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第179回 株式会社ビッグイーツ 代表取締役社長 後藤 順氏
update 10/10/26
株式会社ビッグイーツ
後藤 順氏
株式会社ビッグイーツ 代表取締役社長 後藤 順氏
生年月日 1965年4月19日。東京、浅草生まれ。
プロフィール 24歳の時に友人と会社を起業。その後もセッションするかのように知人や友人と起業を行い、同時に多彩な才能を開花させていく。大手アパレルメーカーやスポーツメーカーとのコラボを次々実現したほか、NY、LAに展開しているエンターテイメントレストランの東京に誘致、ライセンス契約業務を行う。そこで、NYでのネットワークを作る。アメリカ映画の投資などを行い、そのうちの1本がアカデミー賞受賞映画を投資した実績もある。37歳で、改めて起業し、東京丸の内ビルの1Fに「丸の内カフェ」をオープン。ニューヨークの「ドーナッツプラント」の販売権を苦心の末、獲得し、多店舗化を図る(2010年5月現在、首都圏中心に19店舗:内4店舗はFC店)。同時に、港区麻布十番の「イートモアグリーンズ」もリリースしている。
主な業態 「丸の内カフェ」「ドーナッツプラント」「イートモアグリーンズ」
企業HP http://www.bigeats.co.jp/

野球漬けの日々と一つの挫折。そして手に入れた大きな自信。

「うまい奴がいっぱいいた」。中学時代、ピッチャーやキャッチャーを務め、打席では、四番に座りつづけた後藤が、高校入学時に抱いた最初の感想がこれだった。公立高校だったが、甲子園出場回数も多い名門高校に入学。後藤がいた3年間だけでも甲子園に2回も出場しているのだから、かなりの強豪校だったのは間違いない。その年も、野球部に入部した生徒数は100名にのぼった。だが厳しい練習についていけず「2ヵ月で半数になった」そうだ。さすがの後藤も音をあげそうになった。初めての挫折。野球部には、卒業時には、プロのドラフトにかかる選手が数名いて、その中でも、プロでも、レギュラーで活躍する選手を目のあたりにし、グラブさばき一つとってもまるで違った。上には上がいることを痛感した。ところで、当時はまだ根性論全盛期。同年代の高校球児たちは「水もろくに飲めなかった」と口をそろえる。後藤も同じで「トイレに行くふりをして、トイレの水を飲み、グランドに水を撒くふりをして、落ちてくる水滴を口に入れた」と証言している。逃げ出したくなったこともあったが、厳しい練習に最後まで耐えたことで自信が芽生えた。

1浪の末、進んだのは、「飲食業」という学校だった。

一方、後藤はどのような家庭で育ってきたのだろうか。「父親は出版関係の会社に勤めていました。父を亡くしたのは高校3年生のときでした」と後藤。母親は、息子の後藤を信じ、「たいていのことは許し、希望も叶えてくれた」という。高校になると遠征も多くなる。経済的な負担も少なくない。何一つ文句を言わず、母親は、その費用を捻出してくれたそうだ。大学進学はもちろん考えた。1浪までしたが、アルバイトで入った「オープンカフェ」がたのしく、勉強よりもバイトに気持ちが傾き予備校にも行かなくなってしまった。結局、このカフェに就職。これが飲食業の始まりだった。この会社は、大型レストランやディスコも経営しており、当時の社長を尊敬していた後藤は「新店舗の立ち上げをはじめ、さまざまなことを経験させてもらった」という。19歳から数えて5年、24歳になるまで勤務。後藤の社会人としてのベースをつくったのは間違いなくこの会社だろう。その5年間で、多彩な人脈もできた。後藤はこういっている。「人脈はもちろんですが、人とのコミュニケーションの大事さ、店舗づくりのノウハウ、フード(商品)の大事さを、この5年間で学び、それがいまの財産になっています」。

若き日の独立。友人と会社を立ち上げたが…。

「父の影響もあるのだと思いますが、昔から本や映画が好きで、映画関係の仕事に就きたいと思っていました」。飲食業界は、映画業界とは違うけど、家族、恋人、友人など、仲間と食事をする時間、美味しい食を提供することにより、日常的な楽しさ、喜びを演出できる業界と考えたのだ。「かっこいい人たちがたくさんいた」と当時の店の様子をそう語っている。この会社を24歳で卒業した後藤は、友人と2人でバーを開業し、その後も、仲間たちといくつかの事業を立ち上げている。24歳から、改めて起業する37歳までの十数年間の話を聞いていると、後藤の多方面に広がる実力に驚かされるばかりだった。

