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第187回 未来貢献株式会社 代表取締役 山本友大氏
update 10/11/30
未来貢献株式会社
山本友大氏
未来貢献株式会社 代表取締役 山本友大氏
生年月日 1977年8月16日 福岡生まれ。
プロフィール 父は厨房機器のマルゼンで取締役を務めるエリート。母は、専業主婦。4人兄弟の三男。格闘技好きの父の薦めで、小学1年生から拳法を習い始め、中学時代は柔道で実力を発揮する。一方、悪友とツルんで、警察沙汰になり新聞に載るような事件を起こしたのもこの頃。高校卒業後、中州の「博多ケントス」でアルバイトを始め飲食業に。1年後、何のつてもない東京に一人旅経つ。ここから山本の人生の一人旅が始まっていく。「てっぺん」の大嶋氏の教育も受け、2009年8月15日、1号店となる<元気専門店「叶え家」>を蒲田に開業。2010年8月16日に、2号店<すっぽん汁と鮪の店「五丁目」>を新橋に出店。海外1号店としてタイ・バンコクにも<焼き鳥と鉄板焼きの店「バンコク 叶え家」>を出店している。
主な業態 「叶え家」「五丁目」
企業HP http://miraikouken.jimdo.com/

兄たちに反発した小学生時代から、警察沙汰も起こした中学時代まで。

「兄たちと仲が悪かった」。長男とは6つ、次男とは4つ。年の離れた兄たちからすれば、最初は、からかっていただけかもしれない。だが、三男の山本は、すべてを真剣にとらえた。小さな隙間が大きな隔たりとなり、山本はどちらかといえば大人しい兄たちと正反対の生きかたをするようになる。「唯一、妹とは仲が良かったのですが、兄たちとはいまも連絡を取らないような関係です(笑)」と山本。一度、掘られた溝はいまでも埋まっていないようだ。それはともかく小学1年生から山本は、格闘技好きの父の薦めもあり、拳法を習い始め、中学時代には柔道で好成績を残している。一方、新聞配達のアルバイトを開始。家を出るための資金作りだ。「ともかく早く家を出たい」。そう思うようになったのは、兄たちと暮らす日々がわずらわしかったからにほかならない。そういう意味では、兄たちとの関係が山本の自立心を育てたことになる。
中学になると心に溜まった鬱憤を晴らすように、悪友たちともツルむようになる。柔道をやっていたからだろう。ケンカも強く3年生になると「番長」となって仲間たちを仕切るようになる。警察沙汰を起こしたり、新聞に載ったりしたのも、この頃だ。大人たちも手を焼く少年だったに違いない。だが、この、すさみ、荒れた生活から山本を救うのは、母のやさしさだった。「何をしても、母は私をかばってくれました。何をやってもこの子は悪くない、と」。もしこの時、母が見捨てていたとしたら、むろんいまの山本はない。母のために、山本は高校に進学し、ギリギリの出席日数だったが卒業もちゃんとしている。

東京で待っていたのは、理不尽に耐える日々。

高校を卒業した山本は、福岡、中州の「博多ケントス」でアルバイトを始めた。「半端なく忙しく厳しかった」と山本。1年でアルバイトが30人やめていくような環境だったそうだ。しかし、この厳しい環境が山本を育て、またアルバイト仲間たちとの結束を生み出していく。アルバイトの期間はわずか1年だったが、「今でも連絡を取りあっている」というほどのつながりができた。いかに凝縮された1年だったかが伺えるエピソードではないだろうか。1年後、山本は仲間たちから離れ、一人東京に旅立った。希望に胸を膨らませ、東京に旅立った山本を待っていたのは、理不尽な日々だった。東京に辿り着いた山本は新聞配達店で住み込みの仕事を始めた。寝るところも、食事にも困ることがないと考えたからだ。小学生時代にすでに経験もしていた。業務はまったく苦にならなかったが、理不尽な責めにあう。さすがに逃げ出したいとも思ったが、負けてなるかと結局1年間、続け、契約件数を1件たりとも落とさないという成績を残した。

