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第183回 株式会社三和ホールディングス 代表取締役社長 茂山幸一郎氏
update 10/11/16
株式会社三和ホールディングス
茂山幸一郎氏
株式会社三和ホールディングス 代表取締役社長 茂山幸一郎氏
生年月日 1956年6月生まれ。京都府出身。
プロフィール 3人兄弟の長男。父は早くから京都で喫茶店を営み、後に東京に進出。12歳の時、家族で東京に移り住む。経済の復興と共に父の会社は店舗を増やし、時代の先端を走るように業態を変化させていく。一方、商売人のDNAを受け継ぎながら成長した茂山は、明治大学に入学。家業を継ぐと決め大手広告代理店に就職。5年で退職し、父が経営する三和興産に入社。「花のれん」など人気店をプロデュースし、2000年、父から社長の席を受け継いだ。
主な業態 「月の蔵」「D4TOKYO すみれ家」「夜ばなし」「蛍の庭」など
企業HP http://www.sanwahd.co.jp/

昭和30年代半ば、京都に喫茶店、開業。

茂山が3歳の頃というから1959年もしくは1960年ぐらいだろうか。元々、学校の先生だったという茂山の父親が、化粧品のディスカウントストアの経営を経て、京都に喫茶店を開業した時のことだ。当時、喫茶店といえば、おしゃれな空間で先進的な装いだったのだろう。立地にも恵まれ、繁盛する。父は当然、忙しく、そのためだろうか、小さな頃の記憶に父の姿はあまりない。それでも、休みになると旅行に連れてもらったというのだから、子煩悩な父親でもあったはずだ。この父が経営する喫茶店に行っては、チョコレートパフェを食べるのが茂山のたのしみだった。一方、学業のほうはどうだったのだろう。「勉強は体育と美術が5。後は普通」と茂山。京都の古都の文化に抱かれつつ、幼少時代を過ごしていく。だが、実際に茂山自身が、古都の良さを理解するのは、たいていの人がそうであるように大人になってからだ。

ピッチャー、三番。東京の空の下、少年、茂山は体躯のいい青年に育っていく。

茂山12歳の時、突然、母が東京に移り住むと言い出した。実はこの頃、父親は東京進出を成功させており、東京と京都を行き来する生活をしていた。それがきっかけで、家族全員で東京に住むことになったのだという。最初は京都弁をからかわれたりしたこともあったそうだが、すぐに溶け込み、学級委員長に選ばれたりもしたそうだ。東京の中学に行くと、体育と美術以外の点数も急に伸びた。もともとスポーツは万能。クラスの仲間たちからも、すぐに認められたのだろう。中学ではソフトボール部に所属し、都立高校に進学して野球を始めている。主にピッチャーで、四番。白球を追いかけながら、茂山少年は、体躯のいい青年に育っていった。大学は明治。2度失敗し、明治に進んでいる。この頃の大学生は、どのような生活をしていたのだろう。茂山は。スキー同好会に入り、いまでいうパック旅行を企画。1シーズンに、900人の客を山に連れて行ったそうだ。「赤字ギリギリの1万5000円です。スキーが流行っていたこともあって、次から次に参加者があつまりました。主に女の子のお客様が多かったと思います(笑)」。採算割れの時もあったが、もともと儲けるという意識はなかったそうだ。

将来を意識し始めた大学2年。卒業後は、広告代理店でマーケティングを学んだ。

就職を意識し、父の事業を引き継ぐことを考え始めたのは大学2年生の頃。飲食がおもしろいと思ったが、料理人になるつもりはなかった。では、どうするか。思考を伸ばしていくと、父の事業を引き継ぐ道につながっていったに違いない。当時、父親の店は喫茶店からパブに、そして居酒屋に業態変化を遂げていた。20店舗ほどの店を経営していたという。ところで喫茶店から始まったといえば小型の店舗を想像しがちだが、父の店は100坪以上の大型店だった。居酒屋ブームにも乗り、業績は右肩上がりを続けていく。その規模であれば、大学卒業とともに就職してもおかしくなかったはずだ。だが、政治経済を専攻していた茂山は、「今後は、飲食業にもマーケティングが必須になる」と、大手広告代理店に5年限定で就職する。配属されたのはマーケティング部。大手化粧品会社の仕事などを経験し、キャリアを積んでいく。「その化粧品会社から依頼されたのはおよそ2000万円の仕事だったんです。その額に見合った仕事をしなければいけないと、真夜中の3時、4時まで仕事をしていました」。このほかにも、大手ファミリーレストランなどの企画調査なども担当、この会社で過ごした5年間で、マーケティング理論はもちろんのこと「思考能力」を手にすることになる。「この時期が、いまも大きな財産になっている」と茂山は、当時を振り返る。結局、当初の予定通り、5年で会社を卒業し、いよいよ父の会社に就職することになった。

