株式会社鉄道会館 代表取締役社長 野ア哲夫氏 | |
生年月日 | 1948年1月11日生まれ。 |
プロフィール | 東京都出身。中学・高校と慶応義塾で学び、東京大学工学部を経て1970年、旧国鉄に入社。1987年の国鉄民営化後、JR東日本開発事業本部用地企画部担当部長などを経て、1994年、「ガーラ湯沢」(スキー場の経営)の社長に就任。1998年にはJR東日本取締役長野支社長、2001年には「ジェイアール東日本住宅開発」社長、そして2005年、「鉄道会館」の社長に就任する。 |
主な業態 | 東京駅改札内地下1階のエキナカ商業施設「GRANSTA(グランスタ)」、同1階のレストラン街「GRANSTA DINING(グランスタダイニング)」をはじめ、八重洲側改札外に「黒塀横丁」「キッチンストリート」「GranAge(グランアージュ)」などのショッピングセンター形態の商業施設を5施設運営するとともに、不動産事業や大丸東京店への賃貸管理などビル管理業務を行なう |
企業HP | http://www.tokyoinfo.com/ |
http://www.gransta.jp/ |
「私が国鉄に入社したのは、1970年です。ちょうど大阪で万国博覧会が行われた年です。入社後、私は建設畑を進みます。国鉄が分割民営化されたのは1987年。もう、23年経ちます。その間、私もJRと共に歩んできたことになります。」民営化される1年前、すでに野アは、大きな業績を残している。「埼京線が池袋で止まっていたんです。ですが、池袋〜新宿間の山手線が大混雑しました。それで貨物線路を利用して、埼京線を新宿まで延長させたんです。」これは、湘南新宿ラインのように貨物線路を旅客用路線に転用する先駆けとなったばかりか、海外でも注目され、カナダ・バンクーバーで開催された「国際交通計画学会」の講演まで行っている。野ア、38歳の時である。民営化後、企画開発を任されるようになり、のちに部長に昇進。1994年には「ガーラ湯沢」(スキー場)の社長に命じられ、スキー客の減少等で悪化していた経営の立て直しを任された。
「中学時代に学校のスキースクールで、スキーに行ったことがあるんです。まったく思うように滑れなかった。それに、寒いでしょ。もう、スキーなんかやるもんか、と。それが、スキー場の経営者になるんですから、戸惑うのも無理ありません。しかしどこに行っても現場第一主義でしたから、このままじゃいかん、リフトの運行員の皆さんと話すためにもスキーを滑って行かなければならなかったので、まじめに練習しました。ワンシーズンもやっていればさすがに上手になって、だんだん好きになっていったんです。」またスキー場ですから、毎日ケガをされるお客様がいらっしゃる。鉄道の安全レベルに慣れている立場から、そのあたりのリスクもカバーしなければいけない。もともと現場に出ていくのが好きなタイプですから、社長である私自身が率先して汗を流しました。みんなで、新しいアイデアを出し合いながら、全従業員と一丸となって再生していったのです」。新しいことに挑戦する時には、まずNOから入らない。YESにするために何をすべきか、社長が率先して行動することで雰囲気が一変した。社員たちの士気が上がる。さまざまなアイデアが功を奏し、業績が傾きかけていたスキー場に、大挙して若者が集まるようになった。従業員たちにも笑顔が戻ったことだろう。ところで、この「ガーラ湯沢」は駅の名称でもある。越後湯沢駅で上越新幹線から分かれた線上にある「ガーラ湯沢駅」は、スキー場利用者のために、民営後、新たに開業した駅である。駅前にスキー場が広がるロケーションは世界でも珍しく、このスキー場の経営者ということで、野アはのちにフランスで開催された「国際スキー・リゾート経営者会議」に日本代表として招かれ、講演している。バンクーバーに続き、2度目の海外講演である。いずれにしても「ガーラ湯沢」は、当時国鉄民営化の一つのシンボルでもあった。このシンボルを蘇生させた意味は大きい。
