「サバティーニ」に通っていた青山氏は、例え自分が買った店となり経営環境が変っても、リストランテ自体の在り方は一切変える気はなかった。逆にイタリア・ローマと同じリストランテを日本に実現したサバティーニ兄弟の意思を継承することが使命だと考えていた。サバティーニグループの総支配人を代表取締役に立て、サバティーニを愛する従業員に継続して働いてもらう。投資家は金融保証、金融取引の問題や運営を行うだけで、いわゆる実務はリストランテのプロたちに任せた。
ただ、東京青山の「サバティーニ」の他に複数のレストラン、バールを展開する中では、どうしても組織の求心力のようなものが必要になってきたという。創業者であるサバティーニ兄弟のような全従業員が注目し心を一つにできるような存在…。今から2年前の2006年、青山氏は再び社長職に就く決意をした。日本でいちばんのイタリア料理の店、リストランテであり続けるために、経営理念を元に組織を引っ張る。ローマを見失い店がバラバラにならないよう経営的バックアップを行う。これを自分自身の役割としたのだった。
青山氏は社長になった今でも「サバティーニ」のファンであり常連だという。商談、家族の誕生日などに予約を入れ、もちろん自分でお金を払って時間を楽しむ。「旨いか不味いかを冷静に味わう立場を崩したくない」からだ。
レストランビジネスは素人と自らを評価するが、顧客は何を求め「サバティーニ」に来るかは分かる。それに応えるレストランであれば、ビジネスは成り立つ。顧客視点・アドバイザー的観点を持つ社長がいてもいいじゃないか、という考え方だ。
また、レストランというのは遊びがお金を生むビジネス。ギスギスした会社にしたくないとも言う。時間があれば店舗を周り従業員たちとコミュニケーションを図る。定例の店長会議も数字だけ詰めるなどということをせずにアイデアを出し合う場にする。従業員と勉強のために食事に出かけることも少なくない。日々の数字に追われる働き方をしてしまうと、結局歪みが出てくる。レストランは働く人々がアイデアと工夫を楽しみ、それによって人を楽しませなければならない。舞台裏が暗の世界では、決してよいサービスなどできないと考えている。
「サバティーニ」は創業時から働くシェフがいて、独立以外は定年で卒業する従業員も多い。「僕は後乗りですし料理やサービスのプロでもない」という青山氏は、経験豊富な従業員の意見を尊重することも多い。しかし、合理性とのバランスは大切にしている。従業員の給与、生活レベルのアップに責任があるからだ。
その上で社長業としていちばん大切なことは何かという質問に「気持ちを通じさせること」と語る青山氏。日本風でもなく創作でもない本当のイタリアの味を、サバティーニ3兄弟が創業した当時と同じスタイルで貫く。これは顧客に対して大々的に宣伝する以前に、働く仲間、従業員一人ひとりと真剣に共有しなければならないことだという。そのために欠かせないのは、やはり日々のコミュニケーションなのだ。
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