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第185回 有限会社肉のやしま 代表取締役社長 八島且典氏
update 10/11/24
有限会社肉のやしま
八島且典氏
有限会社肉のやしま 代表取締役社長 八島且典氏
生年月日 1961年6月28日、福岡県前原市に生まれる。
プロフィール 実家は、祖父の代から続く精肉店。姉と弟を含めた5人家族である。小学校の頃から生徒会長に立候補するなど、活発な一面を見せる少年だった。また当時から父の姿をみて、自然と商売に興味を持ち始めている。18歳で親戚が営む豆腐店に丁稚奉公に行き、商売のイロハを学ぶ。1年後、福岡に戻り大学に進むが、中退し家業を手伝うことに。それが現在の「焼とりの八兵衛」に発展する。2010年11月時点で福岡に「もつ鍋 八兵衛」を含め4店舗。東京、六本木にも「焼とりの八兵衛 麻布龍土町店」を構えている。
主な業態 「焼とりの八兵衛」「もつ鍋 八兵衛」
企業HP http://www.hachibei.com/

家族で揃って食事をするのは正月だけ。

1961年、八島は、福岡県の前原(まえばる)市に生まれる。実家は、祖父の代から続く精肉店だ。前原市は福岡県の西側に位置し、現在はベットタウンとしても人気化しているが、当時は当然のこと、自然豊かな土地だったに違いない。いまでも、前原市の南側にはブランド有機野菜などで有名な白糸地区があり、北側に目を転じれば国定天然記念物「芥屋の大門(けやのおおと)」を望むことができる。さて、周囲のほとんどの家が自営だったこともあり、商売人の生活サイクルをあたりまえのように受け止めながら、少年、八島は育っていく。「毎日、両親は仕事に忙しく、家族揃って食事ができるのは正月だけでしたが、それも当然と思っていました」と八島は笑いながら振り返る。

父の後を追いかけた少年時代。

八島の父は昭和4年生まれ。当時としてはめずらしい大学卒である。いったん新聞社に就職した父だったが、祖父の要請を受け入れ、家業に入った。当時はまだスーパーもなく、精肉店はその分良く利用され、八島家の店も数店舗まで広がっていったそうだ。少年、八島は、そんな店で働く父が好きで、配達の際には助手席に乗り、店に出ては仕事を手伝った。父の後を追いかけていくうちに自然と商売に興味を持つようになる。中学生になった八島は、陸上部に入り、駅伝で県大会に出場するなど走る才能を見せ始める。注目もされたのだろ。高校から特待生で誘われた。だが、八島は、それを断り、高校に進学すると中学時代の悪友とつるんで遊ぶようになった。みかねた母が、八島の手を取り、大阪で豆腐屋を手広く営んでいた親戚に預けたのは、彼が高校を卒業し、浪人中のことだった。

丁稚奉公で改めて商売に魅せられる。

子どもの頃から商売に興味を抱いていた八島が改めて「商売人はカッコいい」と思うようになったのは、母に連れられて行った豆腐店の社長を見てのことだった。周りも違った。田舎町と比較するとすべてがケタ違いに思えてくる。ちなみに、この豆腐店の社長は、いまでも八島の師匠であり、商売のイロハを教えてくれた恩人でもある。「人に認めてもらおうと思うな」「お金の使い方を学べ」、と、当時、言われたことをいまでも覚えている。特に後者は、身を持って覚えたことでもある。どういうことか。最初に入店した時の時給は450円。それが1ヵ月で500円になった。社長からは良くがんばったから昇給してやると言われた。すると昇給したことはもちろんだが、認められたことがうれしく、さらに努力をするようになったのである。これがお金の使い方の一例というのである。ところで今でもカウンターのなかで仕事をする八島は、当時から人一倍仕事に打ち込むタイプだった。豆腐屋は朝が早かったが苦にもならなかったと言っている。

福岡に戻り、大学進学。

年間の丁稚奉公を済ました八島は、実家に戻り、母の薦めもあって大学に進学する。一方、当時の八島家は、近隣にできたスーパーの影響で事業の縮小を余儀なくされていた。「私が学生の頃、父が精肉一本ではなく、焼肉店か、焼とり店をしようと言い出したのです。それで、私もなんとか父の手伝いをしようと大学を中退し、母と2人で焼とり店を始めました」。これがいまの「焼とりの八兵衛」の原点である。神が降りた、と八島が表現するように、誰に習ったわけでもないのに、八島の「焼き」は神がかり的だった。当然、客はその味に魅せられた。ところが、この時、母が病気になったことで、その介護に追われ、商売どころではなくなっていく。仕事をしたい、だが、できない。そんなストレスが八島を襲う。父が他界したのもこの頃である。「父が亡くなり、母が病に侵されたままでしたから、正直、きつかったです。いま思えば、30代でよかったのかもしれませんが、仕事もしたい、商売もしたい、それがなかなか手につかないことでストレスを感じていました」。やむなく母を入院させ、本格的に商売に復帰したのは、5〜6年介護を続けた後だった。

人の5倍、はたらく。

商売に全精力を傾けた。22坪の店を3000万円かけて出店。現在の2号店である「焼とりの八兵衛 天神店」の始まりである。「この命いらん」とばかり懸命にはたらいた。根っから仕事が好きなのだろう。人の5倍ははたらいたが、やはり苦にもならなかった。だが、なかなか思うように売り上げが上がらなかったのも事実。初期投資が大きかった分、損益分岐点が跳ね上がってもいた。「22坪の店で600万円ほど売っていたので、決して悪くはなかったのですが、1000万円は売らなければという頭があって。それでいろんなことに取り組みはじめたのです」。マスコミを使ったり、広告宣伝にちからを入れたり…。結局、それが功を奏することになる。9ヵ月目を境にみるみる客が入りだしたのである。「多い時には最高1300万円まで行きました。いまでも1000万円は超える人気店です」。懸命な努力が実を結んだことになる。

好きこそものの上手なれ。目指すは老舗。100年続く店作り。

苦労の末、本店を成功させた八島は次々に店をオープンしていく。成功もあれば、失敗もあった。東京にも進出。火曜から土曜は東京と、東京の店が軌道に乗るまでは、なかなか福岡に戻れないという。なにしろカウタンーに立つ社長である。店をあけることはなかなかできない。八島の焼きを求めてくる客が多いのだからなおさらだ。知り合った同業の社長たちもよく来る。舌の肥えた社長たちが来るのだから、八島の焼きの技術はそういう意味でもお墨付きだ。ところで八島は来年50歳になる。ベテラン経営者から、いまの若者へのメッセージをお願いした。すると「飲食店ではたらくとかそういうことではなく、何をするにしても好きなことをやるべきだ」という言葉が返ってきた。父の姿を通し、商売に興味を持ち、その父のもとで始めた「焼とり店」を大事に育ててきた八島にとって、好きという言葉は、父に対する言葉でもあり、仕事に対する言葉でもあるような気がした。そんな八島が目指すのは「老舗」。100年続く店作りが始まっている。

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