居酒屋で出会った転機。覚えた調理技術。

新聞店を辞した山本は、次に「大庄」のFCを運営している埼玉県のある企業に転職する。この会社を選んだ理由はさまざまだが、ともかく寮も手配してもらい住居の心配もいらなくなった。「博多ケントス」で経験していたこともあって山本は、ホールを希望したが、社長から、オールラウンドプレーヤーを目指せと、厨房に配属された。「周りは料理人ばかり。全く何も知らない素人が投げ込まれ、つけられたあだ名が、ボケ老人です。何度も、同じことを聞くからです」。だが、キッチンに配属されたことで山本は調理という技術を修得する。これが今後の貴重な武器になる。実際、次の転職先、リンクワンで周りから高い評価を獲得したのも、この調理技術のおかげである。
「大庄を辞める頃には、もう魚もさばけるようになっていました。何より料理が好きになっていた。ただ、料理ができるだけではいけない。数字もわからなければと、数字の管理を覚えるために、リンクワンに応募したのです」。普通なら3次まである面接を1次でクリア。宅配すしの「銀のさら」に配属された。「広島でオープンする店がありました。そのオープンの際に、ハマチが届かないというアクシデントがあったのです。それで、魚屋でハマチを買ってきて、店で捌いたのです。これが周りの目にとまり、すぐに研修トレーナーになるのです」。現場から離れ、スーツを着る。最初は、戸惑うこともあったがそれにも慣れ、レシピのつくり方も覚えていくことになる。山本がつくった仕組みが、全国の店に流通する。手ごたえもあっただろう。だが、反面、山本には不安もあった。「店長経験のない私が店長の研修もするのです。どこかに矛盾を感じました」。素直な言葉である。その後、上司から問われ、山本は現場を希望。当時、立ち上げたばかりの「土間土間」に配属される。「仕事は最高だった」と山本。マネージメントも覚え、組めなかったシフトも組めるようになる。すべてが、初体験だが、すべてが充実していた。だが、仕事はむろん半端ではない。疲れはて、心にポッカリ穴が開いてしまった。

「てっぺん」、大嶋氏との出会い。

「何もかも忘れたい」。山本は、その時になって初めて、生まれ育った家に戻りたいと思ったのではないだろうか。「3日間だけでしたが、休暇をもらい実家に戻りました。何もせずボーっと過ごしました。そのあとすぐに復帰することができたのですが、今度は、仙台に異動。その後、不祥事のあった千葉の店に呼び戻されるのです」。その時には心に空いた穴もウソのように埋まっていた。不祥事のあった店の大事な立て直しに選んでもらえたこともまたうれしかった。そんな折、研修で見たのが、有名な「てっぺん」の朝礼だった。上司に紹介され、大嶋氏とも出会った山本は、すぐさま自らの店舗にも取り入れた。それが功を奏して、不祥事で落ち込んだ店の業績が少しずつ上向き始めるのである。しかし、この時はまさか大嶋氏のもとで、片腕として働くとは思っていなかったに違いない。

大嶋氏の怒り。

山本の過去を振り返ると、いくつのも分岐点が見えてくる。ただ、そのいずれもが、流されてとまではいわないものの、明確な意思で選択されたものとは思い難い。そこに一石を投じたのが大嶋氏ではなかったか。実は、山本は、その後、リンクワンを辞め、しゃぶしゃぶで有名なチェーン店に就職する。「待遇も破格だった」と山本。勤務時間も短い、休日もある、なんとボーナスまで支給される。どちらかといえばサラリーマン的な安定した仕事に憧れた末の結論だった。だが、就職が決まり、意気揚々と出勤した翌日、自宅に戻ると携帯電話が、せわしげに鳴った。相手は大嶋氏だった。「一度、会おうということになり、翌日がたまたま休みだったので飲みにいくことになるんです。それで真夜中まで飲んで。2日後にお礼の電話をするのですが、そこが一つの分岐点でした」と山本。感謝の気持ちを伝えるために電話をしたところ、「大嶋氏が、受話器から飛び出してくるくらいのいきおいで怒り出した」のである。「おまえには感謝の気持ちがあるのか」。その一言が山本の心に突き刺さった。
山本はいままでの仕事を振り返る。それは、単純なオペレーション作業の延長ではなかったか。そつなく仕事をこなしたが、その仕事をして、たのしいと思ったことがあっただろうか。たしかに「土間土間」に配属された時には、最高だった。とはいえ、心からたのしかったのなら、心に穴が開くこともなかったのではないだろうか。山本は初めて、自らの意思で飲食業のたのしさを求め、新たなステージに身を置くことを決意する。仕事を義務から権利に置き換えるチャンスを得たといってもいい。数日後、山本は、大嶋氏率いる「てっぺん」の門を潜った。

「てっぺん」入社、そして独立。

「てっぺん」、また大嶋氏といえばいまや飲食業界で知らない人はいないだろう。大嶋氏のもとには個性あふれた、言い換えれば我の強い人間たちが集った。山本も、その一人である。当時のメンバーには、そうそうたる顔ぶれがならぶ。この「てっぺん」時代が山本の思想を形成することになる。2009年5月18日、山本は独立。1号店を出店するかたわら、タイにも海外1号店を出店した。「てっぺん時代もそうですが、願えば物事は適うことを覚えてきました」。それが早くからの海外出店に結びついたのだろう。「2012年構想というのがあって、教育産業と外食産業を結び付けられるような仕事をしたいと思っています。特に日本で働く外国人の教育をしたいと考えています」と山本。2010年8月には国内2号店もオープン。実はオーストラリアへの進出も考えている。食を通して世界を結ぶ壮大な計画を練る山本。その背景には、食によって磨かれ、食によって、仕事のたのしさを知った人間の新たな「たのしさづくり」への挑戦心が見えてきた。それは「飲食を教育機関としても成立させる」という、より大きな仕掛けづくりに、つながっていくのかもしれない。

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