敏腕な事業のプロデューサー。

プロデューサーやコーディネーターなどの言葉が持てはやされるのはいつ頃からだろうか。24歳からさまざまな事業にかかわった後藤は、いち早く「店舗プロデューサー」業を開始する。大手アパレルやスポーツメーカーとのコラボも次々実現した。百貨店の催し会場を1年間任されたこともある。コンサート会場の飲食関係を一手に引き受けたこともあった。19歳から始めた飲食業で培った人脈から、さまざまなつながりが生まれた。それが敏腕プロデューサーを駆り立てる。25歳の時にプロデュースした飲食店の規模は150坪。2年間、オペレーションも行なった。30代になると当時一世を風靡した「ジュリアナ東京」の立ち上げに参加した。六本木に300坪の店を開くためにニューヨーク、ロスのエージェントとも接触している。これがきっかけで、映画に投資した。この映画が、アカデミー賞を受賞する。憧れの映画産業にもかかわることになった。成功もあったが、失敗も正直にいえばあった。その失敗から後藤は経営とは何であるかを学んでいくのである。「たとえば、ある大手メーカーとのコラボで店を立ち上げたとします。ブランドターゲットにあわせた店舗を出店するのですが、すべて自由にやらせてもらえるわけでもない。そうなると不完全燃焼というか、悔いが残ったりしました。そういう不燃物が溜まり、ついに『ジブンのブランド』を立ち上げよう、という思いにいたるんです」。これが、37歳の時の起業につながる。

ニューヨークで出会ったドーナッツに一目ぼれ。

「店をするのであれば、デイリーユースのものと考えていました。その時、たまたまニューヨークで一つのドーナッツに出会いました。私が、33歳のときです。日本に戻ってから調べてみると、日本のドーナッツ専門店はミスタードーナツしかない。それでも売上は1500億円程度ありましたから、その何十分の1でもできれば、おいしいビジネスになるのではないか、とその気になっていくんです。そのお店にメールを送り、返事を貰うと、すぐにニューヨークに飛んでいきました。その時、初めて赤むらさきの「ブルーベリードーナッツ」を食べたんです。どうしてこんな色なんだ?と尋ねると、これが自然の色で、自然素材以外は使用しない、アレルギーのある人もいるため卵も使用しないというポリシーを聞き、ますますかかわりたくなったんです。結局、3年間、年に5〜6回のペースでアメリカを訪れ、日本を含むアジア諸国の独占ランセンス権利を獲得します。これが『ドーナッツプラント』です」。現在、この「ドーナッツプラント」はビッグイーツの主力業態である。一方、37歳の起業と共に出店したのが、丸の内ビルの1Fに入った「丸の内カフェease」だ。この「カフェ」は9年経ついまも人気店で、丸の内ビルの顔になっている。「ビッグイーツ」の1号店、しかも、丸ビル1階店舗で、約100坪で、120席という大型カフェということもあり、オープンから、半年間、休まずに、自分で店舗に入った。

本社は、「サポートハウス」という名称で呼ばれている。

37歳で起業した後藤は2010年で45歳になる。店舗はFC含め19店舗になった。出店を急いだことはない。あくまで「クオリティ」にこだわってきた。現場ではたらくスタッフを重視する。「それがお客様を大事にすることにもつながる」からだ。「いい笑顔、いい商品といったサービスが生み出せるような環境設定を行い、サポートするのが本部の役目」ともいう。だから本部は「サポートハウス」と名づけられている。経営の根幹を尋ねると、「人がすべて」、という答えが返ってきた。店舗プロデューサー出身で、いつくもの大手メーカーとのコラボも手がけ、新たな人気店や映画まで関わった事業家が、迷わず、こう答えた。そのとき、株式会社「ビッグイーツ」の強さの秘密が垣間見えたような気がした。「人」との出会いを大事にし、「人」に事業を任せ、その人たちがハッピーになれるように支援する。それが結果としてお客様の笑顔を生み出していく。いま後藤がプロデュースしているのは、こんな目にはみえない「ハッピーの輪」に違いない。このハッピーサークルは、ドーナッツの輪に似ているのではないか、ふと、そんな気がした。灼熱の太陽の下で顔をしかめ、歯を食いしばった後藤の過去も、この輪を通してみれば、笑顔に見えてくる。

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