長野オリンピックが開催されたのは、1998年2月7日から22日まで。20世紀最後の冬季オリンピックでもあった。このオリンピックが開催された年に野アは、「JR東日本取締役長野支社長」に就任している。この大会では上村愛子選手が6位と健闘したこともあって「モーグル」が注目され、花形種目の一つになった。この人気のモーグル選手を長野駅の1日駅長に任命したことをはじめ、長野新幹線を活用した信州周遊の旅や新幹線利用のスキー客の誘致など、野アはユニークな仕掛けを行っている。その後、2001年には「ジェイアール東日本住宅開発」社長に就任。JRブランドのマンションを企画・開発・販売管理するという大変難しい経営の舵取りを任された。かつての国鉄の鉄道マンが、鉄道経営の他、スキー場の経営をやり、今度はディベロパー会社の経営者になる。とにかく、忙しい。
忙しい転身はまだ続く。2005年、野アは「鉄道会館」の社長に任命された。「鉄道会館」といえば1952年、野アが生まれて4年後に設立した歴史のある会社だ。街づくりのプロデューサー的な役割を担う生活サービス事業を行っている会社だ。東京駅の開発は、鉄道と生活サービス事業の接点であり、鉄道に詳しいからこそできうる事業でもある。現在は、 [1]ショッピングセンター事業(黒塀横丁・キッチンストリート・グランアージュなど)[2]直営事業(グランスタ・グランスタダイニングなど)[3]プロパティマネジメント事業の3事業が柱だ。さて、注目すべきはここからで、野アが鉄道会館の社長に就任すると同時に、東京駅という巨大なマーケットスペースが、再起動し始めるのである。「Tokyo Station City」というコンセプトと共に。「東京駅」という「街」を作り出すのが、野アの仕事になっていく。
久しぶりに東京駅に降り立った人は、驚かれるのではないか。まず、地下空間が一変している。2007年、改札内のB1にオープンしたエキナカ商業施設「GRANSTA」のせいだ。野アが社長に就任後、スタッフ一丸となって徹底的なマーケティングを行い、理想の商業空間をつくりだした。エキナカでは、ほかではないコンシェルジュ・クロークや32カ国可能な外貨両替という新サービスも開始した。超有名店とコラボし、ここでしか「買えない」「食べられない」東京駅限定商品なども開発した。3週間ごとに店舗を変える催事場なども設け、お客様に飽きられない工夫もしている。コンセプトは「東京プレシャスメモリー」。東京駅が、情報発信のチカラを持つようにもなった。旅の、また通勤や通学の途中に通過する「駅」が、目的地となっていくのである。
まさに、街づくりだ。東京駅は通り過ぎる「駅」から、訪れる「街」になろうとしている。いい例がある。「日本橋錦豊琳」という「GRANSTA」内にある「かりんとう」専門ショップの話である。この「かりんとう」専門店はもともと製造会社だった。それを社員が見つけ、ショップとして出店してもらったわけだが、これが大ヒットする。長蛇の列ができ、長い時には2時間待ちにもなる。GRANSTA発の人気店を生み出した例だ。こうなるともう、通り過ぎる「駅」であるはずがない。わざわざ「東京駅」に足を運んでくださっているのだ。ついで買いのエキナカが、目的買いのエキナカに進化し、鉄道を利用するお客様を創造していると言える。「東京駅」の進化はまだまだ続く。2010年12月、東北新幹線青森開業日と同日に、1Fにエキナカ・レストラン施設「GRANSTA DINING」がオープンした。いよいよ、野アが思い描いていたコンセプト“東京駅が街になる。”が実現しそうだ。この中心部には、シンボルとなる柱時計があり、地方のさまざまなお箸を展示した「箸ら時計」がある。若手の意見も積極的に採用し、ユニークで活況な街づくりに取り組む野アだが、その一方で共栄共存、周辺の施設に対する配慮も忘れてはいない。東京駅でのみ人の流れを回遊させるのではなく、東京駅を起点に、周囲へと人が流れる工夫も行っている。 さらに、各県の食材などをPRするイベントにより、東京駅からの地方情報の発信、地方活性化にも力を尽くしている。 「東京駅」という街を変えた男。そう、これからはそう言われるかもしれない。だが、まだスケールの大きな野アのなかでは完成には至っていないのかもしれない。未完であるがゆえに、魅力がある。私にはそう思えてならない。
1986.9.13 「国際交通計画学会」での講演 カナダ・バンクーバー |
1996.4.9 「国際スキー・リゾート経営者会議」 での講演 フランス・クールシュベル |
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