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第171回 株式会社ドリームリンク 代表取締役社長 村上雅彦氏
update 10/09/21
株式会社ドリームリンク
村上雅彦氏
株式会社ドリームリンク 代表取締役社長 村上雅彦氏
生年月日 1962年10月、秋田県秋田市に生まれる。
プロフィール 父は銀行に勤め、母もかつては銀行員だった。姉が1人。銀行員だった父は転勤族だったようだ。小さな頃から素行が悪く、中学・高校になると拍車がかかった。高校に入学するも一週間で退学。翌年、違う高校に入学し直したが、2年生の修学旅行後にまた退学になった。停学も多く、そのときに読んだ矢沢永吉氏著の「成り上がり」に感銘を受け、学歴に縛られない生き方を追求する。父と共に「村さ来」を開業。工夫、アイデアを凝らし、業績を上げ、その後は新ブランドを次々立ち上げた。何ものにも縛られない自由な生き方が豊かな発想を生んでいく。2017年3月現在、北海道から九州まで居酒屋、カフェ、高級業態など20以上の業態を展開。店舗数は100店を超える。社員の幸せを第一に考える「企業国家論」という経営哲学を唱え躍進している。
主な業態 「半兵ヱ」
企業HP http://www.dreamlink.co.jp/

居酒屋ブーム、その先頭を走っていたのが「村さ来」だ。

「村さ来」。中高年の人は特に親しんだ店名だろう。1970年代に居酒屋ブームを巻き起こした「村さ来」は、「養老乃瀧」「つぼ八」とならび、当時、居酒屋御三家の一つに数え上げられている。FC方式を取り入れた出店方法も功を奏し、全国のいたるところに、「村さ来」の看板が上がり、「酎ハイブーム」も巻き起こした。今回、ご登場いただく株式会社ドリームリンク 代表取締役社長 村上 雅彦は、銀行を脱サラした父と共に、この「村さ来」を、生まれ故郷である秋田県に展開した仕掛け人である。「村さ来」を運営する一方で、独自ブランドの展開にも注力し、現在は、「半兵ヱ」他100を超える店舗を出店している。企業を1つの国と捉え、スタッフを大切な国民と位置づけ「国家(企業)の最大の役割は国民(スタッフ)を幸せにすることにある」という「企業国家論」なる独自の経営哲学で、国民であるスタッフが健康に裕福で幸せを感じる住みよい国(企業)作りを目標に躍進している。そんな村上であるが現在にいたるまでは、数多くの紆余曲折もあった。今回は、その一端を伺ってみた。

生徒に人気、だが教師から疎んじられた少年。

村上が生まれたのは、1962年。秋田県秋田市に生まれた。父は銀行員で、母も父と同じ銀行ではたらいていた。職場結婚。長女が生まれ、長男の村上が生まれる。姉弟2人。さぞ、幸せな家庭だっただろう。しかし、村上にとっては、どこか窮屈だったのかもしれない。ヤンチャな少年に育っていく。中学を卒業するとすぐにバイクにも乗った。好意的に表現すれば、好奇心旺盛な少年だった。一方で、医師を志すなど、奔放な性格と堅実な性格の両面を持っていた。ケンカも辞さない一本気な性格で、誰かがいじめられていると聞けば、飛んで行った。素行はほめられたものではなかったが、生徒たちからの人気は抜群で、教師からすればこの上なく扱いにくい生徒の一人だった。最初の高校は一年で退学し、再度、入学した高校も二年生の冬に退学させられている。村上は迫っていた生徒会長選挙で当選が確実だった。「制服廃止」「学食のメニューをもっと楽しくする」「アイスクリームを売店で販売する」「バイク通学全面解禁」「他校との懇親会を設置する」村上は様々な公約を掲げていた。「村上が生徒会長になったら大変なことになる」職員室の話が聞こえてきていた。そんな最中の突然の退学。屁理屈のような理由がたくさん並べられた。「退学は、教師たちの策謀」。少年にはそう映った。のちのちまでこの時の教師たちが下した決定は作為的という思いがぬぐえず、逆にいえば、「あいつらよりは偉くなってやる」と、それが村上の原動力にもつながっていく。

