株式会社Syonan Tonbi Project 代表取締役社長 小野寺 崇氏 | |
生年月日 | 1974年7月10日、北海道旭川市に生まれる。 |
プロフィール | 2歳の時に横浜に移り住むが、中学は県外、八王子にある進学校に入学。父はNTT、母は銀行員というどちらかといえば堅い仕事人の父母のもとで育ったが、徐々に破天荒な道を進むようになる。関内のYMCAホテル専門学校卒後、「ブリーズベイホテル」に入社。その後、「平成フードサービス(現コロワイド と合併)」「かもんフードサービス」を経て独立を果たす。現在、株式会社Syonan Tonbi Projectを設立し、天然食材を大事にする2つの店舗を経営している。 |
主な業態 | 「漁師の家 湘南とんび」「漁師魂 さかな番長」 |
企業HP | http://syonan-tonbi.com/ |
たいていの習い 事は経験している。剣道・水泳・英会話・習字等々。教育熱心な母親に言われるまま、塾やスイミングに素直に通った。将来は大学に行く為に、中学は私立の穎明館(えいめいかん:当時中学新設校)に進学している。どんな小学生だったのですか?と尋ねてみた。「運動好きの、やんちゃな子」という答え。当時の夢は、自転車で日本1周だ。「父が釣り好きで、よく2人で旅行しながら釣りをしていました。その影響があったのでしょうね。おかげで、いまも旅行好きのままなんです」。仕事の合間にスタッフを連れ、山菜やキノコを採りに山形の山に登り、漁船で漁も手伝う。こんな芸当をあっさりやってのけるのも父親から譲り受けたDNAのなせるわざかもしれない。それはさておき、中学に進学した小野寺は、はやくも自立心みせ始める。与えられたことに素直に従う時代は、もう終わったと主張するかのように。
野球がしたかった。だが、新設されたばかりの中学に野球部はなかった。こんな場合、みなさんならどうするだろう。13歳の小野寺は、先生に直訴した。野球部をつくってくれ、と。むろん、簡単にOKがでるはずがない。却下された小野寺は、それでもボールを打ちたいと、もう一度、直訴におよぶ。今度は、ゴルフ部だ。「ゴルフ好きの教頭先生で、こちらはOKがでた」と小野寺は笑う。しかし、ゴルフ部を創設した小野寺だったが、野球への思いが断ち切れなかった。もう一度、「やはり野球部を」と頼み込んだ。先生のほうが折れ、結局、高校の野球部に参加させてもらうことになった。試合にはもちろん参加できない。でも、それでよかった。念願の白球を小野寺は無心に追いかけ始めた。これだ、と思えば納得できるまであきらめずに走りつづける小野寺の性格は、この頃から顔をのぞかせていたように思える。
無事、高校に進学した小野寺は正式に野球部員になる。1年から試合に出場し、3年間4番バッターとして試合に出た。進学校ということもあったのだろう。日曜日は練習が少なく、時間があまった。1年生から小野寺は飲食店で、禁止されているはずのアルバイトを始めた。「女の子にモテるんじゃないかって。そんな理由からです(笑)」。まさか、このときのアルバイトが一生を決めるとは、本人が一番、想像できなかったはずだ。ただ、始めてみると、おもしろくてしかたなかった。接客・サービスに魅せられた小野寺は、関内のYMCAホテル専門学校に進学する。大学進学率100%の学校設立以来の、快挙だった。少年が青年になり、与えられた安穏な道ではなく、自らの意思で道を求め歩き始めたという意味で。学校に通いながら、ヒルトンホテルなどで実習を行う。これもまた、たのしくてしかたなかった。よほど接客という仕事に向いていたのだろう。卒業後、小野寺は「ブリーズベイホテル」に就職。ベルボーイ、フロント係を勤めた。だが、ここで将来に疑問を持つ。このままでいいのだろうか、と。結局2年で退職。求人誌に載っていた「平成フードサービス」に応募することになった。
