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第206回 株式会社物語コーポレーション 代表取締役社長 小林佳雄氏
update 11/02/15
物語コーポレーション
小林佳雄氏
株式会社物語コーポレーション 代表取締役社長 小林佳雄氏
※2011年7月6日現在、代表取締役会長・CEO
生年月日 1948年1月11日生まれ。
プロフィール 愛知県豊橋市出身。慶應義塾大学商学部卒業後、首都圏で洋食・フランス料理店等を展開するコックドール株式会社に入社。2年後、同社を退職し、株式会社みなとで板前修業を開始。2年後、母が経営する株式会社げんじに入社。当時、低迷していた売上を一気に伸ばし、1980年、代表取締役社長に就任。株式会社げんじは、1997年に、現在の株式会社物語コーポレーションに社名変更。現在「Smile & Sexy」を経営理念に「焼肉きんぐ」「丸源ラーメン」などを全国展開している。東証2部上場。
主な業態 「焼肉きんぐ」「焼肉一番かるび」「丸源ラーメン」「お好み焼本舗」など
企業HP http://www.monogatari.co.jp

うちはお金持ち、の妄想。

感受性の強い少年だったのだろう。周りからどう観られているのか、が気になった。だからといって委縮しているわけではなく、周りの目を気にするから、逆に明るく、元気に振る舞った。だからいつも級長。成績も優秀だった。お金に不自由したこともない。そのぶん、何かに必死に打ち込むこともなかった。1949年1月、小林は愛知県豊橋市に生まれる。終戦から4年。復興の足音もまだ頼りない時代。貧困な家庭が少なくないなか、小林家はどちらかといえば裕福な家庭だった。幼少の頃から、絵画、バイオリン、バレーを習いに行っているぐらいだから、暮らしぶりはほぼ想像できる。「うちはお金持ち」と小林が思い込んでいたのも無理のない話だ。父は、大手企業に勤めるサラリーマン。母は商才に長け、小林が少年になる頃には飲食店を3店舗経営していた。実は、この母が経営していた飲食店が、物語コーポレーションの礎になる。だから、母、小林きみゑが、先代にあたる。ちなみに、1号店が誕生したのは1949年の12月。店名は「「酒房源氏」。母、きみゑは店を始めて間もなく、長男と1号店という2つの大事な宝物を手にしたことになる。

肝っ玉かあさんからの逃亡

父からは怒られた記憶がない、と小林。一方、母からはきびしく躾けられた。「肝っ玉かあさん」と小林がいう母からみれば、いつも級長に抜擢されるような小林も頼りない少年に思えてならなかったのかもしれない。当然、小林の精神のなかには、母から躾けられ、教えられたことが色濃く定着している。ただ、多くの子どもがそうであるように、母の躾や教育は、少年小林にとってもありがたいものではなかった。実際、大学受験を機に、母から逃げ出すように東京で一人住まいを始めている。1968年、小林は慶応義塾大学に進んだ。有名大学に進学したものの、小林いわく、「まるで勉強もしない、チャランポランな学生だった」そうだ。そのくせ、単位はうまくとった。ゼミにも先輩を上手に使って潜り込んだ。遊び回って迎えた大学4年の就職活動。大きな選択を迫られてもなお、小林はさまよえる青年のままだった。「当時のぼくは、いい会社に就職しないとカッコ悪いと思うタイプです。頭を何度も叩かれているのにまるで大事なことに気づかない。このまま就職しないのもカッコつかないから、親から100万円ふんだくって、1年間の休学届を出し、アメリカにトンズラした。最初は勉強するぞと意気込んで海を渡ったんですが2ヶ月で意志は砕け、結局、遊んで帰ってきた」。「うちはお金持ちで、オレは長男だし、家に帰れば二代目だ、なんて気持ちがあったのでしょうね。ただそれをするにしても、卒業してまっすぐ帰るのはカッコ良くない。だからフォーシーズンなどでブレイクしていた洋食・フランス料理店のコックドールに腰かけ程度に就職するのです。大学卒業してすぐにかみさんとも結婚。人生、なめ切っていますよね(笑)」。ただ、それが小林にとっては素直な生き方だった。ちなみに渡米での経験はある意味、無駄ではなかった、と後になって振り返る。アメリカ人たちの屹立した生き方に影響されたから。とはいえ、それはまだ心の奥底でかたちさえなさない「想い」だったのだが。