「成り上がり」を読んで、美容師の道に進む。

矢沢永吉氏著の「成り上がり」に触発されたのは、停学で謹慎させられていたときだ。医師をめざしていた少年が、医師以外にも、社会に評価される職業があり、生き様があることを知る。だから、高校を退学させられたとき、学歴がなくても、成り上がれる道として、料理人か美容師になろうと考えた。村上は男性不在の美容業界に可能性を見出し美容師の道を選択、秋田の専門学校に入学する。当時、美容師といえば99%女性の職種。男性はめずらしい存在だった。それでかえって注目もされたのだろう。初めて就職した東京の美容室では、経営者であった先生にかわいがられ、お客様にも絶大な人気があった。当時の美容室といえば、物販も収益源の一つだった。村上は、入社1ヵ月目に、この物販の売上で、ベテラン美容師を抜いてチェーン全店でいきなりトップ となった。経営者からすれば、「こいつはいける」そう思ったに違いない。だが、村上は、ステップアップの青写真を描いていた。国内の有名店で修業を積み、ヨーロッパで仕上げて帰国する。たしかに将来に、明るい兆しがあった。「あのまま美容師の道をあゆみ続けていたほうが良かったかも」と村上は、笑いながら美容師時代を振り返った。 美容業界はその後、男性美容師の進出により「カリスマ美容師」という言葉が誕生するほど躍進、一転、花形産業となっていくことになる。村上の先見の明は見事に的中していたのだ。

「おまえがやるなら」、父からかかってきた一本の電話。

父親からの、一本の電話が人生をかえた。話はこうだ。当時、父親は、勤めていた銀行の新潟支店長に赴任していた。その赴任先で「おもしろい店を見つけた」というのだ。「実は、この店はチェーン店で、秋田県進出の話が進んでいる。おまえがやるならオレも銀行を辞め、一緒にやろうと思う」と、次期「役員」と言われていた父親がそう話す。父親は、数年前、息子が、つぶやいた言葉を覚えていたのだ。その気持ちが嬉しくて、村上はスグに決断した。「村さ来」のカリスマ的な経営者が、わざわざ新潟の父の元を訪れて誘ってくれた事実にも感動を覚えた。しかし、世話になった美容室だ。指名を多数もらっている村上はスグには辞められなかった。父親も同様で、こちらは1年半かかっている。親子ともども必要な人材だったこともあるが、2人の「義理堅さ」が伺える話である。美容師を辞めると村上は新潟に行き、父を最初に誘ってくれた経営者のもとで修業を開始した。客商売という点では同じだが、戸惑いもあっただろう。この当時の「村さ来」のフランチャイズシステムは、のれん貸しに過ぎずメニューにも決まりがなく、逆にいえば、メニューの開発から仕入ルートの確保まで、ゼロから開拓しなければならなかった。パッケージという点では、素人がいきなりできるように設計されていなかったようだ。1982年10月、株式会社「秋田料飲コンサルタンツ」を設立。そして翌1983年8月村上親子の思いを詰め込んだ「村さ来 秋田有楽町店」が誕生する。オープンをひかえ、村上の胸は波打つ。勝算を語れるほどの、経験はむろんない。「村さ来」というブランドを信じるほかなかった。

