井筒まい泉株式会社 代表取締役社長 岡本 猛氏 | |
生年月日 | 1957年1月8日生まれ。大阪出身。 |
プロフィール | 父はプロ野球選手であり、プロ野球解説者としても有名な元、近鉄バッファローズ監督である岡本伊三美。母方の祖父は富士火災の社長を務めた財界人である。血筋に恵まれた岡本は、小学校から高校までを教育大学付属小・中・高で過ごす。高校卒業後は、慶応大学に進学。大学時代は、ディスコにも通いナイトビジネスにも惹かれる。卒業後、サントリーに入社。後に、ジガバー、PRONTOなど、新たな業態開発を次々に行う業態開発チームへ配属され、辣腕を発揮する。スーパーポテトに出向し、有名なデザイナー杉本貴志氏のもとで、さまざまなプロジェクトを実現する。出向が解かれ、ふたたびサントリーに戻り、立ち上がったばかりの外食事業部を育てていく。その後、今度は老舗レストランである「まい泉」に出向。現在は社長として、老舗企業を次世代に残していくという課題に取り組んでいる。 |
主な業態 | 「まい泉」 |
企業HP | http://mai-sen.com/ |
岡本伊三美というプロ野球選手を覚えているだろうか。現役引退後は、関西テレビ野球解説者を経て、サンケイ、南海、阪神、近鉄のコーチを歴任。1984年から1987年の3年間は、監督として近鉄バッファローズを率いている。今回、ご登場いただく株式会社「まい泉」代表取締役社長 岡本猛は、この元プロ野球選手の長男。母方の祖父は、富士火災の社長を務めた財界人でもある。「物心がついた頃には、父はもう、現役を引退していました。なので、私には解説者や、コーチ、監督としての岡本伊三美のほうがしっくりくるんです」。岡本が生まれたのは、大阪府茨木市だが、すぐに帝塚山に転居。小学校から、高校までは、教育大学付属の小・中・高で過ごしている。余談だが、岡本は、父とキャッチボールをした記憶がない。運動神経には恵まれていたが、根っからの野球オンチだという。岡本のその後をたどれば、アスリートの父よりもむしろ、大経営者であり、財界人でもある母型の祖父の血を色濃く受け継いだ気もする。もっとも岡本伊三美氏も近鉄専務取締役球団代表も務めるなど、財界人との交流は祖父に負けないものがあったに違いないが。
チームワークを重視する野球のプロフェッショナルでもある父、岡本伊三美が、中学生の息子に薦めたのは、対極にある個人競技の剣道だった。精神的な修行という意味もあったのだろう。岡本は父の薦めにしがたい剣道を始め、高校2年まで続けている。高校2年で剣道を辞めるのだが、どうやらその裏には、音楽に興味が移ってしまったという理由があるようだ。この頃からゴルフを始め、父と共に打ちっぱなしなどに良く出かけるようになったという。ちなみに当時とすれば、岡本のゴルフデビューは早いほうだが、実をいうと3歳から祖父と父に連れられ、大阪北新地のクラブなどに顔を出している。こちらは断然、早いデビューであろう。そんな岡本が大人になり、ナイトビジネスを支え、動かすようになるのだから、何かしらの「縁」を感じずにはいられない。
まさに、エリートと、いえば岡本に怒られてしまうだろうか。高校を卒業した岡本は、単身上京。慶応大学に進学する。「六畳一間で、風呂なし。初めての一人暮らしはけっしてラクじゃなかった」と岡本は、当時の様子を語る。しかも、大学1年生の時に、病気がもとで入院。進級に必要な試験が受けられず、1年間、留年するという憂き目もみた。ただし、大学生活もおしなべて良好。好きなゴルフの同好会に入り、酒も、マージャンも、それなりにやった。当時、ディスコが大ブームしていたこともあって、六本木の会員制ディスコなどに頻繁に出かけている。「ディスコに行くために、バイトに精を出した」と岡本は当時を振り返りながら笑った。当時の大学生なら誰でもやるような遊びだが、卒業後、サントリーに就職したことで、こうした遊びも役立つようになる。慶応大学から、サントリーへ、舞台は進む。