凱旋。だが、乗り超える壁、高し。

1973年、大学を卒業した小林は、それから2年間、フランス料理のウェイターや板前修業を経験した。なかば、予定通りの行動。会社(すでに1969年に法人化している)を引き継ぐという魂胆をあからさまに悟られぬよう胸にしまい、妻と共に豊橋に凱旋した。いずれオレも経営者、不遜な思いがからだいっぱいに広がる。懐かしい店ののれんを潜ったときには、晴れがましさでいっぱいだった。だが、店内の様子がずいぶん違った。「うちはお金持ち、と思っていたでしょ。それは店が流行っているからで。でも、もうぜんぜんダメになっていて。昔に比べればガラガラで、アレって感じです。『お前のために、料理人に一人辞めてもらった』っていう母の言葉を聞いて愕然としました」。「おでんがもう古かったのでしょうね。だから、ぼくも、必死になっていろいろ提案した。でも、なかなか母に受け入れてもらえず、実は、また母から逃げ出すんです」。これが株式会社みなとでの修行の始まりとなる。

「お寿司と団子のお店」開業。見事、ズッコケた。

「イトーヨーカー堂さんが、豊橋に出店されるというんで、これからはファストフードの時代だよな、なんて思って2年勤めたみなとさんを卒業させてもらって、ヨーカー堂のフードコートに『お寿司と団子のお店』をオープンさせたんです。まったく実績がないのに、よく出店させてくれたと思いますが、プレゼンテーションは抜群にうまいんです。まぁ、7坪の店だし、やらせてみるかって感じだったんだと思いますよ。ヨーカー堂さんにしたらね」「これが、まったくダメ。たくさんのお客様が、あちこちのお店で列を作っているのに、うちの店だけ誰もいない。あの光景みたら顔が引きつりますよ。それでも、ぼくはまだアカンかった。ぼくは、お寿司が握れないから知り合いの人に来てもらっていたんですが、その人が売れ残りをワゴンに乗っけて『安いよ』なんて売り歩いてくれているのに、社長のぼくは半年も、それができなかった。どうしてかって? そんなことしたらカッコ悪いでしょ」。ちょうど、そんな時、母が経営する株式会社げんじでも、変化があった。「私の代わりに採用した板長が凄くできる人でした。母も一目置いていたのでしょうね。その人が母に、私が以前提案したのと同じ提案をしたんです。それで、『それならやってみてはどうか』ということになったんです」。ズッコケたのち、小林は、ついにほんとの凱旋の時を迎える。学生時代の予想と反し、たまたま助っ人に救われた、ずいぶんカッコ悪い帰還だった。

売上3倍。小林の才能開花か?

「それは、それは、カッコいい店です」と小林は胸を張る。10坪の小さい店だが、カウンターに生簀があり、床の下でも魚が泳いでいる。照明も工夫した。花板は、母に小林と同じ提案をしてくれた職人。新鮮な魚介類を仕入れるルートもつくった。母が作った、「酒房源氏」が、小林によって「大衆活魚料理店 源氏本店」に生まれ変わる。板長の評判も高く、スグに人気店に。売上は3倍に一気に駆け上がった。小さいが、粋な店。料理もうまい。客単価は1万円に迫ったが、それでも客足はたえなかった。できる経営者、小林誕生かと思わせたが、そう思えたのは、花板が辞めるまでの短い期間だった。

指切り板長、客をなくす。

経営者として、手応えを掴んだ。そんなとき、花板の料理長の首を切った。「彼にはいまでも感謝しています。すごくできる人だった。でも、ね。生活がちょっと乱れていた。それで辞めてもらったんです」。でも、そのあとがたいへんだった。だれも板長になれる人間がいなかったからだ。結局、小林が包丁を握ることになる。それで痛感したことは、店は、花板の彼のおかげで成り立っていたということだった。彼が中心にいてくれたから、活気もあった。小林が代わりに包丁を握ったとたん、雰囲気までいっぺんした。「そりゃ、そうですよね。もう、私の素性はみんなに知れていますから、みんなバカにしているんです。だから、煮物など後ろの人がする料理を指示するときも、『すいません。煮魚一匹、お願いします』、みたいな。小気味いいやりとりなんてできません。何より鮮明に覚えているのが、最初にいただいたオーダーです。ハゼの洗いでした。うちの花板にとっては最大の見せ場です。生簀の魚が掬われ、まな板の上に放される。跳ねる魚を押さえ、手際良く洗いにする。スポットライトが一部始終を照らす。そんな手はずです。でも、ぼくはもう、逃げ出したくて仕方なかった。包丁がふるえて止まりません。それで、いきなり指を切っちゃったんです。もう、血がダラダラ流れて。それでも途中で辞めるわけにはいかないから、だんだん、魚の血も交じって。血は氷水で締めるから落ちるんですが、そりゃぁいい気はしませんよね。あれから客がさーっといなくなった。あのときほど落ち込んだ時もありませんでした」。最高にカッコ悪かった。誰のせいにも、何かの責任にすり替えることもできなかった。もちろん、もう逃げるところも、ない。