次から次に客が入る、超人気店。だが、その人気を支えきれない。

開店当日、次々、客が訪れた。店はスグに満杯になる。村上の笑顔が弾けた。だが、その笑顔はすぐに凍りついていく。「オペレーションもきっちりできていないから、次々、お客様を店内に誘導してしまったのです。厨房は戦争です。ホールも制御がききません。何をどうすればいいか、わからなかったんです」。それは、そうだろう。適切なオペレーションを行うには、豊富な経験がいる。しかも、それだけいきなり繁盛するなど、想定外だったのである。数日間、店はにぎわったが、次第に客足は鈍った。村上は、ただ茫然とながめることしかできなかった。オープンというイベント効果はまたたくまに剥がれ落ちた。だが、長い目でみれば、このいきなりの試練が村上の潜在的なチカラを掘り起こすことになる。いったん離れた客をどう取り戻すか。村上は、戦略を練った。「まず酎ハイの種類を広げました。オリジナルです。そのおかげで、ふたたびお客様が、足を向けてくれたんです」。だが、すぐに他店が真似た。種類の競争になった。またたくまに、酎ハイはカクテルのようなバリエーションを持つようになる。これでは、追いかけっこになるだけ。他店ではマネのできないドリンクをつくろう。そこから生まれたのが、いまや定番の一つとなっている「巨峰酎ハイ」であり「はちみつレモン」だ。「巨峰酎ハイ」の製造を依頼した飲料水メーカーは、この商品のおかげで飛躍的に売り上げを伸ばしたという。秋田の小さな居酒屋から、ロングランのヒット商品が生まれた瞬間でもあった。

ドリームリンク誕生。

ほかにも、村上はさまざまなアイデアを考案する。酎ハイでいえば、今では当たり前となっている「生しぼり」も村上の発案である。宅配ピザでは常識となっている「ハーフ&ハーフ」「クリスピーナ」などもその一つ。これはピザ屋を営む、友人のお店を救うためのアイデアだったが、残念ながら採用はされなかった。不採用の理由を尋ねると「常識」という答えが返ってきた。常識が、突き抜けた発想を抑え込んでしまうのだ。ともかく発想と工夫で村上の「村さ来」は、窮地を脱出した。だが、徐々にブランドの限界がみえてくる。危機感が募る。村上は大きく舵を切った。オリジナルブランドの立ち上げである。この立ち上げのいきさつに村上の性格がよく現れている。「村さ来本社には、当然、お話し、客単価がかぶるとお客様を奪うことになるので、同じ客単価を避ける。それを縛りにして、ブランドを考案しました」。普通、できることではない。この段階で、危機感はあったものの、売れ行きが極端に落ちていたわけではない。しかも、「村さ来」の客単価2500円は、一番のボリュームゾーンだ。そのゾーンを捨てた。「私がこの事業を始めることができたのは、『村さ来』のおかげ。その客層を奪うことはできなかったから」。村上は、新ブランドの展開のために、別会社も設立した。それが、株式会社ドリームリンクだった。

与えることの大事さを知る経営者。

アイデアが豊富な村上であるが、義理堅さもある。義理堅い生きかたを自らに課す意思の強い人である。あるとき、秋田県に保証してもらい融資をしてもらったことがある。秋田発の株式上場企業をつくろうという試みだった。そのときの恩を忘れていない。だから、いまでも食材や陶器は秋田のものを主に使用する。多少でも恩返しをするためだ。今後は秋田県人の教育にもかかわろうとしている。株式上場も、実はもう目の前。約束は守る。義理を忘れ、目先の利益に心まで奪われる人が多いなかで、村上の正々堂々の生き様はどうだろう。人の恩を食らってまで生きる人たちには、こうした生きか方さえ愚かに映るのだろうか。だが、時間がいずれ村上の生きかたの正しさを証明するにちがいない。父から言われたことがある。「迷った時は損得ではなく善悪で判断し進む道を選べ」。この教訓は、いまも会社の五カ条の一つだ。FC展開でも、村上の考えは特異だ。すでにいくつものFC店も出店しているが、さらに新たな方法を模索する。批判になるといけないので、ここで詳細は書かないが、村上がつくりたいのはあくまでフィフティ・フィフティの関係だ。従来のシステムとはあきらかに一線を画す。強い者が、弱い者を守る。奪うのではなく、与えるという発想だ。そういえば、カーネル・サンダースと共にKFCコーポレーション、つまり「ケンタッキー」の基盤を作り、FCシステムを世界に広げたピート・ハーマン氏は、こういっている。「人を育てたら、育てた人が面倒を見てくれる」、と(本サイト「クロスα」株式会社ジェーシー・コムサ 代表取締役CEO 大河原毅氏:参照)。これは、まず「人に与えること」に通じる。日本にもいよいよ、そんな、ハーマン氏に負けないような器の大きな経営者が現れた。

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