1980年、岡本が、サントリーに入社した当時は、ウィスキーが絶好調で、過去最高の売上を記録した頃でもあった。岡本は、吉祥寺、三鷹エリアに配属された。「吉祥寺、三鷹、その2つのエリアだけで250店ぐらいの酒屋がありましたから、相当な量のアルコールをあつかったことになります。入社、1〜2年がウィスキーのピークで、2年後から、徐々にウィスキーも下火になってくるのです」。そのウィスキーが下火になってきた4年後の1984年、岡本は花形部門である販売1課へ異動する。新しい部署へ異動し、頑張ろうと思っていた矢先、翌年に業態開発チームへの異動が決定するんです。花形部門から、何をするのかもわからない4人の部門への異動ですから、なんじゃそれって感じですよね」。ところが、この業態開発チームが、サントリーにとって、ひとつのターニングポイントを生み出す仕事をやってのける。岡本がチームに入り初めて出された指令は、「2000円で飲めるオーセンティーックバーを作れ」だった。
オーセンティーックバーとは、本格的なバーテンダーがシェイカーを振る伝統的なバーのこと。当然、価格帯も高い部類に入る。そのバーを2000円で飲めるようにしろ、と。「この価格を実現するためには、従来プロのバーテンダーがやっていたことをアルバイトでもできるようにしなければなりませんでした。そのためには、初期投資はかかりますが、機械化とマニュアル化しかありませんでした。あとはどこで折り合いをつけるか。これで、2000円なら満足。そんなレベルまで調整して、誰もが使えるようにすればよかったのです」。この2000円の本格バーは、「ジガバー」として全国に広がっていく。CAFFE&BARの「PRONTO」も当時の業態開発チームが生み出した。岡本はむろん主力メンバーである。次々ヒット業態を生み出していく岡本に次の指令が下りたのは、1990年、バブルの絶頂の頃である。指令内容は、スーパーポテトへの出向だった。「スーパーポテトといえば、杉本貴志さんがつくられた超有名なデザイン会社です。業態を開発していたら、今度はデザイン!もうビックリですよ」。岡本は、このスーパーポテトに2年半出向している。「さまざまなネットワークができたのは、まさにこの時」と岡本。杉本氏の指示に従い、プロジェクトの指揮を執った岡本は、当時を振り返り「300億のプロジェクトを行ったりと、いままで経験をしたことのない体験をさせていただきました」とも言っている。
このスーパーポテトへの出向が解かれたのは2年半後。ふたたびサントリーのグルメ事業部に戻った岡本は、2002年、当時の上司に呼ばれ、1年前に立ちあがったばかりの外食事業部に配属される。事業部といっても当時のメンバーは、その上司と岡本の2人。「追加でもう1人、女性を加えてもらい、なんとかかたちになった」と言っている。この外食事業部を軌道に乗せた岡本に、新たな指令が下った。指令内容は「井筒まい泉」のM&Aをまとめる、との内容だった。一介の主婦だった創業者・小出千代子がつくり育てた「まい泉」という老舗のレストランへの出向。「まい泉」は「とんかつ」が有名で、レストラン以外にも、デパ地下にショップを展開するほか、カツサンドを高級スーパーやキヨスクに卸したりもしている。その企業のM&Aを成立させ社長としての出向だった。数々の外食事業を育ててきた岡本にとってみても、むろん未知の世界だ。「当時、売上こそ70億円程度あったが、経営的にみれば、家業の延長線上にすぎませんでした」と岡本。その老舗をどう引き継ぎ、次世代に残していくか、課題は明確だった。それから2010年現在、3年が経つ。「家業から企業へ」の合言葉のもと従業員一同と共に企業としての基盤整備を進めてきた。現在は仕上げの段階となり、来年以降は新しい展開エリア・ビジネス分野も含め拡大路線に進める方向だという。業態開発のプロとして数々の新業態を成功させてきた岡本が、老舗企業をどのようにして次世代に引き継いでいくのか。この難題の答えに、私たちは、今後の飲食業の新たな姿を見るのではないだろうか。
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