丸坊主の店主、誕生。

苦難がつづいた。従業員は引き留めても辞めていく。客足は戻らない。どこに問題があるのだろう。そのとき「オレ自身が、優れた職人になるか、また話に来たくなるような店主になるか、どちらかだ」と心を決めた。「経営者としては、優れていた」といまでも思う。だが、その小さな店に経営者という立派な飾りはいらなかった。反省という意味ではない。この段になって初めて小林は戦う人になった。頭を丸め、ダボダボの服を着た。ブランド品はすべて捨てた。モテそうだからと使っていた標準語も、三河弁に切り替えた。趣味は、水族館と、魚の図鑑と、料理本というほどのめり込んだ。周りの目を気にする暇もなかった。料理に打ち込んだ。1日18時間ぐらい働いた。寝坊したら魚が仕入れられないからと魚市場のなか、軽四の運転席で眠ったこともある。「いま考えればあの頃のぼくが一番、カッコ良かったんじゃないかな。坊主頭だし、服装もダボシャツだし、ズボンもポリエステルの安もんしかはいていないのにね。言葉だって、三河弁。ダサイはずなのにね」「毎日、毎日魚と料理のことばかり。そのおかげで、結局、豊橋で1・2を争う腕のいい職人になることができた」。花板が抜け、底辺をさまよっていた、ガラガラの店に徐々に客が戻ってくる。後に専務になる人材も入社してくれた。彼にホールを任せることで、客足はさらに伸びた。料理人の後継者も育つ。花板、小林は、さらにクリエイティブな仕事をしていくようになる。ここまでが、高級料理店の話。迷いつつ辿り着いた職人の世界の話である。

1億5000万円の賭けに勝つ。

ふたたび、「源氏本店」はにぎやかな店になった。1989年2月、小林は、新たな賭けにでた。投資額、1億5000万円。その資金で「しゃぶ&海鮮源氏総本店」を豊橋市向山町にオープンさせたのである。この賭けには、もうひとつの意味があった。小林が、もう一度、職人から、経営者になれるかどうかの、賭けだったのである。個店から、チェーン店に、従業員たちを育てていくためには、それが最良の方法だった。この賭けには、見事に勝利した。「しゃぶ&海鮮源氏総本店」は狙い通り、爆発的なヒットを飛ばした。調子に乗って、2号店目を浜松に出店。2億円かけたが、こちらは失敗。だが、意に介さない。介さないようにふるまった。周りに笑われたくなかったからではない。従業員のために、彼らの意志を萎えさせたくなかったからだ。問題があきらかだったことも幸いした。商圏が店の規模に比べ小さ過ぎたのだ。さっそくプロジェクトを立ち上げ、小商圏でも成り立つ新たな業態開発を命じた。1年後、プロジェクトチームは一つの答えを出した。だが、小林の答えはNO。小林は焼肉店の構想をあたためていたのである。

小商圏でも成り立つ焼肉店「焼肉一番カルビ」オープン

従業員、とりわけ職人たちは反対した。それもそうだろう。豊橋で1・2を争う名店だ。それがなぜ、焼肉店なのか。平たくいえば「そんなお店では、カッコ悪くて働けない」という気持ちだったのではないだろうか。賛成してくれたのはいまの専務と、現、商品開発部長の2人だけだった。この賛成がありがたかった。これが、のちに全国に広がる焼肉店「焼肉一番カルビ」1号店の、オープン秘話である。この後の快進撃については、ホームページに委ねよう。優れた経営者、小林佳雄の軌跡も。ところで、1997年に、小林は、それまでの社名、株式会社げんじを株式会社物語コーポレーションに社名変更している。社員たちがまったく投票しなかった社名だという。「合議制で決める手もある。だけど、肝心なことは社名について熱く語れるかどうか。だから、ぼくがその成り立ちを熱く語れる社名にしたんです」。会社や職場は、スタッフにとって、それぞれの自分物語をつむいでいく舞台。たしかにそうだ。お店もまたそうであるに違いない。客にとっても同様であろう。実際、物語コーポレーションは、誕生以来、いくつもの物語を生んできた。それが誇らしい。いうまでもなく、まっさきに物語をつむいできたのは、小林、その人である。だから、飲食はおもしろい。

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