「花のれん」、2代目候補の実力が低迷し始めた業績を立て直す。
バブル崩壊も無縁の繁盛店をつくった。

「最初は幹部と衝突もしました」、と茂山。すでに30歳手前。経営者の息子だと不遜な態度を取るつもりはなかったが、かといって新参者だからと萎縮するつもりもなかった。だから、時に意見も衝突した時もありました。「1年間、好きにさせてくれ」、と父親に直訴した。もともと新業態の開発を思考していた茂山は、出店候補地を探すために通行量を調査したり、ターゲットを模索したり、名刺も自分で作りゼロから企画部を立ち上げた。むろん、調査はお手のモノである。その企画部が実力を現すのは、平成3年、1991年のことである。それまで右肩上がりに来ていた事業の雲行きがやや怪しくなる。当時、父の会社には、2業態があり、客単価でいえば2500〜2600円の低価格な店と、4000円のどちらかといえば高級店があった。そのうちの一つ低価格の業態の客入りが目に見えて悪くなってきたのである。原因の一つはバブルの崩壊である。だが、一方では、業態に魅力がなくなり始めていたのかもしれない。いよいよ出番と悟った茂山は、ふたたび「やらせてくれ」と父親に直訴し、5年で10店舗の出店を想定し、「花のれん」という新たな業態を開発する。この「花のれん」のメイン客層は女性。コストパフォーマンスを売りにした、客単価でいえば3200円程度の店。茂山自身が企画を練り、立ち上げた1号店でもある。オープンは1993年。銀座と立地は悪くなかったが、それでも客席数にすれば200席。それだけの席があるにもかかわらず夕方6時までにはすべての席が埋まったという。しかも、その状態は1年間続いた。年間の利益は、9000万円にのぼった。もちろん、大ヒットである。

「仕事を任せる」というスタイルで若手社員を教育。新業態出店も楽しみだ。

2010年6月現在、茂山率いる三和ホールディングスは、都内を中心に11業態、15店舗を出店している。月に一番近い指定席…と謳う「月の蔵」をはじめ、41Fにあり、夜景を見下ろす「D4TOKYO すみれ家」、また「夜ばなし」「蛍の庭」など、風景も演出の一部に取り入れたおしゃれな店を展開している。「花のれん」もむろん健在である。茂山が、父から事業を譲り受け社長に就任したのは2000年のことである。それから、現在で10年の月日が経っている。50年ほどまえ、京都で父が始めた喫茶店が、時を超えて、東京のど真ん中にある先進の店になった。スタッフたちの顔ぶれもずいぶんかわったことだろう。今後の展開を尋ねると、つぎのような答えが返ってきた。今後は当社の社員に、のれんを分けられるような業態を開発していきたいと思っているんです。いままでうちは大型店ばかりですから、のれん分けには適さない。だから20〜30坪の小型店をつくって、それでのれん分けしていこうと」。社員たちに対する思いが、新たな店のきっかけになりそうだ。一方、若手社員には、仕事を任せるスタイルを貫いている。抜擢も多い。「慎重になりすぎてはダメだ。誰でも失敗はするんだから」と、こちらにも、ハッパをかけつつ、あたたかい視線を送る。そういえば、かつて自分が手を挙げたとき、初代経営者の父は、何でも好きにさせてくれた。その器量の大きな経営術を息子の茂山はしっかり引き継いでいる。ちなみに、新業態では、前述の小型店舗をはじめ現在2つの業態の企画を進めているという。茂山がプロデュースする新たな店。早くその全容を知りたいと思った。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
高校時代、弟(現副社長)と。 22歳頃、スキー場にて。 27歳、代理店時代。仲間と。
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
31歳、アメリカ一人旅。 ゴルフ仲間と。 妻と一緒に。

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