募集資格は、22歳以上で店長経験者となっていた。むろん店長経験はなかった。それでも、応募した。するとホテルの経験が考慮されたのだろう。結局、採用された。入社後も、ある意味で掟破りだった。既成のルールに疑問を持ち、あえて反旗を翻す、これが小野寺の信条。それが発揮されていく。当時、平成フードサービスには3年働いてからでないと、副店長のテストを受ける資格が与えられなかった。小野寺はそのとき入社1年。だが、中途入社ということを理由にテストを受けさせてくれと迫り、見事23歳で副店長、24歳で当時最年少の店長に就くことができたのである。大事な教えをいくつも受けた。「武内智さんという有機栽培の第一人者に出会ったのもこのときです。農業はもちろん、酒蔵で泊まり込んで杜氏さんと酒を造ったり、豊富な知識を吸収することができました」。アメリカ研修にも行っている。小野寺のフードサービスの原点をつくったのはまぎれもなく、この平成フードサービス時代だ。26歳で50万円の給料を手にし、やがて席数700席、月商1億円を売上げるナンバー1店舗の店長を任されるまでになった。飲食業に進むことに反対していた両親が、息子の選択を認めるようになったのもこの頃だ。しかし、小野寺は、ここも退職することになる。たぶん、自分の実力を試してみたかったのだろう。だが、このときの選択が大きな試練につながっていく。
小野寺は人材バンクへ登録した。野球でいえばFA宣言のようなものだろう。どれぐらいの会社が、いくらで評価してくれるのか。幸いなことに大手の飲食店からも声がかかったが、そんなときに「かもんフードサービス」の金子社長に出会うのである。「独立を考えている旨を伝えたら、『会社を実験台にして独立すればいい』と言われたのです。そんな風に言ってくれる社長はいなかったから、よしここだ、と」。しかし給料は38万円に下がった。興味を持ってくれた他社は、最低でも50万円だったから、20%以上のダウンを飲んだことになる。しかし、それでもこの会社では給料が高いほうだった。通常2ヵ月研修をして3ヵ月目で社員になるのだが、小野寺は4日目でナンバー1店舗の店長に抜擢された。やっかみもあったのだろう。批判の渦が巻きあがった。「入社したばかりでいい給料をもらいやがって」。ボルテージは上がり、村八分にされたこともあった。誤解だとわかっていても、納得できるはずはない。だが、一人で耐えるしかなかった。数字で批判をひっくり返すしかない。小野寺は40日間以上、泊まり込んでナンバー1店舗の数字と戦った。
3月頭に入って4月の後半から5週連続で日販売上100万を達成したと小野寺。営業時間が6時間で150席。単価は3000円台。それまで最高売上が80万円だった店が常時100万円を記録し、最高192万円の売り上げを達成するまでになる。どういう魔法を使ったのだろうか。「簡単なことです。QSCの向上は勿論ですが、予約の取り方、席の取り方を変え、時間帯によった単価と客数の掛け算のバランスを計算しながら営業しました。それだけでずいぶん違ってくるのです」。誰しも驚く数字を残すことで外野の声はピタリとやんだ。2ヵ月後には、池袋にあった採算割れの店舗を蘇生させに向かった。1日数名だったランチの店が200名の人気店にかわる。このようにして、小野寺は揺るぎない実績を残していくのである。32歳のときには『茅ヶ崎 海ぶね』営業部長に就任。物件探しからメニュー開発、ユニフォームや名刺づくりと全ての業務にタッチし、独立に向けての手順も学んでいった。そして、2008年4月にかもんフードサービスを退職。いよいよ独立の道をまっすぐに歩み始めることになる。金子社長に感謝は尽きない。
365 日、同じメニューがない。というのも、漁港から、その日、網にかかった魚を直買。それをお客様が食べたいように料理する。今日のメニューは、その日に獲れた食材次第。それが 「Syonan Tonbi Project」のポリシーだ。魚だけではない。野菜もそうだ。冒頭に書いたように、スタッフを連れて山菜採りに出かける。急な斜面をスタッフたちがなれ ない足で登っていく。そうまでしないと、本物の食材には出会えないからだ。そうやってこの店のスタッフは訓練されている。全国を駆けずり周り生産者さんとの仲間作りに励んでいる。それを知ると、Syonan Tonbi Projectで提供される魚料理にも、添えられた野菜一つにも、ほかとは異なる深みのようなものを感じてしまう。それはまさしく、小野寺の歩んできた人 生の深みそのものといえるかもしれない。
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